第四話:yuiの声
「覚えんでええ。どうせ、今から嫌でも流れる」
凪はそう言った。
言った瞬間、自分でも少しだけ驚いた。
強がりだった。
膝は震えている。
腹も肩も痛い。
息を吸うたびに、体の奥が軋む。
それでも、もう下は向いていなかった。
FOLLOWER:27。
二十七人。
さっきまで再生数2だった自分を、今は二十七人が見ている。
それだけで、凪の足はぎりぎり地面を踏めていた。
倒れた男が、ゆっくり立ち上がる。
派手なジャケットは破れ、背後に浮いていた配信カメラの光も半分以上消えていた。
それでも男の頭上の数字は、まだ凪よりずっと大きい。
PAWN。
FOLLOWER:98。
男は口元の血を拭い、凪を睨んだ。
「天沢凪、やったな」
初めて、男が凪の名前を呼んだ。
さっきまで「フォロワー1」としか呼ばなかった男が。
その変化が、凪の胸に小さく刺さる。
怖さではない。
痛みでもない。
存在を見られた感覚だった。
「俺の配信で、俺より目立つとか」
男の声が低くなる。
「調子乗っとるにも程があるばい」
男の足元に、赤い光が広がった。
砕けかけていたカメラの光が、無理やり男の背後へ集まっていく。
コメント欄が再び流れ始める。
『まだやる?』
『CLIPキレてる』
『凪って名前なのか』
『フォローしとくわ』
その中に、男の名前らしきものが混じっていた。
CLIP。
切り抜き動画ばかりで伸びた、PAWN上位の配信者。
誰かの失敗を拾い、誰かの泣き顔を拡散し、誰かの恥を自分の数字に変えてきた男。
凪はその名前を、コメントで知った。
「CLIP……」
凪が呟くと、男は舌打ちした。
「気安く呼ぶな」
「そっちが先に、オレの名前呼んだんやろ」
「黙れ」
CLIPの拳に、赤い光が凝縮されていく。
さっきまでとは違う。
視聴者の笑いではなく、怒りを吸っている。
コメント欄も荒れ始めた。
『潰せ』
『さすがに新人が調子乗りすぎ』
『CLIP負けたら笑う』
『凪がんばれ』
最後の一つだけ、流れが違った。
凪の目がそこに止まる。
がんばれ。
たった四文字。
それだけで、体の奥にまた音が鳴った。
FOLLOWER:28。
数字が一つ増えた。
CLIPがそれを見て、顔を歪める。
「また増えた……」
「あんたが見せてくれとるからな」
凪はペンデバイスを握った。
「オレのこと」
「俺は晒しとるだけたい!」
CLIPが踏み込む。
赤い光が、刃のように伸びた。
凪は避ける。
完全には避けきれない。
頬をかすめ、熱い痛みが走る。
だが、見えている。
最初の一撃は、何も見えなかった。
今は、赤い光の軌道が分かる。
「見える……」
凪は息を吐く。
「二十七人分、見えとる」
空中に文字を書く。
『見ろ』
黒い文字が、凪の拳ではなく、周囲に広がる。
CLIPのカメラが、その文字へ吸い寄せられるように向いた。
配信画面の中央に、凪の書いた文字が映る。
『見ろ』
コメントがざわつく。
『また画面に出た』
『こいつ配信乗っ取ってる?』
『いやCLIPのカメラが勝手に追ってる』
CLIPが吠える。
「俺のカメラば使うな!」
「勝手に見世物にしたんは、あんたや」
凪は一歩踏み込む。
「やったら最後まで見せろ」
黒い文字が、拳に集まる。
『見ろ』
その一語は、命令ではなかった。
逃げ続けてきた凪自身への言葉でもあった。
見ろ。
自分がどれだけ惨めでも。
どれだけ弱くても。
誰かの数字にされそうでも。
目を逸らすな。
凪はCLIPの赤い拳へ、自分から突っ込んだ。
「アホか!」
CLIPが笑う。
赤い拳が、凪の胸を狙う。
凪は直前でペンデバイスを走らせた。
『ずらせ』
黒い文字が、赤い光の軌道に触れる。
ほんの少し。
拳一つ分だけ、CLIPの攻撃がずれた。
凪の肩を削るように通り過ぎる。
痛みが走る。
だが、致命傷ではない。
凪は踏み込んだまま、右拳を握る。
『響け』
黒い文字が弾ける。
拳が、CLIPの腹に入った。
今度は浅くない。
衝撃が、音になって広がった。
六畳一間で録った下手な弾き語り。
雨の音。
安いマイクのノイズ。
震えた声。
その全部が、黒い波紋になってCLIPの体を貫いた。
「がっ……!」
CLIPがくの字に折れる。
コメント欄が爆ぜた。
『入った!』
『今の音やば』
『フォローした』
『凪、もう一発』
FOLLOWER:35。
42。
51。
数字が跳ねる。
凪の腕に、今までにない熱が宿った。
怖い。
けれど、気持ち悪くはなかった。
見られている。
笑われるためではなく。
自分が何をするのかを、誰かが見ている。
「やめろ……」
CLIPが膝をつきかける。
それでも倒れない。
赤い光が、最後の力を振り絞るように拳へ集まった。
「俺が……俺が映す側たい。おまえみたいな底辺に、画面ば奪われてたまるか!」
凪は答えなかった。
スマホが震えた。
yuiからのメッセージ。
『最後』
たった二文字。
それだけで、凪は分かった。
長く戦えば負ける。
体力はもうない。
フォロワーもまだ98には届かない。
勝つなら、ここしかない。
CLIPが立ち上がる。
男の背後に、残ったカメラの光がすべて集まった。
赤い光が巨大な拳の形になる。
「終わりたい、天沢凪!」
凪はペンデバイスを構えた。
空中に、一文を書く。
『誰かの数字で終わらない』
文字が震えた。
凪の胸の奥で、自分の曲が鳴る。
誰にも聴かれなかった音。
でも今は違う。
五十人を超える誰かが、この音を待っている。
凪は息を吸った。
歌うほどの声ではない。
それでも、言葉に音が乗った。
「オレは、誰かの数字になるために歌ったんやない」
黒い文字が、拳に集まる。
「誰か一人に届けば、それでゼロやない」
FOLLOWER:60。
67。
72。
コメントが流れる。
『届いてる』
『見てる』
『いけ』
CLIPの赤い拳が迫る。
凪は前に出た。
逃げない。
逸らさない。
黒い拳と赤い拳がぶつかる。
一瞬、世界が白く弾けた。
音が消える。
コメントも、笑い声も、痛みも消える。
その無音の中で、凪は聞いた。
『届いたよ』
yuiの声だった。
メッセージではない。
画面の文字でもない。
ほんの一瞬だけ、耳元で聞こえた声。
凪は歯を食いしばる。
「――響け!」
黒い文字が、赤い光を砕いた。
CLIPの巨大な拳が割れ、配信カメラが一斉に破裂する。
男の体が後ろへ吹き飛び、路面を転がった。
頭上の表示が揺れる。
PAWN。
FOLLOWER:98。
その数字の横に、赤い警告が浮かんだ。
STREAM DOWN。
配信終了。
CLIPは起き上がれなかった。
ヴァルドギアの夜に、静けさが戻る。
凪は立っていた。
立っているだけで精一杯だった。
だが、倒れてはいなかった。
頭上の数字が、ゆっくり変わる。
FOLLOWER:73。
74。
75。
そこで止まった。
百には届かない。
それでも、凪は笑った。
「七十五……」
再生数2だった男が。
誰にも聴かれないと思っていた男が。
七十五人に見られている。
膝から力が抜けた。
凪はその場に崩れ落ちる。
意識が遠のく。
最後に見えたのは、スマホの画面だった。
『戻すね』
yuiのメッセージ。
次の瞬間、世界が白くほどけた。
---
目を開けると、六畳一間の天井があった。
雨の音。
冷めたコンビニ弁当の匂い。
倒れた配達バッグ。
NEO-FUKUOKA CITYの下層住宅区にある、自分の部屋。
凪はベッドの上に倒れていた。
「……戻ったんか」
体を起こそうとして、腹と肩に痛みが走る。
夢ではない。
スマホを見る。
そこには、見慣れないアプリの通知が残っていた。
VALDGEAR。
FOLLOWER:75。
RANK:PAWN。
「ほんまに……」
凪の指が震えた。
その時、通知が一つ届く。
@yui_musubi。
『ごめんね』
凪はすぐに返信を打った。
『何者なん?』
送信。
数秒。
返事は来ない。
凪はもう一度打つ。
『あの世界は何なん?』
また沈黙。
スマホを握る手に力が入る。
『なんでオレを選んだん?』
長い沈黙。
やがて、短いメッセージが届いた。
『長く話せない』
次のメッセージ。
『でも』
さらに一つ。
『君の音は、本物』
凪は画面を見つめた。
胸の奥が、さっきとは違う痛み方をした。
嬉しい。
怖い。
もっと聞きたい。
もっと知りたい。
「yui……」
名前を呼ぶと、画面がかすかに揺れた。
最後のメッセージが届く。
『1000人集めて』
続けて。
『そうしたら』
また少し間が空いて。
『少しだけ、会える』
凪は息を止めた。
会える。
あの声に。
あの一人に。
凪はスマホを握りしめる。
FOLLOWER:75。
あと925人。
昨日までなら、絶対に届かない数字だった。
でも今は違う。
凪は立ち上がった。
痛みに顔をしかめながら、窓の外を見る。
NEO-FUKUOKA CITYの夜は、相変わらず誰かに見られるための光で溢れている。
その光のどこかに、yuiがいる。
凪は、さっきまで武器みたいに変わっていたはずのボールペンを見た。
今は、ただの安物のペンに戻っている。
けれど、手放す気にはならなかった。
「1000人、か」
凪は小さく笑った。
「ええやん。やったるわ」
スマホの画面に、VALDGEARの通知が静かに光っていた。
次の接続まで、あと二十三時間五十九分。




