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第27話: 嵐を歌う、戦場の子守唄

 領境の平原で両軍は対峙した。


 風が、無かった。


 嵐の辺境で風が無いというのがどれほど不吉なことか、私はもう知っていた。

 この人が息を詰めているときだけ、この土地の風は止まる。


 ヴァルトハイム公爵軍と、叔父アーダルベルトの私兵。

 そして――叔父が、どこからか集めた、異様な数の魔獣の群れ。


「あれは……っ」と、ブリュンヒルデが息を呑んだ。「呪具で魔獣を操っている! 奴は戦の混乱を、すべて閣下の暴走のせいにするつもりです!」


 叔父の高笑いが、戦場に響いた。


「さあ、ジルヴェスター! その忌まわしい力を、存分に振るうがいい! そして、自らの領をその手で焼き尽くすがいい! 哀れな、呪われた獅子よ!」


 その声を聞いて、私は馬上で背筋を伸ばした。


 高笑いというものを、私は屋敷でさんざん聞いてきた。

 義母も義妹も、笑いながら人を潰した。

 笑っている人は、こちらが泣くのを待っている。

 ――だから、泣かなければいい。


 ジルヴェスター様は、答えなかった。

 ただ静かに片手を天にかざした。


「セレスティア」


「はい」


「頼む」


「――お任せを」


 彼が力を解き放った。


 ゴォォォッ――と天が割れた。


 音が、痛かった。


 城で聞いていた嵐は、この人が押さえつけたあとの音だったのだ。

 押さえていないものは、耳ではなく腹に来る。

 彼の呼んだ嵐が、魔獣の群れへと、容赦なく叩きつけられる。

 稲妻が大地を裂き、暴風が敵を吹き飛ばす。

 それは四年間、彼が封じ続けてきた、本来の力。

 嵐を統べる、武門の公爵の、真の姿だった。


 けれど――力を使えば、呪いが牙を剥く。

 案の定、彼の体の奥で暴走の兆しが、ざわりと頭をもたげた。

 制御を失えば、嵐は敵も味方も、区別なく飲み込んでしまう。


 その瞬間。

 私は馬上で声を張り上げた。


「……ねむれ、ねむれ。風のこ、嵐のこ――」


 戦場に子守唄が響き渡った。


 届くはずがない、と思っていた。


 千の馬蹄と、鉄と、悲鳴の上に、子守唄が乗るはずがない。

 ――乗った。


 この歌は、大きな音に勝つのではない。

 音と音の隙間を通っていくのだ。

 歌劇場の高い天井で覚えたことが、ここで役に立った。


 暴走しかけた嵐が、私の歌に導かれていく。

 荒れ狂う魔力が私の旋律に絡め取られ、敵だけを撃つ、制御された刃となる。

 味方の兵士たちは私の歌を聞くと、不思議と、恐怖が消え、心が凪いでいくのを感じた。


 あとから聞いた話だ。


 あの日、前線にいた若い兵は、槍を構えたまま泣いていたという。

 怖くて泣いたのではない。

 「母が昔、同じ歌を歌っていた気がした」と、その子は言ったそうだ。


 同じ歌のはずはない。

 けれど、そういうものなのだと私は思った。

 鎮魂の歌は、聞いた人それぞれの、いちばん古い夜を連れてくる。


「奥方様の歌だ! 歌が聞こえる限り、閣下の嵐は我らを傷つけない!」

「恐れるな! 前へ! 閣下と奥方様が、ついていてくださる!」


 ジルヴェスター様の力と、私の歌が一つになる。

 彼が嵐で薙ぎ払い、私が、その嵐を味方を護る盾に変える。

 二人で一つの無敵の力だった。


 私が声を伸ばすたび、彼の嵐は形を変えた。

 それが分かるのは、この戦場で二人だけだった。

 誰にも見えない糸で、私たちは繋がっていた。

 寝台の縁で結んだ糸だ。

 切れないことだけは、二人とも知っていた。


 ブリュンヒルデも、銀の甲冑を翻し、奮戦した。


「白雪の戦の借りはここで返す! 閣下を、二度と、独りでは戦わせぬ!」


 その太刀筋に、あの日の練兵場と同じ間隔があった。

 踏み込み、風を切り、止めの息。

 この人は戦場でも数えている。


 戦況は瞬く間に傾いた。

 操られた魔獣は、次々と眠りに落ち、私兵は戦意を失っていく。

 叔父の高笑いは、いつのまにか、消えていた。


「ば、馬鹿な……っ、呪いが暴走しない、だと……!? なぜだ、なぜ、暴走しない!」


 叔父アーダルベルトの顔が、初めて、恐怖に歪んだ。

 その顔から、笑みが消えていた。

 笑みの下にあったのは、老いた男の怯えた顔だった。

 彼の計算にはなかったのだ。

 ジルヴェスター様の弱点であったはずの「呪い」が、私の歌によって、無力化されることなど。


「叔父上」


 ジルヴェスター様が馬を進め、追い詰められた叔父の前に立ちはだかった。


「あなたが私の弱点だと思っていたものは――今や、私の最大の力だ」


 その時。

 追い詰められた叔父が、懐から、ひときわ大きな、黒い呪具を取り出した。

 それは毒々しい光を放ち、おぞましい気配を撒き散らしている。


「ならば……っ、ならば、貴様の、心そのものを壊してくれる!」


 叔父がその呪具を掲げた。


 次の瞬間。

 ジルヴェスター様の周囲に白い、冷たい――吹雪の幻影が渦を巻き始めた。


 四年前のあの夜の光景が。

 救えなかった者たちの、亡霊が。

 彼の最も深い傷が――今、実体となって、彼を襲おうとしていた。

戦場の子守唄でした。


平原に着いたとき、風が無かった。嵐の辺境で風が無いというのがどれほど不吉なことか、セレスはもう知っています。この人が息を詰めているときだけ、この土地の風は止まるのです。


押さえていない嵐は、耳ではなく腹に来る。城で聞いていた嵐が、この人が押さえつけたあとの音だったことも、ここで分かります。


届くはずがないと思っていました。千の馬蹄と鉄と悲鳴の上に、歌が乗るわけがない、と。乗ったのは、この歌が大きな音に勝つのではなく、音と音の隙間を通っていくからです。歌劇場の高い天井で覚えたことが、ここで効きました。


前線にいた若い兵が、槍を構えたまま泣いていたそうです。母が昔これと同じ歌を歌っていた気がした、と言ったのだとか。同じ歌のはずはありません。けれど鎮魂の歌は、聞いた人それぞれの、いちばん古い夜を連れてきます。


叔父の顔から笑みが消えたあとに残っていたのは、老いた男の怯えた顔でした。


二人で一つになるところが好きだと思ってくださった方は、どうか【ブックマーク】を。

皆様の応援が、眠れぬ城に寝息を取り戻すセレスの子守唄になります。


次回、第28話「夜啼きの呪いに、名前を」でお会いしましょう。

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