第一話:フォロワー1の男
「フォロワー一人で、ここに来たと?」
笑い声が、夜の街に広がった。
凪は、自分の頭上に浮かぶ数字を見上げた。
FOLLOWER:1。
そのたった一桁が、ここでは裸で立たされるより恥ずかしいらしい。
周りにいる連中の頭上には、見たこともない数字が並んでいた。
98。
214。
3,902。
数字の横には、PAWN、KNIGHT、という階級。
意味は分からない。
けれど一つだけ、体が先に理解していた。
ここでは、数字の大きいやつが強い。
数字の小さいやつは、食われる。
「新人やな」
凪は小さく呟いた。
派手なジャケットの男が、凪の前に立った。
男の頭上には、こう表示されている。
PAWN。
FOLLOWER:98。
凪の九十八倍。
男の背後には、薄いカメラのような光がいくつも浮かんでいた。
誰かが見ている。
誰かが笑っている。
男は凪を指差した。
「フォロワー1の素材発見。今日の配信、当たりたい」
凪は一歩下がった。
靴底が濡れたアスファルトを擦る。
そこは、凪が暮らすNEO-FUKUOKA CITYに似ていた。
けれど、同じではなかった。
いつもなら大型ビジョンに広告が流れているビルの壁には、見知らぬコメントが滝のように走っている。交差点の信号は青でも赤でもなく、壊れた動画のようなノイズを吐いていた。空には巨大な画面の割れ目みたいなものが走り、街全体がスマホの内側に閉じ込められているようだった。
NEO-FUKUOKA CITYの裏側。
そう呼ぶしかない場所だった。
数分前まで、凪は自分の部屋にいた。
六畳一間。
雨に濡れたパーカー。
冷めたコンビニ弁当。
再生数2の、誰にも聴かれない曲。
それだけの夜だった。
なのに今、見慣れた街の形をした知らない世界で、知らない連中に囲まれている。
スマホが震えた。
画面に、短いメッセージ。
『逃げて』
送信者は、@yui_musubi。
凪をここへ連れてきた、たった一人のフォロワー。
男が笑った。
「逃げてもよかよ。逃げるとこまで撮るけん」
カメラの光が増える。
コメントが宙を流れた。
『フォロワー1は草』
『チュートリアル素材?』
『泣くまでやれ』
凪の喉が乾いた。
またこれか、と思った。
見られる側と、見られない側。
笑う側と、笑われる側。
数字を持つ者と、持たない者。
どこへ行っても、自分は後者なのか。
男が拳を鳴らす。
「なあ、フォロワー1くん。悪いけど、俺の数字になってくれん?」
凪のスマホが、もう一度震えた。
『凪さん』
『その1は』
『わたしです』
凪は息を止めた。
その1。
ゼロではない。
一人だけいる。
自分の音を、聴いたと言った人が。
時間が、数分だけ巻き戻る。
---
再生数、2。
いいね、0。
コメント、0。
天沢凪は、スマホの画面を閉じた。
三秒後、また開いた。
数字は変わっていなかった。
「……知っとるわ」
深夜一時過ぎ。
NEO-FUKUOKA CITYの下層住宅区。
六畳一間のアパートには、濡れたパーカーの匂いと、冷めたコンビニ弁当の匂いが混ざっていた。
玄関では、フードデリバリーの配達バッグが壁にもたれている。
今日も一日、誰かの飯を運んだ。
誰かの高層マンションに入り、誰かの玄関前に袋を置き、誰かの生活をほんの少しだけ便利にして、誰にも顔を覚えられないまま帰ってきた。
それで終わり。
それが凪の一日だった。
窓の外では、深夜でも広告ドローンが飛んでいた。
新しいカフェ。
新しい配信者。
新しい音楽イベント。
この街は、誰かに見られるための光でできている。
けれど凪の部屋だけは、その光から切り離されたみたいに暗かった。
スマホには、自分が投稿した曲が表示されている。
タイトルは「誰にも届かへんこだま」。
安いマイクで録った声。
中古のギター。
雨の音が少し混じった、下手な弾き語り。
歌詞だけは、何度も書き直した。
誰にも届かないと分かっているのに、届いてほしくて書いた。
再生数、2。
その2回も、たぶん自分だ。
投稿した直後に一回。
風呂に入る前に、もう一回。
「誰にも聴こえてへん」
口に出すと、思ったより軽かった。
もっと痛い声になると思っていた。
でも実際に出てきたのは、何度も使い回したため息みたいな声だった。
「どこにも繋がってへん気がするわ」
二十六歳。
フリーター。
彼女なし。
友達なし。
貯金なし。
夢だけは、捨てたふりをして、まだ部屋の隅に転がっている。
凪は机の上のボールペンを指で転がした。
昔、誰かと一緒に言葉を作っていた時期がある。
自分が書いた言葉を、初めて面白いと言ってくれた友達だった。
今はもう、いない。
理由も分からないまま離れて、それきりだ。
だから凪は、一人で書いて、一人で歌って、一人で確認している。
朝起きる。
配達する。
帰る。
録る。
投稿する。
数字は動かない。
「これが人生なんやろ」
そう言えば、諦めた人間みたいに見える。
本当は違う。
諦めきれないから、毎晩スマホを開いている。
誰かに見つけてほしい。
でも見つかったら、怖い。
褒められたい。
でも笑われるくらいなら、最初から誰にも聴かれない方がましだ。
面倒くさい。
惨めだ。
それでも、消せなかった。
自分の曲も。
自分自身も。
スマホを枕元に投げようとした。
その時だった。
ピコン。
通知音。
どうせ配達アプリのキャンペーン通知だと思った。
けれど画面には、知らない名前があった。
『@yui_musubi さんがあなたの投稿にコメントしました』
凪は息を忘れた。
「……は?」
開く。
コメントは、二行だけだった。
『世界の片隅から。』
『君の音、わたしには届いとるよ』
凪は画面を見つめた。
一回読んだ。
二回読んだ。
三回目で、目の奥が熱くなった。
世界の片隅から。
君の音。
わたしには。
届いとるよ。
たった二行だ。
長文の感想でもない。
バズでもない。
有名人の引用でもない。
それなのに、その一行は、再生数2の画面よりずっと強く凪を殴った。
「……聴いて、くれたんか」
声が震えた。
@yui_musubi。
プロフィールを開く。
アイコンは、白い糸で作られた小さな結び目。
投稿はほとんどない。
フォロワー数は表示されていない。
自己紹介欄には、短くこう書かれていた。
『迷子の音を探しています』
その下に、リンクが一つ。
怪しい。
どう考えても怪しい。
普段の凪なら絶対に押さない。
けれど今の凪には、それが自分だけに向けられた扉に見えた。
「……アホやな、オレ」
凪はリンクを押した。
画面が黒くなる。
白い文字が浮かぶ。
> VALDGEAR SYSTEM BOOT
>
> USER:天沢 凪
>
> RANK:PAWN
>
> FOLLOWER:1
>
> CONNECT:START
「フォロワー、1?」
床が消えた。
落ちる。
耳鳴り。
スマホの光だけが、視界の真ん中でほどけていく。
次に足が地面を踏んだ時、凪はVALDGEARにいた。
---
そして今。
フォロワー98の男が、凪を素材と呼んでいる。
凪は震える手で、胸元のペンデバイスを握った。
いつの間にか、ただのボールペンではなくなっていた。
黒い金属のペン。
ペン先には、音の波形みたいな光が揺れている。
スマホに、ゆいの最後のメッセージが届いた。
『書いて』
たった三文字。
それだけで、凪には十分だった。
歌う勇気はない。
叫ぶ勇気もない。
でも、書くことならできる。
誰にも聴こえなかった音の奥にあった、本当の一言を。
凪は空中にペンを走らせた。
震えた線で、一語を書く。
『届け』
黒い文字が、音のように震えた。
男の笑みが止まる。
「おまえ、今なんしたと」
凪は拳を握った。
怖い。
逃げたい。
勝てるわけがない。
フォロワー1と98。
数字だけ見れば、始まる前から負けている。
それでも。
この1を、なかったことにしたくなかった。
「オレは」
凪の声は震えていた。
けれど、消えなかった。
「誰かの数字になるために、歌ったんやない」
黒い文字が、凪の拳に宿る。
男の配信画面に、コメントが一つ流れた。
『今の音、なに』
凪の頭上の数字が、かすかに揺れた。
FOLLOWER:1。
まだ、1。
けれど男は確かに、その数字を見た。
笑っていた周囲の声が、少しだけ止まった。
凪は、初めて顔を上げた。
たった一人に届いた音を、二人目に届けるために。




