第13話:母の形見の楽譜に、私の子守唄が記されていた
ハンナは人払いをした静かな部屋で、震える手で抱えていた包みを、私に差し出した。
厚い扉を閉めると、練兵場の音も、廊下の足音も届かなくなった。
この城にこんなに静かな部屋があることを、私はこの日まで知らなかった。
――静かにしなければならない話なのだ。
「……これをお渡しするのが、私の務めでございました。ずっとその時を待っておりました」
古い、色褪せた布に包まれていたのは――一冊の、革表紙の楽譜だった。
そしてその間に挟まれた、銀の小さなペンダント。
革は角が擦り切れて、白くなっていた。
私は布に顔を近づけて、匂いを嗅いだ。
埃と、古い紙と、かすかに知らない花の匂いがした。
母の匂いだと思いたくて、私はもう一度嗅いだ。
「ハンナ。あなたは母を……エレオノーラを、知っているの?」
「はい」と彼女は涙をこらえながら、頷いた。「私はかつて、王宮にお仕えしておりました。そして――エレオノーラ様の、女官でございました」
私は言葉を失った。
この人は、私が城へ来てからずっと側にいた。
朝の支度をして、髪を結い、湯を運んで、一度もその話をしなかった。
「……どうして、今まで黙っていたの」
「お渡しする時を、間違えてはならなかったのです」と彼女は言った。「あなた様がご自分のお歌を、まだ恥じておられるうちは、渡せませんでした」
「奥方様。あなた様のお母上はただの、病弱な伯爵夫人ではございません。二十年前、王宮で、その歌声を讃えられた――『鎮魂の歌い手』。荒ぶる魔を鎮め、人の心の傷を癒す、数百年に一人と言われた、希なる歌い手であらせられました」
鎮魂の歌い手。
その言葉が頭の中で、ゆっくりと形を結んでいく。
荒ぶる魔を鎮める。
人の心の傷を癒す。
――それは、まさに私の歌が、してきたことだった。
「私の歌は……」
「はい」とハンナは、はっきりと言った。「奥方様。あなた様が『無能』と嗤われてきたその歌は――エレオノーラ様から受け継いだ、本物の、鎮魂の歌い手の力でございます」
震える手で私は楽譜を開いた。
古い羊皮紙に優美な筆致で、いくつもの旋律が記されている。
そしてその最初の一頁に書かれた旋律を見て――私は、息を止めた。
「……これ」
それは私が幼い夜にいつも口ずさんでいた、あの子守唄だった。
誰に教わったわけでもない。
ただ寂しい夜に自然と、喉の奥から零れ落ちてきた、あの旋律。
私は指で音符を一つずつ辿った。
辿りながら、口の中で歌った。
合っていた。
誰にも直されずに来た歌が、紙の上のものと一つも違っていなかった。
「お母様が私に……」
「ええ。エレオノーラ様は、あなた様がまだ赤子の頃、毎晩、この歌を歌っておられました。あなた様はそれを覚えていらしたのです。言葉より先に心がお母上の歌を覚えていた」
ぽろり、と、涙が頬を伝った。
「ハーゲンの恥」「馬小屋の子守唄」――そう罵られ続けた、この歌。
それは私が母から受け取った、たった一つの、愛の証だったのだ。
顔も、声も、ほとんど覚えていない、母。
けれど母は確かにこの旋律に乗せて、私を愛してくれていた。
「無能」と言われるたびに、私はこの歌を捨てようとした。
捨てられなかったのは、意地でも才でもない。
夜が来るたびに、勝手に喉から出てきてしまったからだ。
――勝手に出てくるはずだ。
母が、私の中に置いていったのだから。
「……お母様」
私は、楽譜をそっと胸に抱いた。
それからペンダントを掌に載せた。
銀の、小さな円。
蓋になっていて、爪をかけるとかちりと開いた。
中には何も入っていなかった。
「エレオノーラ様は、そこへ紙を一枚、入れておられました」とハンナが言った。「楽譜のはじめの一節を、お写しになったものです。……ハーゲンのお屋敷へ入る前に、私がお預かりして抜きました。見つかれば、燃やされておりましたから」
「その紙は」
「ここに」
差し出されたのは、四つに折られた指の長さほどの紙片だった。
開くと、音符が五つ並んでいた。
私が幼い夜にいちばん最初に口ずさむ、あの五つだ。
私はそれをペンダントへ戻し、そっと蓋を閉じた。
その時、ハンナの表情が、ふいに曇った。
「奥方様。……お喜びの最中に申し上げにくいのですが。あなた様には、知っておいていただかねばなりません。エレオノーラ様がなぜ、王宮を追われ、ハーゲン家のような地方の伯爵家へ嫁がれ……そして、なぜ、若くして亡くなられたのか、その本当の理由を」
部屋の温度が、すっと下がった気がした。
「母は……病で亡くなったのではないの?」
「いいえ」とハンナは声を潜めた。「エレオノーラ様の力を危険視し、宮廷から葬り去った男がおります。その者は今も王宮で、絶大な権勢を誇っております。……明日、この城を訪れる、宮廷楽長――ファルク・ヴェルナー。その男こそが」
セレスの歌の正体が明かされる回です。
ハンナがこの包みを長く抱えていたことより、「お渡しする時を、間違えてはならなかった」と言ったことのほうを、私は書きたいと思いました。あなた様がご自分のお歌をまだ恥じておられるうちは渡せませんでした、と。この侍女頭は、渡す物ではなく渡す日のほうを預かっていたのです。
セレスは楽譜の音符を指で一つずつ辿りながら、口の中で歌います。合っていました。誰の手も入らずに来た歌が、紙の上のものと寸分たがわなかったのです。
「無能」と言われるたび、彼女はこの歌を捨てようとしました。捨てられなかったのは意地でも才でもなく、夜が来るたびに勝手に喉から出てきてしまったからです。勝手に出てくるはずなのです。母が、彼女の中に置いていったのですから。
ペンダントの中の、四つに折られた紙。音符が五つ並んでいます。これも覚えておいていただけると嬉しいです。
この場面で泣いてくださった方は、【評価】での応援をいただけますと励みになります。
皆様の応援が、眠れぬ城に寝息を取り戻すセレスの子守唄になります。
次回、第14話「『鎮魂の歌い手』——消された母の、本当の名前」でお会いしましょう。




