第30話: 子守唄の要らない朝が、来るまで
ヴァルトハイム城に、穏やかな季節が、巡ってきた。
かつて、嵐に閉ざされ、何も育たなかった城の庭は、今や、見渡す限りの、花で溢れている。
とりわけ、あの淡く輝く氷の薔薇は、城壁いっぱいに咲き誇り、訪れる者を、優しく迎えた。
夜啼きの呪いは、解けた。
ジルヴェスター様は、もう、嵐に怯えることも、悪夢にうなされることも、なくなった。
けれど――変わらないことも、あった。
「セレスティア」
その夜も、寝室を訪れた彼は、当然のように、寝台の隣を、ぽん、と叩いた。
ここに来い、と。
「閣下。もう、呪いは解けたのですよ? 私が歌わなくても、お休みになれますわ」
私が、くすりと笑って言うと、彼は、ばつが悪そうに、目をそらした。
「……わかっている。だが」
彼は、少しだけ、頬を赤らめて、言った。
「お前の歌が、ないと。……どうにも、調子が、出ないのだ」
まあ、と、私は、口元を押さえた。
呪いが理由でないのなら、それは、もう、ただの――。
「ふふ。閣下。それは、つまり」
「……言うな」と、彼は、私を、ぐいと引き寄せ、その腕の中に、閉じ込めた。「言わずとも、わかるだろう」
彼の腕の中は、もう、氷のように冷たくは、なかった。
ただ、あたたかく、安心できる、私の居場所だった。
「セレスティア」
彼の声が、私の耳元で、低く、囁いた。
「お前を、生贄として迎えたあの日。私は、お前に『子守唄など要らぬ』と言った。……あれは、私の、人生で最大の、過ちだった」
「閣下……」
「お前の歌は、私の呪いを解いた。だが、それだけではない。お前は、私の、凍りついていた心そのものを、溶かしたのだ。……愛している。セレスティア。お前がいなければ、私はもう、眠ることも、笑うことも、生きることもできない」
不器用な人が。
いつも、命令の形でしか、想いを伝えられなかった人が。
今、初めて、まっすぐな言葉で、愛を、告げてくれた。
私の目から、涙が、こぼれ落ちた。
けれど、それは、もう、あの薄物一枚で生贄に出された日の、惨めな涙とは、まるで違う。
幸せで、幸せで、こぼれてしまう、涙だった。
「私も、愛しております。ジルヴェスター様」
初めて、彼の名を、呼んだ。
「『無能』と捨てられた私を、必要としてくれて。私の歌を、世界で一番、大切にしてくれて。……あなたのおかげで、私は、私の居場所を、見つけました。もう、どこにも、行きません。いつまでも、あなたのお傍で、歌わせてくださいませ」
氷の薔薇の輝く、穏やかな夜。
私たちは、そっと、口づけを交わした。
二十年の時を超えて巡り会った、母の歌の旋律が、まるで二人を祝福するように、どこからか、聞こえた気がした。
◇◇◇
あの日、薄物一枚で、荷馬車に乗せられ、捨てられた少女は。
今、嵐の辺境を護る、愛される公爵夫人になった。
いつか、彼の呪いが完全に過去のものとなり、私の子守唄が、本当に「要らなくなる」朝が、来るのかもしれない。
けれど、たとえそうなっても、私は、きっと、歌い続けるだろう。
眠るためではなく――愛する人の隣で、ただ、幸せだから。
もっとも。
遠い王都の、最も深い場所で、まだ誰も知らない、古い秘密が、静かに、目を覚まそうとしていることを。
そして、その最初の軋みが、次の新月の夜に、もう、すぐそこまで来ていることを。
この時の私たちは、まだ、知らなかったのだけれど。
今はただ、長い夜を越えた二人に訪れた、あたたかな朝を。
どうか、祝福してくださいませ。
――第一部 「眠れぬ城の子守唄」、完。
物語は、次話より第二部「夜啼きの呪いの、本当の起源」へ――
最後までお読みいただき、本当に、本当にありがとうございました。
第1話から第30話――「無能」と捨てられた歌い手セレスが、眠れぬ公爵を救い、母の真実にたどりつき、自らの居場所と世界一甘い愛を勝ち取るまで。第一部は、これにて一区切りです。
氷の薔薇の城での愛の告白、楽しんでいただけましたでしょうか。
不器用な公爵様が、ようやく素直になれた瞬間を、心を込めて書きました。
――ですが、二人の物語は、まだ半分も終わっていません。
砕いたはずの呪いが、月に一度だけ軋む夜。叔父では作れないはずの、古すぎる呪具。そして、王家が三百年ぶん償っていない、古い罪。
その謎を追って、次の第31話から、第二部「夜啼きの呪いの、本当の起源」が始まります。
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皆様の応援が、眠れぬ城に寝息を取り戻した、セレスの子守唄になります。
次回、第31話「子守唄の要らない朝に、招待状が届いた」でお会いしましょう。




