↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
22/76

第22話: さらわれかけた歌い手と、嵐の盾

 それは夕暮れの人気のない路地でのことだった。


 元女官の家からの帰り道。


 足音が、消えなかった。


 昨日までは、二つ目の角で必ず止んだ。

 今日は止まないまま、私の前へ回り込んだ。

 ――昨日までは、数えていたのだ。

 私が何時にどの角を曲がるかを。


 ふいに四方から、黒ずくめの男たちが、私を取り囲んだ。


「鎮魂の歌い手さまには、しばらくお眠りいただく。手荒な真似はしたくねえ。大人しく来な」


 男の一人が布のようなものを手に、近づいてくる。

 眠り薬の甘い匂いがした。

 私を攫(さら)い、声を奪うつもりだ。歌えなければ、私は、ただの無力な娘でしかない。


 無力な娘。

 その言葉が久しぶりに、しっくり来てしまった。


 この数か月で私が手に入れたものは、全部、歌の先にあるものだった。

 歌が止まれば、公爵夫人でも鎮魂の歌い手でもない。

 ――屋根裏の娘へ、一息で戻れてしまう。


「……っ」


 私はとっさに歌おうとした。

 けれど恐怖で喉が引きつり、声が出ない。


 出ない、ということがこんなに怖いとは思わなかった。


 ――母も、最後の幾日か、これだったのだ。

 声を出せる人間が、出せなくなる。

 そのときはじめて、自分が何を持っていたのかが分かる。


 その時。


 ゴォッ――と路地を突風が吹き抜けた。


 音が、先に来ていた。


 風の音ではない。

 石畳の目地が鳴る、低い音だ。

 城でこれを聞いたことがある。

 あの人が本気で怒った夜に、床が立てる音だった。


 黒ずくめの男たちが、見えない力に弾き飛ばされ、壁に叩きつけられる。

 吹き荒れる風の中心に、いつのまにか、その人が立っていた。


「私の妻に触れるな」


 ジルヴェスター様だった。

 彼の周囲で魔力の嵐が、渦を巻いている。

 暗い金の瞳が、怒りに燃えていた。


「閣下……!」


「遅くなった。すまない。……お前の身辺を、ブリュンヒルデに見張らせていた。間に合って、よかった」


 彼は嵐を操り、男たちを次々と無力化していく。


 乱暴ではなかった。

 一人ずつ壁へ運ぶような風だった。

 殺すつもりがないと分かる使い方で、それがかえって怖かった。

 この人は怒りながら、加減を数えている。


 けれど私にはわかった。

 彼が力を使えば使うほど、その身の内で、呪いが、暴走の機会をうかがっていることが。


 この人は私を助けるために、自分の夜を前借りしている。

 今この一吹きが、そのまま今夜の嵐になる。

 ――それを承知で、来たのだ。


 案の定。

 最後の一人を退けた時、彼の体が、ぐらりと傾いだ。


「……ぐっく……!」


 制御を失った魔力が、嵐となって、暴れ出そうとする。

 このままでは彼自身が、そして周囲の家々が、巻き込まれる。


「閣下! 大丈夫です、私がいます!」


 私は、もう震えていなかった。

 彼の冷えた手を、しっかりと握り、まっすぐに歌い始めた。


「……ねむれ、ねむれ。風のこ、嵐のこ――」


 荒れ狂おうとしていた魔力が、私の歌に絡め取られていく。

 暴走の寸前で嵐は、ぴたりとその動きを止めた。


 彼が力を振るう。

 私がその嵐を歌で抑える。

 二人で一つの「盾」になる。

 それは私たちが初めて、完全に呼吸を合わせた瞬間だった。


 息を合わせるというのが比喩ではないことを、その夕暮れに知った。


 彼が吸うところで、私は吐く。

 彼が力を放つところで、私は音を伸ばす。

 そうしないと、旋律が嵐に食われてしまうのだ。


 誰にも教わっていない。

 毎晩、寝台の縁で、勝手に体が覚えたことだった。


「……助かった」と彼は、荒い息の下で微かに笑った。「お前がいれば、私はもう、力を使うことを恐れなくていいのだな」


「はい」と私は彼の手を握りしめた。「あなたは存分に戦ってください。あなたの嵐は私が、必ず、鎮めますから」


 彼は返事をしなかった。

 代わりに、握った私の手を、自分の額へ押しつけた。


 熱かった。

 嵐を抱えている人の熱だった。

 私は空いたほうの手で、その額の汗を拭いた。

 拭っても、すぐにまた滲んだ。

 この夜の代金を、この人はこれから払うのだ。


 ◇◇◇


 逃げ遅れた男の一人を、ブリュンヒルデが、取り押さえた。

 厳しい尋問の末、男は、ついに、雇い主の名を吐いた。


「アー……アーダルベルト様だ。あの後見人の、旦那様が……鎮魂の歌い手を、攫って、声を封じろと……!」


 声を封じろ。


 二十年前と、同じ言い方だった。

 殺せ、ではない。

 この人たちはいつも、まず、喉のほうから来る。


 ついに繋がった。

 呪具も、襲撃も、すべては、叔父の差し金。

 動かぬ証言が、ここに得られたのだ。


 けれど――ブリュンヒルデの表情は、晴れなかった。


「奥方様。今夜もう一つご報告が。……尾行の途中、見てしまったのです。叔父アーダルベルト様が人目を忍んで、ある人物と密会しているのを」


「ある、人物……?」


「はい」と彼女は低く言った。「宮廷楽長、ファルク・ヴェルナー。……あの二人、裏で繋がっております」

ここまでありがとうございます。


昨日までは、足音は二つ目の角で必ず止んでいました。今日は止まないまま、前へ回り込みます。昨日までは、数えていたのです。彼女が何時にどの角を曲がるかを。


喉が引きつって声が出ない。出ないということがこんなに怖いとは思わなかった、と彼女は言います。母も最後の幾日か、これだったのです。


助けに来た人の、風の使い方も見ていただきたい箇所でした。一人ずつ壁へ運ぶような風です。殺すつもりがないと分かる使い方で、それがかえって怖い。この人は怒りながら、加減を数えています。そして誰かを助けるために、自分の夜を前借りしている。今この一吹きが、そのまま今夜の嵐になると承知のうえで。


息を合わせる、というのが比喩ではないことも、この夕暮れに分かります。彼が吸うところで彼女は吐き、彼が力を放つところで音を伸ばす。誰にも教わっていません。毎晩、寝台の縁で勝手に体が覚えたことです。


背中を預け合う二人がお好きな方は、どうか【ブックマーク】を。

皆様の応援が、眠れぬ城に寝息を取り戻すセレスの子守唄になります。


次回、第23話「楽長と後見人、二つの影が手を結ぶ」でお会いしましょう。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。