第二話:最初の一人
FOLLOWER:1。
その数字は、変わらない。
けれど、揺れた。
ほんの一瞬。
凪の頭上に浮かぶ表示が、水面に落ちた雨粒みたいに震えた。
それを見た派手なジャケットの男が、笑みを消した。
「おまえ、今なんしたと?」
男の背後に浮かぶ配信用の光が、凪の顔へ向けられる。
「答えろっちゃ、新人」
男が一歩踏み込んだ。
空気が重くなる。
FOLLOWER:98。
数字の差が、そのまま圧力になって凪の肩へ乗った。
「っ……」
膝が折れそうになる。
ただ近づかれただけで、息が詰まる。
凪は拳に宿った黒い文字を見た。
『届け』
自分で書いたはずの一語が、音叉みたいに細かく震えている。
だが、それだけだった。
派手なジャケットの男には、まだ届いていない。
「なんや、ビビらせるだけか」
凪は小さく呟いた。
男はそれを拾って、鼻で笑う。
「それ、こっちの台詞たい。フォロワー1が変なエフェクト出したくらいで、なんか起きると思ったと?」
周囲にコメントが流れる。
『演出だけ?』
『草』
『はよ殴れ』
『新人の泣き顔待ち』
男は肩を回し、右手を軽く振った。
その瞬間、男の周囲に浮かぶカメラの光が一斉に強くなる。
「見とけよ、リスナー。これがVALDGEARの基本たい」
男の拳に、薄い赤の光が集まった。
「数字が上のやつが、下のやつを殴る。それだけ」
次の瞬間、凪の腹に衝撃が入った。
見えなかった。
殴られたと理解した時には、体が後ろへ吹き飛んでいた。
「がっ……!」
背中が路面に叩きつけられる。
肺の中の空気が全部抜けた。
痛い。
現実じゃないはずなのに、痛みだけは本物だった。
男のコメント欄が盛り上がる。
『いい音』
『フォロワー1、軽すぎ』
『素材確定』
『もう一発』
凪は咳き込みながら、なんとか上体を起こした。
腹が焼けるように痛む。
視界の端で、自分の表示が揺れていた。
PAWN。
FOLLOWER:1。
「……なんで、こんな」
声が漏れた。
男はゆっくり近づいてくる。
「教えたる。ここは数字の世界ばい。フォロワーは信用、信用は力。おまえの声ば聞きたい人間が一人しかおらんってことは、おまえの存在には一人分の重さしかなかってこと」
一人分。
その言葉が、妙に刺さった。
現実でも同じだった。
再生数2。
いいね0。
コメント0。
誰にも聴かれない音。
誰にも覚えられない配達員。
数字がないなら、そこにいないのと同じ。
だから男は凪を殴る。
フォロワー1の新人を笑いものにすれば、男の配信は少し伸びる。
「だから、フォロワー1のおまえは」
男が凪の前で立ち止まる。
「俺の配信のネタになるくらいが、ちょうどよか」
男の足が、凪の肩を蹴った。
体が横に転がる。
周囲が笑った。
凪は歯を食いしばった。
悔しい。
怖い。
逃げたい。
それなのに、男の言葉を否定できない自分が一番腹立たしかった。
自分には一人分の重さしかない。
いや。
違う。
凪はスマホを握った。
画面には、yuiのメッセージが残っている。
『その1は』
『わたしです』
一人分。
たった一人。
でも、その一人を軽いと言われたくなかった。
「……勝手に」
凪は路面に手をついた。
膝が震える。
腹が痛い。
息を吸うだけで、胸が軋む。
それでも立った。
「勝手に、軽いって決めんなや」
男が眉を上げた。
「は?」
凪はペンデバイスを握り直す。
黒い金属のペン先が、かすかに鳴った。
ペン先から伸びる光は、音の波形みたいに震えている。
歌えない。
叫べない。
でも、書ける。
凪は空中に、もう一度文字を書いた。
『一人』
その文字は、さっきの『届け』よりも弱かった。
細く、頼りなく、今にも消えそうだった。
周囲から失笑が起きる。
『一人w』
『自虐?』
『泣きポエム始まった』
男も笑った。
「それで何すると? フォロワー1って自己紹介?」
凪は答えない。
続けて書く。
『でも』
手が震える。
文字が歪む。
男が退屈そうに肩をすくめた。
「もうよか」
赤い光が、男の拳に集まる。
「終わりにするばい」
凪は最後の一語を書いた。
『ゼロじゃない』
三つの言葉が、空中でつながった。
『一人』
『でも』
『ゼロじゃない』
黒い文字が、音のように震える。
それは歌ではなかった。
叫びでもなかった。
でも、凪が何度も飲み込んできた本音だった。
男の拳が迫る。
凪は逃げなかった。
拳に文字を宿す。
『ゼロじゃない』
凪の拳と、男の拳がぶつかった。
衝撃。
痛み。
骨が砕けたかと思った。
それでも、凪は吹き飛ばなかった。
男の目が見開かれる。
「なんで止まると」
周囲のコメントが一瞬止まった。
凪の拳から、黒い波紋が広がっている。
男の赤い光が、その波紋に食われるように削れていた。
「おまえ、フォロワー1やろうもん!」
「一人おる」
凪は歯を食いしばった。
「オレの音を、聴いたって言うてくれた人が、一人おる」
黒い文字が強く震える。
男の拳が、わずかに押し返された。
コメント欄に、新しい文字が流れた。
『なんか今の、ちょっと分かる』
凪の表示が揺れる。
FOLLOWER:1。
まだ変わらない。
けれど、周囲の空気が変わった。
さっきまで笑っていた誰かが、黙った。
男はそれに気づき、顔を歪めた。
「変な空気にすんなって」
男が左手を振る。
浮かんでいたカメラの光が、さらに増えた。
「おまえら、コメント止めんなちゃ。笑え。」
その声に合わせて、コメントが無理やり流れ始める。
『草』
『ポエムきつい』
『早く倒せ』
だが、さっきより勢いがない。
凪はそれを見た。
ほんの少し。
本当に、ほんの少しだけ。
届いた。
「調子乗んな!」
男が蹴りを放つ。
凪は避けられなかった。
肩に直撃し、体が横へ弾かれる。
それでも、倒れきる前に足を踏ん張った。
ペンデバイスを握る。
空中にもう一語。
『聴け』
さっきより線が太い。
文字が、低いギターの弦みたいに鳴った。
凪は踏み込む。
男が鼻で笑う。
「命令すんなちゃ、フォロワー1」
「命令ちゃう」
凪は拳を振った。
「願いや」
黒い文字をまとった拳が、男の頬をかすめた。
直撃ではない。
それでも男の顔が横に揺れた。
配信のカメラが、ざわめくように揺れる。
コメントが流れた。
『当たった?』
『今かすったよな』
『フォロワー1で?』
男の顔が赤くなる。
「おまえ……!」
凪はもう一度ペンを走らせようとした。
だが、指が動かない。
限界だった。
腹も肩も痛む。
呼吸は荒く、視界がにじむ。
男はそれを見逃さなかった。
「終わりたい」
赤い光が、今までで一番強く拳に集まる。
凪のスマホが震えた。
yuiからのメッセージ。
『見て』
凪は顔を上げた。
男の背後。
配信コメントの流れの中に、一つだけ違う表示があった。
『フォローしました』
誰が押したのかは分からない。
名前も見えない。
ただ、その一文だけが、夜の中で光っていた。
凪の頭上の数字が変わる。
FOLLOWER:1。
FOLLOWER:2。
たった一つ増えただけ。
それだけなのに、凪の体の奥で何かが鳴った。
男の拳が迫る。
凪はペンデバイスを握る。
もう、手は震えていなかった。
「二人目」
凪は小さく笑った。
「届いたんや」
黒い文字が、拳の上で弾けた。




