第26話: 「呪われた公爵に領は治められぬ」
叔父アーダルベルトの私兵が、領境に迫っている。
その報せは瞬く間に城中を駆け巡った。
鐘が鳴った。
私はその鳴らし方を、この城で初めて聞いた。
嵐でも祭でもない鳴らし方だ。
厨房の下働きの子が、盥を抱えたまま廊下で立ち止まっていた。
城の人たちは、走らなかった。
誰も走らずに、それぞれの持ち場へ歩いていった。
――四年前にも、この鐘は鳴ったのだ。
「閣下。いかがなさいます」とブリュンヒルデが、剣の柄に手をかけた。「叔父君は、『後見人として領を保護する』という大義名分を掲げております。我らが先に手を出せば、それこそ、相手の思う壺。叛逆者の汚名を着せられます」
「わかっている」と、ジルヴェスター様は低く言った。「だが領民を見殺しにはできん。……奴の本当の狙いは私を、戦場に引きずり出すことだ」
「と、おっしゃいますと?」
「叔父は知っている。私が力を使えば、呪いが暴走することを。私を煽り、大規模な力を使わせ、その暴走で領を荒らさせるつもりだ。そうすれば、『呪われた公爵が、自らの領を破壊した』という、動かぬ証拠ができる。……廃嫡の口実が」
なんという狡猾さ。
叔父はジルヴェスター様の、最大の弱点――呪いそのものを、武器に変えようとしていた。
弱点、という言い方が、私は嫌だった。
この人の呪いは、人を助けようとしてできたものだ。
助けようとした跡を弱点と呼ぶ人が、この世にはいる。
――そういう人が、いつも勝ってきたのだ。
けれど今度は、勝たせない。
助けようとした跡を、私は知っている。
魔獣の群れを退けて戻った夜の、袖口の黒い染み。
鎮魂祭の前後を七日、眠らずに悼んできたのだという話。
――この城へ来てから、私はそういうものを一つずつ拾ってきた。
戦えば、呪いが暴走し、領が荒れる。
戦わなければ、領民が、私兵に蹂躙される。
どちらに転んでも、彼が窮地に陥るように、仕組まれた、罠だった。
私は、叔父様のあの冷たい手を思い出した。
あの人は四年かけて、この一日を作った。
呪具を仕込み、噂を育て、楽長と手を組み、私を攫おうとし、それが全部だめになってから――ようやく、兵を出した。
兵は、あの人のいちばん後ろの手だったのだ。
「……閣下」
私は一歩前に進み出た。
「その罠、私が打ち破ります」
ジルヴェスター様が、驚いたように私を見た。
「閣下が力を使えば、呪いが暴走する。なら――その暴走を、私が歌で抑えます。あの、王都の路地でそうしたように」
「セレスティア、だが戦場だぞ。城の寝室とは訳が違う。お前まで危険に……」
「いいえ」
私はまっすぐに彼を見つめた。
「私の歌はもう、寝室の中だけのものではありません。鎮魂祭で歌劇審問で王都の路地で――私は、たくさんの人の前でたくさんの嵐を鎮めてきました。閣下。あなたの嵐も必ず、鎮めてみせます」
私は彼の手を両手で握りしめた。
「だからどうか、恐れずに、力を振るってください。あなたは領を護るために、その力を持って生まれた。その力をもう呪いに縛らせはしません。……あなたの嵐は私が、子守唄にしてみせますから」
言い終えてから、自分の言葉に驚いた。
城へ来た日の私なら、こんなことは言えなかった。
言えるようになったのは、この人が私の歌を必要としてくれたからだ。
――必要とされることは、人をこんなにも図々しくする。
ジルヴェスター様は、しばらく私を見つめていた。
暗い金の瞳が揺れている。
そしてやがて――彼の口元に、不敵な笑みが浮かんだ。
久しく見ることのなかった、誇り高き獅子の、笑みだった。
「……ああ。お前がいれば、私はもう何も恐れぬ」
彼は騎士団に出陣の号令をかけた。
「全軍、出る! 目指すは領境! 叔父上に――いや、簒奪者アーダルベルトに思い知らせてやれ。この地を護るのが誰なのかを!」
城が鬨の声に、震えた。
門のところで、ハンナが私の鞄を抱えて立っていた。
「奥方様。……お持ちくださいませ」
差し出されたのは、藍色のショールだった。
戦場へ持っていくようなものではない。
それでも私は受け取って、肩にかけた。
「行ってまいります」
「はい」と彼女は言った。「お帰りをお待ちしております。……エレオノーラ様のときは、それが言えませんでしたので」
私はジルヴェスター様の隣で、馬上の人となった。
手には剣の代わりにただ、母から受け継いだ、歌だけを携えて。
馬に乗るのは、初めてだった。
ブリュンヒルデが手綱の持ち方だけを教えて、あとは何も言わなかった。
落ちるなとも、下がっていろとも言わない。
この人はもう、私を守るものとしては数えていないのだ。
守るものではなく、並ぶものとして数えている。
それが少し怖くて、それ以上に、嬉しかった。
嵐の辺境を護る、最後の戦いが――今、始まる。
出陣の回です。
鐘が鳴ったとき、城の人たちは走りませんでした。誰も走らずに、それぞれの持ち場へ歩いていきます。四年前にも、この鐘は鳴ったのです。説明せずに置いておきたかった数行でした。
叔父の罠は、この人の呪いを弱点として使うものでした。弱点という言い方が、セレスは嫌でした。この人の呪いは、人を助けようとしてできたものです。助けようとした跡を弱点と呼ぶ人が、世の中にはいる。そして、そういう人がいつも勝ってきました。
「あなたの嵐は、私が子守唄にしてみせます」。言い終えてから、彼女は自分の言葉に驚きます。城へ来た日の私なら、こんなことは言えなかった、と。必要とされることは、人をこんなにも図々しくするのです。
門でハンナが差し出したのは、あの藍色のショールでした。戦場へ持っていくようなものではありません。お帰りをお待ちしております、と彼女は言います。エレオノーラ様のときは、それが言えませんでしたので、と。この一言のために、ハンナという人を置いています。
ここで震えた方は、【評価】をひとつ。
皆様の応援が、眠れぬ城に寝息を取り戻すセレスの子守唄になります。
次回、第27話「嵐を歌う、戦場の子守唄」でお会いしましょう。




