第八話外伝 フィール・ヘキサリア・レグルス
「糞餓鬼」
バッ、と体が飛び上がるように起きる。体中に汗が浮き、動悸がする。視界が揺らぐ。胸の奥が縮こまって今にも吐きそうなぐらい、私は狼狽えていた。
私は保健室のベッドで寝ていたらしい。あのとき私は気絶して、それで……。
外は日が沈んで、もう夜だった。紫色の空だ。私は吐きそうになるのを堪えて、なんとか立ち上がろうとして、ダメで、フラつく。ふと、鏡があったので見てみると、私の顔色は誰が見てもわかるくらい青ざめていて、未だかつて自分でこんな顔をしたことはなかった。
私の頭の中であの言葉が反芻する。
「糞餓鬼」
なんという侮辱。なんという屈辱。レグルスの第一王女に対してなんという非礼。決して、決して許さない。けれども、あのときのバウム先生の顔を思い出すたびにヒュッ、と呼吸が乱れる。嫌な汗が滲み出てくる。
憎悪。人間の怒りはこれまでも見てきたが、人間はああも人を殺せるだけの殺意を放つことができるのか。あの漆黒の眼光で睨まれたとき、私は恐怖を感じる間もなかった。あの後いろいろとまくし立てていたようだが、私の耳には何も入ってこなかった。
「糞餓鬼」
この言葉だけで、私はどれだけのダメージを受けたのか。ぐらついた体が、ぺたん、と床に吸い込まれる。
私の全てが崩れ去った気がした。それまで私は万能感に満ち溢れていた。命令すれば誰もが従ってくれた。どんなものも手に入った。私の言葉は神の言葉だと思っていた。
あの人間が来るまでは。
胃の中身が急激に迫り上がって、喉元まですぐに届く。私は両手で口を抑え、必死に堪えて、そして、耐えられなかった。
バウム。バウム・レコード。私の……敵。
吐瀉物と、涙と、汗を拭い、私は立ち上がる。王女に対して働いた狼藉は、その身をもって贖わせる。
私は保健室の扉を開けた。が、その先にはパティ先生が立ちはだかっていた。
「フィール王女」
既に引いている血の気がさらに引いて、体温が急激に下がるのを感じた。パティ先生。私がバウム先生にけしかけた、魔法バーサーカー。余興になると思って操作魔法をかけたあの人が、目の前で仁王立ちをしていた。
なぜ。なにを。なんで。私の頭がぐるぐると回り、ひとつの結論に辿り着く。殺られる。私はこれから仕返しを受けてきっと死んでしまう。いやだ。いやだ。いやだ。いやだ。死にたくない。死にたくない。死ぬのは怖い。死ぬのか。パティ先生の魔法を食らったら私は死ぬ。そうだ。そういうことを私はしでかしたのだ。
「ひっ」
床に尻もちをついてしまった。脚が動かない。全身がガクガクと震えて力が入らない。もういやだ、痛いのはいやだ、怖いのはいやだ。しぬのはいやだ。
「ごめんなさい!ごめんなさい!ごめんなさい!ごめんなさい!ゆ……ゆるして、ゆるしてください……、いたいのはいや、いたいのはいや、しぬのはいや……!」
「え、私は何もしません。私は、フィール王女の様子を見に来ただけです」
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「なるほど、バウム先生に怒られたのが、そんなに怖かったんですね」
パティ先生は私も羨むほどの大人の美女で、いつでもクールな、理想的な女性。それでいて、魔法面もフィジカル面も狂戦士に相応しいほどに強い。
この細い腕で殴られた人が、王都の城壁を越えて吹き飛ばされたのを覚えている。あのときは面白くて笑っていたが、それが自分に向けられることを思うと歯がかちかちと擦れる。
「こここここここ、こわこわこわこわ怖くなんて、あああああありませんわわわわわわわ?????」
「全身で怖さを表現していますが……。でも、良い薬にはなったかもしれませんね。ここでは、王女様を叱れる大人はいませんから」
私を叱れる大人が、いない? 何を当然のことを? 私は第一王女なのだから、叱れる人などいるはずもない。
「私は王女ですのよ? なぜ、叱られなければなりませんの?」
「王女様でも王様でも、誰でも同じです。ひどいことをしたら、その人は同じくらいひどいことを仕返してくる、それが生き物というものです。現に、王女様は先ほど私が仕返しをしに来たと思ったのでしょう?」
ビクッ、とまた体が跳ねる。
「そ、そんなことをしししてててみなさささい、あなたは、あなたは」
「はい、だから私には出来ません。ですが、私ではない人はどうでしょう。王女様を畏れない者たちには、そのような脅しは通じないのです。バウム先生はまさに、その代表と言えるでしょう」
バウム先生。私の操作魔法を自力で破ってきた人間。魔法は効いたはずなのに、私の常識が通じない人間。その名前を聞くと、あの目が脳裏を過ぎる。
「ひっ。……バ……あ、あの無礼者は、私を殺しに来るでしょうか、パティ先生をけしかけ、殺そうとした私は……」
「……バウム先生はそんなことはしない人、だと思いますよ。操作されていたとはいえ、私を殺さずに機転を利かせ、麻痺させるに留めた人です。そのあと滅茶苦茶言ってた部分は多分やるでしょうが……」
その後何を言われたのか、私にはまったく覚えていない。脳裏に何度も響く
「糞餓鬼」
以外に、何を言われたのか。それより酷い言葉があるのか?きっと私にあんなことやこんなことをするのだろう。
「ぱ、パティ先生……助けて……あ、謝ります。あなたに操作魔法をかけたこと、謝りますから、あの人間から私を守ってくださいまし……」
「私は許します。が、謝らなければならない相手、もう1人いるのではありませんか」
バウム先生に? 私が?
「むむむむむむむ、むりむりむりむりむりですわ!!あれは謝って許すような人間ではありませんわ!」
「そうですね。殺そうとしかけた相手が、ただの謝罪で許してくれるかはわかりませんね」
「ほらやっぱり!」
「ですが」
ぴたり。パティ先生の手が私の頭の前でそっと止まる。
「その決心がついたら、私も一緒に謝りに行きますから。王女様は、どうしたらバウム先生に許してもらえるか、それを考えてください。それが私から出す宿題です」
パティ先生の存在が、今はただ有り難かった。震える体を抑えながら、私は再びベッドに倒れ込む。
私はこれまで、自分を万能だと思っていた。自分の言葉は神の言葉なのだから、自分を神だと思っていた。
その自信は虚飾だったのだろうか?
パティ先生に出された宿題が重くのしかかるけれども、それを果たさない限りは一生この重しがつきまとう。それを考えると、ただただ体が重たかった。
私はあらゆることをかなぐり捨てて、瞼を閉じる。
「宿題のことは、また明日考えますので……今日はおやすみなさいませ、パティ先生」
「はい、おやすみなさい。良い夢を」
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「……今日から、8組。不名誉極まりないですが、彼の方から謝るまでは、私も頭を下げませんから……!」
翌朝。決意を胸に、震える足で、私は教室の扉を開いた。
■第八話外伝 終了




