第17話: 「眠れぬ獅子」を、王都は嗤って迎えた
数日の旅路を経て、私たちは王都にたどりついた。
久方ぶりに見る生まれ故郷。
けれど私を迎えたのは、懐かしさではなかった。
匂いで分かった。
石畳と、人と、焼いたものと、水路の匂い。
この匂いの中で私は育って、一度も、ここが自分の場所だと思わなかった。
「見ろよ、あれが『眠れぬ獅子』だ」
「呪われた化け物公爵……。よくも王都へ顔を出せたものだ」
「隣にいるのが噂の鎮魂の歌い手か。人を眠らせる、不気味な力だとか」
馬車が大通りを進むたびに、ひそひそとした囁きと、好奇と恐怖の入り混じった視線が、突き刺さってくる。
通りの母親が、子どもの目を手で覆った。
覆われた子が、指の隙間からこちらを見ていた。
その子は怖がっていなかった。
怖がり方を、これから教わるのだ。
ジルヴェスター様は、それらを、一切表情を変えずに受け止めていた。
けれど私にはわかった。
彼の握りしめた拳が、わずかに震えていることが。
民を護るために力を振るい、その代償に呪われた人。
なのに世間は、彼を「化け物」と嗤う。
私はそっと彼の手に、自分の手を重ねた。
「閣下。私にはあなたが誰よりもお優しい方だと、わかっておりますわ」
彼は少しだけ目を見開き、それからふっと肩の力を抜いた。
「……お前がいるとこういう視線も、不思議と、堪えられるな」
彼は私の手を握り返さなかった。
代わりに、重ねた私の手の上へ、外套の裾をそっと掛けた。
外から見えないように。
◇◇◇
滞在先に用意されたのは、ヴァルトハイム家が王都に持つ、古い屋敷だった。
その手配をすべて取り仕切ったのは、同行した叔父・アーダルベルト様だった。
「さあ、ゆっくり休んでおくれ。審問までの間、不自由はさせないよ」
何から何まで行き届いた気遣い。
使用人の手配も、食事も、彼が用意してくれた。
あまりに親切で、けれどその親切さが、なぜだか、私の胸をざわつかせた。
寝室に案内されて、私は気づいた。
寝台の位置が、城と同じだった。
窓に対して同じ向き。壁からの距離も同じ。
ジルヴェスター様が「ここでいい」と言う前から、そうなっていた。
――この屋敷を整えた人は、あの人の眠り方を知っている。
その夜。
私は宮廷楽士団のことを、ハンナから聞いた。
「楽長ファルクは二十年かけて、楽士団を、自らの権力の道具に作り変えました。歌い手も、楽士もすべて『国家の管理下にある力』として、戦や政治に利用する。……エレオノーラ様がたった一人、それに抗ったのです」
「……勝てるとお思いでしたか。母は」
「いいえ」とハンナは即答した。「勝てぬと分かっておいででした。それでもお一人で立たれたのです。……お止めできなかったことを、私は今でも」
そこで彼女は言葉を切り、それ以上は言わなかった。
「そのファルクが今度は私を……」
「ええ。ですが、奥方様。今のあなた様にはエレオノーラ様にはいなかった、心強い味方がおります」
ハンナの言葉に私は頷いた。
ジルヴェスター様。ブリュンヒルデ。ハンナ。
母は独りで戦い、消されてしまった。
けれど私は独りではない。
そう思ったとき、胸の奥がすっと冷えた。
母にも、ハンナがいた。
ブリュンヒルデのような騎士はいなかったかもしれない。
けれど、味方が一人もいなかったわけではない。
――味方がいても、消された。
だから今度は、消せない場所で勝たなければならない。
◇◇◇
だがその夜更け。
異変は起きた。
眠っていたジルヴェスター様が、突然、激しくうなされ始めたのだ。
「ぐ……っあ……!」
窓の外に稲妻が走る。
城にいた頃よりも、はるかに激しく、彼の魔力が荒れ狂っていた。
私は慌てて歌い始める。
けれど――いつもなら、すぐに凪ぐはずの嵐が、今夜はなかなか鎮まらない。
「閣下……っ、なぜ、こんなに……!」
まるで彼の中の呪いが、外から、何者かに掻き立てられているかのようだった。
私は歌いながら、部屋を見た。
燭台。窓。寝台。
どこかにあるはずだと思った。
思ったのに、その夜は探しに行けなかった。
手を離せば、この人が壊れてしまう気がして。
屋敷の窓が、風圧でビリビリと鳴る。
城なら、ここで石が鳴る。
この屋敷は木が多くて、鳴り方が軽い。
軽いぶんだけ、壊れる音が近くに聞こえた。
遠くで誰かの悲鳴が聞こえた気がした。
私は、声を振り絞り、歌い続けた。
いつもよりずっと長く、ずっと強く。
ようやく嵐が凪いだ頃には、東の空が、白み始めていた。
喉が焼けるようだった。
城では一度も、こんなに長く歌ったことはない。
声が、いつもの高さで出なくなっていた。
(おかしい。……この王都には、何か、閣下の呪いを、強める“何か”がある)
私は、繋いだままの手を見た。
夜のあいだ、一度も離せなかった手だ。
――この手を離して探せる人が、この屋敷に、もう一人だけいる。
お読みいただきありがとうございます。
セレスにとって王都は生まれ故郷ですが、匂いで分かるだけの場所でした。石畳と、人と、焼いたもの、それから水路。彼女がこの街について覚えているのは、その並びだけです。この匂いの中で育って、一度もここが自分の場所だと思わなかった、と彼女は言います。
通りの母親が子どもの目を覆い、覆われた子が指の隙間からこちらを見る。その子は怖がっていません。怖がり方を、これから教わるのです。「化け物公爵」という呼び名がどう作られるかを、一行で書きたかった箇所でした。
重ねた手を、ジルヴェスター様は握り返しませんでした。代わりに、外套の裾をその上へそっと掛けます。外から見えないように。この人の甘さは、いつもこういう形で出ます。
そして王都の屋敷。寝台の位置が、城とまったく同じでした。彼が「ここでいい」と言う前から、そうなっていた。この屋敷を整えた人は、あの人の眠り方を知っているのです。
不穏さを楽しんでくださった方は、どうか【ブックマーク】を。
皆様の応援が、眠れぬ城に寝息を取り戻すセレスの子守唄になります。
次回、第18話「呪具の欠片と、震える子守唄」でお会いしましょう。




