第15話:氷の薔薇が咲いた夜、公爵様は「離さない」と泣いた
宮廷楽長ファルク・ヴェルナーは、慇懃な笑みを貼り付けて、城へやって来た。
白髪を撫でつけた、瘦身の老人。
穏やかな物腰の奥に、人を「品定め」する、冷たい目が光っていた。
「お初にお目にかかります、ヴァルトハイム公爵閣下。……そして噂の奥方様。鎮魂祭で魔獣を歌で鎮めたとか。ぜひ一度、そのお力を、拝聴したく参りました」
彼の視線が私を舐めるように這う。
その瞳の奥にちらりと――驚愕と、そして、隠しきれない執着の色が、よぎった。
「……ほう。その顔立ちその声の質。まさかとは思いますが、奥方様。あなたの母君はエレオノーラ様では、ございませんか」
とぼけた口ぶりだった。
二十年前、自らが葬った女の名を、いけしゃあしゃあと口にする。
私はこみ上げる怒りを、静かに飲み下した。
「ええ。母はエレオノーラ・ハーゲン。……あなたが宮廷から消した、鎮魂の歌い手です。楽長様」
その場の空気が、ぴり、と張り詰めた。
ファルクの笑みが、一瞬、強張る。だがすぐに彼は慈悲深い表情を取り繕った。
「これは異なことを。私は、危険な力を、正しく国家の管理下に置こうとしただけ。……奥方様。あなたの中に流れる鎮魂の歌い手の血は、あまりに尊い。このような辺境で、一人の男のために浪費されてよいものではありません」
彼は芝居がかった仕草で、両手を広げた。
「どうか、王都へおいでなさい。王宮楽士団があなたの力を国家のために、正しく役立てて差し上げましょう。それが鎮魂の歌い手の、果たすべき責務というもの」
国家の、管理下。
正しく役立てる。
――二十年前、母に突きつけられたのと、寸分違わぬ言葉だった。
私が口を開く前に。
隣に立つジルヴェスター様が、一歩、前に出た。
「断る」
たった一言。
けれどその声には、城の石壁を震わせるほどの、重みがあった。
「セレスティアは私の妻だ。誰にも――王宮にすら、渡さん」
「ですが閣下。これは、王国全体の利益の問題で……」
「利益だと」
ジルヴェスター様の瞳に、あの嵐を呼ぶ焔が灯った。
「貴様らはいつもそうだ。歌を力を人を――『利益』で測る。母を消し、娘から誇りを奪い、それでもまだ足りぬか。……二十年前、貴様が殺したものを、私は今度こそ、護り抜く」
ファルクの顔から、慈悲の仮面が剥がれ落ちた。
冷たい、酷薄な素顔がそこにあった。
「……強情な。エレオノーラと、同じだ。ならばよろしい。王都にて、正式な『歌劇審問』を開きましょう。鎮魂の歌い手の処遇は王国楽法に則り、公の場で裁かせていただく。……公爵閣下とて、王の定めた法には、逆らえますまい」
彼は捨て台詞を残し、城を去っていった。
◇◇◇
その夜。
私は眠れずにいるジルヴェスター様の傍らで、そっと歌い始めた。
母から受け継いだ、あの子守唄を。
今はもう、その本当の名を知っている、鎮魂の歌を。
すると――不思議なことが、起きた。
窓辺の枯れていたはずの蔓に。
淡く輝く氷の結晶でできた薔薇が、ひとつ、またひとつと花開いていったのだ。
「これは……」
ハンナが戸口で息を呑んだ。
「『歌うと氷の薔薇が咲く』……。城に古くから伝わる、言い伝え。鎮魂の歌い手が真にこの地に受け入れられたとき、城がそれを祝福して咲かせる花です。……二十年前、エレオノーラ様が宮廷で咲かせて以来、誰も見た者はおりませんでした」
月光に照らされ、氷の薔薇が、城中に静かに咲き誇っていく。
その幻想的な光景は、私の歌が、紛れもなく本物の――鎮魂の歌い手の力であることの、何よりの証だった。
その時。
寝台の上でジルヴェスター様が、震える手を伸ばし、私の手を強く握りしめた。
「……ああ、そうだ。この歌だ」
彼の暗い金の瞳からつう、と、ひとすじの涙が零れた。
「閣下……?」
「幼い頃。たった一度だけ、王宮で聞いた歌。心が凪ぐあたたかな歌。……私はずっと、それを探していた。眠れぬ夜の底で、ずっと、ずっと。……あれはお前の母の歌だったのだ。エレオノーラの。そして今、お前が同じ歌で私を救っている」
二十年の時を超えて。
母が遺した歌が、巡り巡って、この孤独な人を救っていた。
偶然などではなかった。
私たちはずっと前から、この旋律で結ばれていたのだ。
「離さない」
彼は私を痛いほど強く、抱き寄せた。
「もう誰にも渡さない。王宮にも、楽長にも誰にも。……セレスティア。お前の歌がなければ、私はもう、眠ることも、生きることもできない。だから――頼む。私のそばにいてくれ」
いつも命令の形でしか、言えなかった人が。
初めて、すがるように「頼む」と言った。
私はその広い背にそっと腕を回した。
氷の薔薇の輝きの中で、私も静かに涙を流した。
「はい、閣下。……どこにも行きません。あなたのおそばでいつまでも、歌わせてくださいませ」
私たちはようやく互いの居場所になった。
けれど――王都では、すでに、別の影が動き始めていた。
歌劇審問を画策するファルクの、さらにその背後で。
ジルヴェスター様に「夜啼きの呪い」を仕掛けた、ある人物が。
甘い再会に酔う私たちを、冷たい目で見据えていたのだ。
その男の名は――アーダルベルト・フォン・ヴァルトハイム。
ジルヴェスター様の、実の叔父であった。
お読みいただきありがとうございます。第2章、ここまでです。
氷の薔薇の夜でした。
二十年前に母が宮廷で咲かせて以来、誰も見た者のいなかった花です。それが今、辺境の城で咲いた。セレスの歌が本物である証であると同時に、この城が彼女を受け入れたという意味でもあります。
「あれはお前の母の歌だったのだ」。ジルヴェスター様が幼い日に一度だけ聞き、眠れぬ夜の底でずっと探していた歌。二人は出会う前から、この旋律で結ばれていました。偶然ではなかったのです。
いつも命令の形でしか物が言えなかった人が、初めて「頼む」と言いました。この一語のために、第1話からここまでを書いてきたようなものです。
ここまでお付き合いくださり、本当にありがとうございました。第2章を面白いと思っていただけましたら、ぜひ【ブックマーク】と【評価(☆☆☆☆☆)】での応援をお願いいたします。
皆様の応援が、眠れぬ城に寝息を取り戻すセレスの子守唄になります。
次回、第16話「王都への召喚状と、優しすぎる叔父様」でお会いしましょう。物語は王都へ移ります。




