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第28話: 夜啼きの呪いに、名前を

 吹雪の幻影がジルヴェスター様を、飲み込んだ。


「ぐ……っあ……!」


 彼は馬から崩れ落ち、地に膝をついた。


 音が、消えた。


 嵐も馬蹄も悲鳴も、全部そこにあるのに、私の耳には何も入ってこなかった。

 この人が倒れた、それだけが耳を塞いでいた。

 その瞳が虚ろになっていく。

 叔父の呪具が彼の最も深い傷――白雪の戦の記憶を、増幅し、彼の心を内側から壊そうとしている。


「閣下!」


 私は馬を飛び降り、彼に駆け寄った。

 けれど彼はもう私の声が、届かないところにいた。


 幻影の吹雪の中。

 彼は四年前のあの夜を、繰り返し、見せられていた。

 救えなかった部下。凍えていく避難民。「なぜ助けなかった」と、彼を責める、亡者たちの声。


「すまない……っ、すまない……私が、もっと強ければ……!」


 彼の魔力が苦悶に呼応して、暴走を始めた。

 今度こそ、制御を失いかけている。

 歌で嵐を鎮めることは、できる。

 けれど彼の心の傷そのものを、外から癒すことは――。


 その時、私は悟った。


(鎮めるだけではだめ。私が彼の見ている悪夢の、中へ――)


 やり方は、知らなかった。


 母の楽譜にも、そんなことは書いていない。

 ――けれど母は、書かなかっただけかもしれない。

 書いて残せば、誰かがまたそれを兵器と呼ぶから。


 私は目を閉じ、彼の冷えきった手を、両手で強く握りしめた。

 そしてこれまでで最も深く、最も祈るように、歌い始めた。


 鎮魂の歌い手の本当の力。

 それはただ眠らせることでも、嵐を鎮めることでもない。

 苦しむ者の心の最も深い場所まで届き、その傷にそっと寄り添うこと。


 歌の中で私の意識は彼の見ている、吹雪の世界へと、入り込んでいった。


 ◇◇◇


 そこは白く凍てついた、絶望の世界だった。


 一人、雪の中に膝をつき、頭を抱えるジルヴェスター様がいた。

 その周りを恨めしげな亡者たちが、取り囲んでいる。


「ジルヴェスター様」


 私はその背にそっと声をかけた。


「セレス、ティア……? なぜ、ここに。ここは私の罪の世界だ。お前のいる場所では……」


「いいえ」と私は首を横に振った。「あなたが苦しむ場所なら、私はどこへでも参ります。……閣下。一つだけ聞かせてください。あの夜、あなたは何をしようと、なさったのですか」


「……皆を、助けようとした。だができなかった」


「ええ。あなたは助けようとした。たった一人で、吹雪の中へ飛び込んで。ご自分の身を、盾にして」


 私は彼の前に膝をつき、その頬を両手で包んだ。


「ブリュンヒルデ様は、あなたに救われました。あの夜、あなたが助けた人たちは今も、あなたのために戦っています。……あなたは救えなかったのではない。救えた命の数を数えようとしなかった、だけなのです」


 亡者たちの姿が、ゆらりと揺らいだ。

 その表情が恨みから――哀しみへと、変わっていく。

 彼らは彼を責めてなど、いなかった。

 ただ彼がいつまでも自分たちを背負って、苦しんでいることを哀しんでいたのだ。


「閣下。あの方たちはあなたを赦しています。……だからどうか、あなたも、あなた自身を赦してください」


 ジルヴェスター様の、暗い金の瞳から。

 ひとすじ涙が零れ落ちた。


「……私は赦されて、いいのか。眠ってもいいのか」


「ええ」と私は微笑んだ。「あなたには安らかに眠る資格があります。私が毎晩、お傍で歌いますから。……もう、悪夢には渡しません」


 私は彼をそっと抱きしめ、最後の一節を歌った。


 その瞬間。

 吹雪が止んだ。


 白い世界にあたたかな陽が、差し込む。

 亡者たちは穏やかな顔で、光の中へと消えていった。

 四年間、彼を縛り続けてきた、罪の鎖が――ついに、ほどけたのだ。


 ◇◇◇


 現実の戦場。

 ジルヴェスター様を蝕んでいた、黒い呪具が。

 パキィン――と、音を立てて、砕け散った。


 彼の中に根を張っていた、夜啼きの呪い。

 その根が彼自身が自分を赦したことで、ついに力を失ったのだ。


 これで、この人は眠れるようになるのだろうか。

 私が歌わなくても。


 ――そう思ったら、嬉しいはずのところで、少しだけ胸が冷えた。

 その冷たさに名前をつけないまま、私は立ち上がった。

 今日は、名前をつけるべき日ではない。


「これが……眠れる、ということか」


 ジルヴェスター様が、ゆっくりと立ち上がった。

 その顔から四年分の苦悶が、消えていた。

 憑き物が落ちたように、晴れやかで――そして、誰よりも優しい顔だった。


 風が、戻ってきた。


 ふつうの風だった。

 草を撫で、旗をゆっくり揺らして通り過ぎていく。

 この土地にこんな風が吹くのだと、私はその日初めて知った。


 呪具を砕かれた叔父アーダルベルトは、もはや、戦う術を失い、その場にへたり込んでいた。


「捕らえよ」とジルヴェスター様は、静かに命じた。「簒奪者アーダルベルトを。……王の御前で、すべての罪を語ってもらおう」

第1部の、いちばん深いところでした。


夜啼きの呪いの正体は、この人自身の、消えない罪悪感でした。叔父が仕込んだ呪具は、きっかけにすぎません。


悪夢の中へ入るやり方を、セレスは知りませんでした。母の楽譜にも書いていない。けれど母は、書かなかっただけかもしれません。書いて残せば、誰かがまたそれを兵器と呼ぶので。


亡者たちは、彼を責めてなどいませんでした。ただ、彼がいつまでも自分たちを背負って苦しんでいることを哀しんでいた。あなたは救えなかったのではない、救えた命の数を数えようとしなかっただけなのだ――この一行を書くために、第6話からここまでを積んできました。


呪いが解けたあと、風が戻ってきます。ふつうの風です。草を撫で、旗をゆっくりと揺らして通り過ぎていきます。この土地にこんな風が吹くのだと、彼女はその日初めて知りました。


もう一つ。嬉しいはずのところで、彼女の胸が少しだけ冷えます。その冷たさに名前をつけないまま、彼女は立ち上がりました。今日は、名前をつけるべき日ではないのです。


次回、第29話「すべての嘘が、夜明けに溶ける」でお会いしましょう。

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