第20話: 子守唄は、裁きの間(ま)を眠らせる
私は歌い始めた。
あの、母から受け継いだ子守唄を。
四年眠れなかった人を救い、荒ぶる親竜を鎮め、嵐すら凪がせた、鎮魂の歌を。
「……ねむれ、ねむれ。風のこ、嵐のこ。
今日の痛みは夜が連れていく――」
歌劇場のざわめきが、すっと引いていった。
この場所は、声のために建てられていた。
私の歌は天井のいちばん高いところまで昇り、そこで一度たわんで、客席の上へ雪のように降りてきた。
城ではこうならない。
城の歌は石に吸われて、寝台のまわりだけで終わる。
――母は、こういう場所で歌っていたのだ。
恐怖に強張っていた人々の肩から、力が抜けていく。
警戒に尖っていた目が、ゆっくりと和らいでいく。
それはファルクの言うような、「意志を奪う眠り」では、なかった。
戦で息子を失い、夜ごと泣いていた老婦人が、初めて、安らかな涙を流した。
古傷の痛みに苦しんでいた老兵が、こわばった顔を、ふっと緩めた。
張り詰めて生きてきた人々の、心の傷が、私の歌にそっと撫でられていく。
誰も無力化などされていなかった。
ただ――癒されていた。
長いあいだ、誰にも癒されることのなかった、心の傷を。
歌い終えたとき、歌劇場は深い、温かな静寂に包まれていた。
そしてその静寂を破ったのは――万雷の、拍手だった。
「これが……兵器だと?」
「とんでもない。私はこんなに心が安らいだのは、生まれて初めてだ……」
「鎮魂の歌い手は、危険などではない。むしろ――」
聴衆の声が、潮目を変えていく。
ファルクが塗り替えようとした「恐怖」は、私の歌の前で跡形もなく崩れ去っていた。
最前列のジルヴェスター様が、誇らしげに私を見つめていた。
義妹アマーリエは、青ざめた顔で、いつの間にか、姿を消していた。
――勝った。
そう思ったその時だった。
「……見事なまやかしだ」
ファルクの低い声が、拍手を切り裂いた。
大きな声ではなかった。
拍手より低いところを通る声だった。
「諸君、騙されてはならぬ。心地よい歌で人を酔わせる。それこそが、この力の、最も恐ろしいところだ」
彼は懐から古びた一冊の書物を取り出した。
その表紙には王家の紋章が刻まれている。
彼が表紙を開くと、紙の音がした。
三百年前の紙は、こんな音を立てない。
母の楽譜は、めくるたびに砂を撫でるような音がする。
この本の音は、乾いていて、硬かった。
古い紙は、もっと湿った音を立てる。
「ここに王国建国期の禁書がある。三百年前――鎮魂の歌い手は、その力で人心を惑わし、時の王家に大いなる災いをもたらした。ゆえに王家は歌い手の血を断罪し、歴史から葬った。……この娘は、その『災いの血』を引く者なのだ!」
歌劇場が再びざわめいた。
三百年前の王家と、鎮魂の歌い手の因縁。
そんなものが、あったというのか。
私は息を呑んだ。
母も私も知らなかった、もっと古い、もっと深い闇が、この力の根に隠されていた。
「ゆえに私は要求する。災いの血を、再び国家の管理下に置くことを――」
「楽長」
その時、貴賓席から凛とした女性の声が、響いた。
立ち上がったのは、銀の髪の若き王女。
エルフリーデ王女殿下だった。
歌劇場じゅうが、いっせいに立ち上がった。
その音の中で、私だけが動けずにいた。
王族の方が、私のために口を開いている。
――王族というのは、母を消した側のはずだった。
その方が今、二十年前を「検めねばならない」と言っている。
消した側にも、覚えている人がいたのだ。
――覚えている人がいるうちでなければ、間に合わなかった。
「三百年前の禁書を持ち出すなら、その『災い』とやらの、真偽もまた、改めて検めねばなりますまい。……それに、二十年前。あなたが一人の鎮魂の歌い手を、いかにして宮廷から葬ったか。その件についても私は興味があります」
ファルクの顔が、初めて、はっきりと強張った。
審問は決着しなかった。
けれど潮目は、確かに変わった。
ファルクの「恐怖の物語」は崩れ、逆に、彼自身の過去に、王家の目が向けられたのだ。
◇◇◇
その夜。
屋敷に戻ったジルヴェスター様は、暗い窓辺でじっと何かを考え込んでいた。
「閣下?」
「……セレスティア。気づいたか」彼は低く言った。「審問の間、ファルクはたびたび、ある一人の人物に目配せをしていた。指示を仰ぐように」
「まさか……」
「ああ」と彼の瞳に冷たい焔が灯った。「この一連の筋書きを、裏で書いている者がいる。ファルクはその駒に過ぎん。……そして、その者の正体に、私はもう見当がついている」
彼はゆっくりとその名を口にした。
「私に呪具を仕込み、私を陥れ、お前を狙う者。――叔父上だ。アーダルベルト・フォン・ヴァルトハイム」
私は、歌っているあいだの客席を思い出そうとした。
最前列の閣下。その隣の、ブリュンヒルデ様。
――叔父様がどこにいらしたのかを、私は、思い出せなかった。
お読みいただきありがとうございます。第2章、ここで大きく動きました。
歌劇場は声のために建てられた場所です。セレスの歌は天井のいちばん高いところまで昇り、そこで一度たわんで、客席の上へ雪のように降りてきました。城ではこうなりません。城で歌えば、声は石に吸われて、寝台のまわりで終わってしまいます。――母はこういう場所で歌っていたのだ、と彼女はそこで初めて知ります。
誰も無力化などされていませんでした。ただ癒されていた。ファルクが塗り替えようとした「恐怖」は、歌の前で崩れます。
もっとも、この人はそこで引き下がりませんでした。持ち出したのは、三百年前の禁書です。ただ、表紙を開いたときの紙の音が乾いていて硬かったことに、セレスは気づいています。母の楽譜は、めくるたびに砂を撫でるような音がするのです。
エルフリーデ王女が立ち上がったとき、歌劇場じゅうがいっせいに立ち上がりました。その音の中で、セレスだけが動けずにいます。王族というのは、母を消した側のはずでした。それでも、覚えている人がいた。覚えている人がいるうちでなければ、間に合わなかったのです。
ここまでお読みくださり、ありがとうございました。第2章を面白いと思ってくださった方は、【ブックマーク】と【評価】での応援をお願いいたします。
皆様の応援が、眠れぬ城に寝息を取り戻すセレスの子守唄になります。
次回・第3章開幕。第21話「後見人の書斎に眠る、呪いの設計図」でお会いしましょう。




