第三話:届いた音
FOLLOWER:2。
たった一つ増えただけ。
それなのに、世界の重さが変わった。
凪の拳に宿った黒い文字が、火花のように弾ける。
『届け』
その一語が、音になった。
耳に聞こえる音ではない。
胸の奥を直接叩くような、低く震える響き。
フォロワー98の男が、目を見開いた。
「なんで、強くなっとると」
男の赤い拳が迫る。
さっきまでなら、見えなかった。
避けることも、受けることもできなかった。
けれど今は違う。
遅い。
ほんの少しだけ、男の動きが遅く見える。
凪は歯を食いしばり、黒い文字をまとった拳を突き出した。
拳と拳がぶつかる。
今度は、吹き飛ばされなかった。
衝撃が腕を通って肩まで響く。
痛い。
痛いが、立っていられる。
「ぐっ……!」
男の方が、一歩下がった。
周囲のコメントが止まる。
一瞬だけ、VALDGEARの夜が静かになった。
そして次の瞬間、配信画面に文字が流れ始める。
『押し返した?』
『フォロワー2で?』
『今のなに』
『音鳴ったよな』
男は顔を歪めた。
「コメントすんな。見るとこ、そこやなかろうが」
男が左手を振る。
浮かんでいたカメラの光が、凪を取り囲むように回り込んだ。
「リスナー、ちゃんと見とけ。こいつは俺より九十六人も下。たまたま一発止めただけたい」
九十六人。
その差は、まだ絶望的だった。
凪の表示は変わらない。
PAWN。
FOLLOWER:2。
男は98。
数字だけなら、勝負にならない。
それでも凪は、さっきより息ができていた。
「……二人」
凪は小さく呟いた。
「二人、聴いてくれた」
男が舌打ちする。
「気持ち悪か。たかが二人で主人公ぶんな」
「主人公ちゃう」
凪はペンデバイスを握り直した。
黒い金属のペン先に、音の波形みたいな光が集まる。
「オレはずっと、誰にも聴かれてへんと思ってただけや」
凪は空中に文字を書く。
『聴こえてる』
その文字は、細く震えた。
けれど、消えなかった。
男が鼻で笑う。
「またポエムか。配信映えせんっちゃけど」
「映えんでええ」
凪は一歩踏み出した。
膝は震えている。
腹も肩も痛む。
それでも、足は前に出た。
「届けばええ」
黒い文字が、凪の拳に巻きつく。
男が低く構える。
「だったら、黙らせる」
男の足元に赤い光が広がった。
カメラの光が、一斉に男の背中へ集まる。
コメント欄が煽られるように加速した。
『やれ』
『終わらせろ』
『素材にして拡散』
『フォロワー1改め2』
そのコメントが男の体へ流れ込む。
赤い光が濃くなる。
凪は理解した。
この男は、見られるほど強くなる。
笑われる対象を作り、その反応を自分の力に変えている。
フォロワー98。
ただの数字ではない。
この男を見ている九十八人分の視線だ。
「ほら、来いよ」
男が笑う。
「おまえの二人で、俺の九十八人に勝てると?」
勝てるわけがない。
普通なら。
凪はそう思った。
だが、同時に気づいた。
男の配信を見ているのは、男の味方だけではない。
さっき、誰かがフォローした。
誰かが「ちょっと分かる」とコメントした。
男の配信は、凪を笑うための場所だった。
でも今は、凪の言葉が届く場所にもなっている。
「……借りるで」
凪は男を見た。
「あんたの配信」
男の眉が動く。
「は?」
凪はペンデバイスを空中に走らせた。
今度は一語ではない。
短い一文。
『笑うなら、最後まで聴け』
文字が空中に刻まれた瞬間、黒い波紋がコメント欄へ広がった。
男の配信画面が、ざらつく。
流れていたコメントが一瞬乱れ、凪の書いた言葉がその中央に焼きついた。
『笑うなら、最後まで聴け』
「なっ……俺の画面に何しとると!」
男が叫ぶ。
凪にも分からなかった。
だが、体は分かっている。
これは攻撃ではない。
届けるための道だ。
男が作った視線の流れに、自分の言葉を乗せた。
コメントが流れる。
『画面ジャック?』
『いや今の言葉、刺さった』
『最後まで見てみる』
『フォローしたやつ誰だよ』
男の顔色が変わった。
「見るな。こいつを見るな!」
男が突っ込んでくる。
赤い光をまとった拳。
速い。
だが、凪はもう目を逸らさなかった。
ペンデバイスを握る。
空中に一語。
『鳴れ』
黒い文字が、拳ではなく胸の奥で震えた。
凪は殴る直前、息を吸った。
歌う勇気はない。
人前で歌えるほど、強くない。
けれど、声は出た。
「誰にも聴こえてへんって、ずっと思ってた」
男の拳が迫る。
凪は半歩ずれる。
肩をかすめる。
痛みが走る。
それでも続けた。
「でも、ちゃうかった」
凪の拳が、男の腹に入る。
浅い。
まだ軽い。
男は耐える。
「二人おる」
凪はもう一歩踏み込む。
「二人も、聴いてくれた」
『鳴れ』
黒い文字が弾ける。
今度は、拳の衝撃だけではなかった。
雨の混じった下手な弾き語り。
六畳一間で録った、かすれた声。
誰にも届かないと思っていた音。
その断片が、VALDGEARの夜に鳴った。
コメント欄が止まる。
笑いが止まる。
男の配信を見ていた誰かが、息を呑む。
凪の頭上の数字が揺れた。
FOLLOWER:2。
FOLLOWER:3。
「増えた……?」
凪が呟く。
男が叫んだ。
「ふざけんな!」
赤い光が、さらに膨れ上がる。
だが、さっきまでのような圧はない。
男のコメント欄に、別の流れが生まれていた。
『声、悪くない』
『歌詞ちゃんと聴きたい』
『こいつ何者?』
『フォローした』
凪の表示がまた揺れる。
FOLLOWER:4。
5。
7。
数字はまだ小さい。
男の98には遠い。
それでも、凪の体の奥で音が重なっていく。
一人分。
二人分。
三人分。
それぞれは小さい。
でも、ゼロではない。
「やめろ!」
男がカメラへ怒鳴る。
「おまえら、俺の配信やぞ! なんでこいつ見とると!」
凪は、初めて男の目をまっすぐ見た。
「あんたが見せたんやろ」
凪はペンデバイスを構える。
「フォロワー1の底辺を」
空中に一語を書く。
『返せ』
男が一瞬ひるむ。
「何を」
「笑いも、視線も、コメントも」
黒い文字が、凪の拳に巻きつく。
「全部、こっちに返してもらうで」
凪は踏み込んだ。
男が拳を振る。
赤い光。
黒い文字。
二つがぶつかる。
今度は凪が押した。
「くっ……!」
男の足が滑る。
コメントが爆ぜる。
『押してる』
『フォロワー一桁で98押してる』
『これ逆転ある?』
『フォローした』
凪の数字が跳ねた。
FOLLOWER:12。
15。
21。
男の顔から余裕が消える。
「なんでや。なんで俺の配信で、おまえが伸びると」
「知らん」
凪は息を切らしながら笑った。
「でも、初めてや」
ペンデバイスが鳴る。
黒い文字が、拳の上で強く震える。
「誰かが、オレの音を聴いとる」
凪は最後の一語を書いた。
『響け』
その文字は、今までで一番太かった。
下手でも。
弱くても。
震えていても。
確かに、凪自身の音だった。
男が赤い拳を振り上げる。
「終わらせる!」
「こっちの台詞や」
凪は拳を振り抜いた。
黒い文字が、男の赤い光を突き破る。
衝撃が夜に鳴った。
男の体が後ろへ吹き飛び、配信カメラの光が一斉に砕ける。
コメント欄が白く弾けた。
PAWN。
FOLLOWER:98。
男の表示が、ぐらりと揺れる。
凪は膝をついた。
勝ったのか。
まだ分からない。
体はもう限界だった。
だが、頭上の数字だけは、確かに変わっていた。
FOLLOWER:27。
27。
昨日まで、再生数2だった。
二回とも自分で開いた数字だった。
それが今、二十七人。
凪は荒い息のまま、スマホを見た。
yuiからメッセージが届いていた。
『届いたね』
たった四文字。
凪は、笑った。
泣きそうな顔で、笑った。
「……まだや」
視界の向こうで、倒れた男がゆっくり起き上がる。
その顔に、もう笑みはなかった。
凪はペンデバイスを握り直す。
FOLLOWER:27。
男が低く言った。
「おまえ、名前なんていうと」
凪は顔を上げた。
「天沢凪」
黒い文字が、拳の上でまだ震えている。
「覚えんでええ。どうせ、今から嫌でも流れる」




