第八話:千の壁
白いノイズがほどけた。
凪は、自分の部屋の床に座り込んでいた。
六畳一間。
冷めた空気。
壁にもたれた配達バッグ。
机の上には、中古のギターと、開きっぱなしのノート。
現実に戻っている。
けれど、頭の奥に御門の声が残っていた。
『今のままだと、君の声は優しい人間にしか届かない』
「……腹立つ言い方しよる」
凪は床に座ったまま、スマホを見た。
通知が残っている。
> VALDGEAR
>
> RANK:PAWN
>
> FOLLOWER:119
119。
昨日は75だった。
その前は1だった。
数字だけ見れば、増えている。
PAWN狩りを止めた。
少年も、周りの低フォロワーたちも、最後には凪を見ていた。
それでも。
「5,482、か」
御門 澄也。
FOLLOWER:5,482。
あれが、KNIGHT。
1000を超えた者。
おすすめに乗り始め、見に来るつもりのなかった誰かの画面にも名前が混ざる存在。
凪はスマホを握る。
119。
遠い。
1000まで、あと881人。
目の前に立たされた壁は、むしろ高くなっていた。
スマホが震えた。
@yui_musubi。
『大丈夫?』
凪はすぐに打った。
『大丈夫ちゃう』
送信。
少し間が空く。
『御門くんに』
『会ったんだね』
凪の指が止まった。
『知っとるんか』
送る。
返事はすぐには来ない。
数秒。
十秒。
『KNIGHT』
『PAWNの外へ』
『声が出始めた人』
また少し間。
『気をつけて』
凪は眉を寄せた。
『敵なん?』
短い返事。
『まだ』
まだ。
それは、敵ではないという意味ではなかった。
これから敵になるかもしれない、という意味にも読めた。
凪はため息をつく。
「ほんま、説明少ないな」
画面に、次のメッセージが浮かんだ。
『でも』
『近づいた』
その一言で、凪は黙った。
近づいた。
yuiに。
1000に。
自分の生活を変える何かに。
凪は現実SNSを開いた。
昨日投稿した曲。
「誰かに届いたこだま」
再生数、0。
だったはずの数字が、変わっていた。
再生数、28。
いいね、4。
コメント、3。
「……増えとる」
大した数字ではない。
人気者なら、誤差にもならない。
けれど凪には、違った。
VALDGEARで119人に見られたことが、現実側にも小さく返ってきている。
コメントを開く。
『前の曲よりこっちの方がいい』
『声に疲れてる感じあるのに、最後だけ前向いてて好き』
『おすすめに出てきた。誰?』
凪は三つ目で指を止めた。
おすすめに出てきた。
御門の言葉が蘇る。
『1000を超えると、流れが変わる』
今の凪は、まだ1000どころか119だ。
それでも、小さな波は起きている。
なら、1000を超えたら。
もし、御門の言う通りなら。
自分の曲は、見に来るつもりのなかった誰かにも届き始める。
凪はスマホを置いた。
胸の奥が熱い。
嬉しい。
でも、同じくらい怖い。
見られるということは、笑われるということでもある。
PAWN狩りのコメントが、頭の奥でまた鳴る。
『75がイキった』
『CLIPが弱かっただけ』
凪は目を閉じた。
VALDGEARの傷は、現実の身体には残らない。
でも、見られ方は残る。
自分がどう笑われたか。
どう立ったか。
誰に見られたか。
それが、現実に戻っても消えない。
凪はノートを開いた。
白いページに、御門の言葉を書く。
「優しい人間にしか届かない」
書いた瞬間、腹が立った。
「なんでオレが、あいつの言葉メモらなあかんねん」
そう言いながら、消さなかった。
悔しいが、刺さっている。
PAWN狩りで凪を見たのは、狩られる側の人間だった。
少年。
怯えていた女性。
壁際で目を逸らしていたPAWNたち。
凪の言葉は、そういう人間には届いた。
でも、届かなかった相手もいる。
狩る側。
見下す側。
ただ面白がって流れてきた視聴者。
そして、御門。
あの男は、凪を見ていた。
でも、届いたわけではない。
観察されただけだ。
「……次を見せろ、か」
凪はペンを握る。
ノートの端に、新しい言葉を書く。
「優しいやつだけやなくて」
そこで止まる。
続きが出ない。
誰に届かせたいのか。
何を届けたいのか。
yuiに会いたい。
御門を見返したい。
自分の音を聴かせたい。
どれも本当で、どれもまだ薄い。
凪はペンを置いた。
配達アプリが鳴る。
現実は、考えがまとまるまで待ってくれない。
「はいはい、行きますよ」
凪は黒いパーカーを羽織った。
鏡の前を通る。
自分の黒髪。
眠たげな灰色の目。
くたびれたデニム。
首元の安物のボールペン。
VALDGEARでは黒いレザージャケットを着ていた。
白い文字が内側に光り、拳には黒いグローブがあった。
でも現実の凪は、相変わらず誰にも覚えられない配達員だ。
そのはずだった。
昼のNEO-FUKUOKA CITY。
凪は配達バッグを背負い、自転車を走らせた。
信号待ちで、スマホが震える。
新しいコメント。
『この人、昨日どっかの配信で見た気がする』
凪は画面を見つめた。
現実側に、名前がにじみ始めている。
まだ小さい。
たぶん、すぐ消える。
でも、ゼロではない。
配達先のカフェに着く。
ガラス張りの店内では、若い客が何人もスマホを見ていた。
凪はカウンターで商品を受け取る。
商品を受け取り、店を出る。
店員も客も、誰も凪を知らない。
現実はまだ、その程度だ。
それでも、SNSの中だけは違う。
再生数が1つ増え、コメントが1つ増え、知らない誰かの画面に曲が混ざり始めている。
「……ほんまに返ってくるんやな」
自転車にまたがる。
その瞬間、スマホが震えた。
@yui_musubi。
『現実が』
『少し変わった?』
凪は苦笑した。
『少しな』
送る。
返事。
『それが』
『最初の報酬』
凪は画面を見たまま、しばらく動けなかった。
報酬。
VALDGEARで得たフォロワーが、現実の生活を少し変える。
金が降ってくるわけでも家賃が消えるわけでもない。
でも、自分の曲が、見に来るつもりのなかった誰かに届く。
それは確かに、報酬だった。
夕方。
配達を終えて部屋に戻る頃には、凪の曲の再生数は41になっていた。
いいね、6。
コメント、5。
そのうち一つは、こうだった。
『次も聴く』
凪はそのコメントを、何度も読んだ。
次も。
御門が言っていた。
フォローは拍手ではない。
次も見るという予約。
凪はノートを開く。
朝書いた言葉の下に、続きを書いた。
「優しいやつだけやなくて」
少し考える。
それから、ゆっくり書く。
「見てへんやつの画面にも、届かせる」
書いてから、凪は笑った。
「でかく出たな」
でも、消さなかった。
夜。
VALDGEARの通知が光る。
> NEXT CONNECT
>
> 00:02:00
その下に、新しい表示。
> CURRENT GOAL
>
> FOLLOWER 1,000
>
> KNIGHT到達条件
凪は息を止めた。
ついに、数字が明文化された。
1000。
yuiに会うための数字。
御門が立っている場所へ入るための数字。
現実のおすすめに、本格的に乗り始めるための数字。
凪はボールペンを握った。
「やったるわ」
スマホが震える。
@yui_musubi。
『凪くん』
『次』
『誰かが見てる』
凪は眉をひそめた。
『誰か?』
返事はない。
代わりに、接続カウントが進む。
三。
二。
一。
> VALDGEAR SYSTEM
>
> CONNECT
>
> START
世界が白くほどける。
現実が消える直前。
スマホの通知欄に、知らないアカウント名が一瞬だけ映った。
> SPARKLEがあなたをフォローしました
ピンク色のアイコン。
跳ねるような通知音。
そして、明るい女の声が、ノイズの向こうから聞こえた。
「へえ。あれが噂の新人くん?」
凪が振り返るより早く、視界はVALDGEARの白へ飲み込まれた。




