第二十二話:切り抜かれる前に
歩道橋の上で受け取ったほのかのメッセージは、夜になっても画面に残っていた。
> ほのか
>
> 切り抜き師。感じ悪いやつ
凪は配達バッグを床に置いたまま、スマホを見下ろす。
昨日のNexus Square(ネクサス広場)。
黒い床。
御門澄也の声。
> お前は俺を見ていない。
>
> 俺の数字だけを見ていた。
その言葉が、まだ喉の奥に残っている。
御門へもう一度向かう。
そのためには、御門だけを見ていても足りない。ほのかが言った通り、KNIGHTには色々いる。見られ方を作る者。順番を決める者。意味を貼る者。
そして、前後を切る者。
スマホが震えた。
> ほのか
>
> HAKATA BASE
>
> 地下通路
>
> 22時
続けて、もう一行。
> 遅刻したら、そこだけ抜かれるよ
凪は小さく息を吐いた。
「もう嫌やな」
返信欄を開く。
> 凪
>
> 行く
送信してから、首元のボールペンに触れた。
勝つためではない。
まだ、勝てる相手かも分からない。
まず見る。
数字ではなく、相手を。
---
22時前のHAKATA BASEは、地上だけがまだ明るかった。
改札前を急ぐ人。
終電を気にする声。
壁の広告。
その下へ降りる階段だけが、少し暗い。
凪が階段前に着くと、ほのかはすでにいた。
現実のほのかだった。
ピンクの髪をゆるくまとめ、肩から小さなバッグをかけている。
「早いじゃん」
「遅刻したら抜かれるんやろ」
「素直」
「怖いからな」
「それ言えるの、ちょっと成長じゃん」
「茶化すな」
ほのかは笑った。
いつもの軽さ。
けれど、階段の下へ視線を落とした瞬間だけ、目が静かになった。
「HOUND」
「犬か」
「みんなそう呼んでる。本名か通称かは知らない」
「何するやつや」
「噛みついたところだけ持っていく」
凪は眉を寄せた。
「分かるようで分からん」
「御門は先に意味を置くでしょ」
「ああ」
「HOUNDは、前後を捨てる。怒った瞬間。黙った瞬間。逃げたように見える一歩。そこだけ抜いて流す」
凪の胸の奥で、昨日の黒い窓が開きかける。
> SPARKLEを守ることで、自分を保とうとしている
ほのかは凪を見た。
「凪、相性悪いよ」
「何でや」
「怒るから」
「そこだけか」
「守るから」
「……」
「言い返すから」
「多いな」
「多いよ」
ほのかは笑っていない。
凪も笑えなかった。
相手が御門なら、意味を貼られる。
相手がHOUNDなら、その一瞬だけ抜かれる。
どちらにしても、凪は自分の反応を先に取られる。
「でも、見るんやろ」
凪が言うと、ほのかは頷いた。
「うん。あたしも見る」
「御門に勝つためか」
「それもある」
「他にもあるんか」
「あるよ」
ほのかは、階段の下を見る。
「あたし、見られることは慣れてる。でも、切り抜かれるのは苦手」
短い言葉だった。
その言い方で、凪は分かった。
これは凪だけの相手ではない。
ほのかも、昨日の「見てるだけ」をまだ引きずっている。
凪はスマホを出した。
画面に、黒い窓が浮かぶ。
> VALDGEAR SYSTEM
>
> CONNECT
>
> START
ほのかのスマホにも、同じ表示。
二人は顔を見合わせた。
「入るで」
「うん」
凪は親指で画面を押した。
駅の音が、薄くなる。
改札機の電子音。
人の足音。
地上の広告の声。
全部が一度遠ざかって、白い接続ノイズに混ざった。
階段の一段目を踏む。
二段目。
三段目。
降りるたびに、壁の光が現実の色を失っていく。
最後の段に足を置いた瞬間、足裏に冷たい床の感触が戻った。
VALDGEAR。
HAKATA BASEの地下通路。
天井は低い。
左右の壁には、縦長の広告パネルが並んでいる。
床の中央には、黄色い誘導ラインが一本。
北側の階段を背に、凪。
その右斜め前に、SPARKLEが立っていた。
ピンクの髪。
黒とピンクのアクティブスーツ。
補助装備のついた脚。
背中の小さな加速ブースター。
いつもの派手な光は、少し抑えられている。
目立つためではなく、見落とさないために立っている。
通路の反対側。
南側の改札跡に、黒いフードの影がいた。
顔は見えない。
先に見えたのは、足元から伸びる黒い線だった。
細い。
編集ソフトのタイムラインみたいな線。
それが床の黄色い誘導ラインに重なり、左右の広告パネルへ伸びていく。
壁の広告が、一枚ずつ黒く落ちた。
白い表示が浮かぶ。
> HOUND
>
> RANK:KNIGHT
>
> FOLLOWER:2,417
2,417。
御門よりは下。
ほのかよりも下。
でも、凪より上。
凪はその数字を見た。
それから、フードの奥へ視線を戻した。
顔は、まだ見えない。
「顔隠してる」
「見せたくないんでしょ」
SPARKLEが右足を少し引く。
通路の幅を測るような動き。
その一瞬、右壁の広告パネルが光った。
> CLIP 001
>
> SPARKLE、下がった
映っていたのは、ほのかの足だけだった。
右足が半歩下がるところ。
前後はない。
通路の幅を測ったことも、HOUNDとの距離も映らない。
足が下がった。
それだけ。
『下がった?』
『SPARKLE逃げた?』
『脚だけ抜くな』
コメントが壁に流れる。
ほのかの表情が、ほんの少し強張った。
「今の、下がったんじゃない」
「分かっとる」
「でも、画面だとそうなる」
HOUNDは動かない。
ただ、床の黒い線だけが鳴った。
カチ。
今度は凪の前に、左壁のパネルが光る。
> CLIP 002
>
> 分かっとる
凪の声だけが再生された。
ほのかの言葉はない。
凪が、短く分かったふうに答えた場面だけ。
その上に、別の白い文字が重なる。
> 分かったつもり
凪の背中が熱くなる。
「勝手に――」
言いかけて、止めた。
右壁のパネルが、もう光りかけている。
そこまで待っている。
凪が怒るところを。
HOUNDは、凪の言葉を読んでいるのではない。
怒らせる場所を、先に置いている。
「……感じ悪」
SPARKLEが言った。
凪は小さく笑いそうになる。
その笑いも、すぐ左壁に抜かれた。
> CLIP 003
>
> 凪、笑った
『笑う場面?』
『余裕?』
『SPARKLEの口癖うつってる』
凪は笑いを止めた。
止めたところまで、別のパネルが拾う。
> CLIP 004
>
> 笑うのをやめた
「きりないな」
「だから嫌なんだよ」
SPARKLEの声が低い。
HOUNDの黒い線が、床を走る。
左右の広告パネルが一斉に消え、通路の真ん中へ黒い短冊が落ちた。
紙ではない。
画面でもない。
薄い壁のような切り取り線。
それが、凪とSPARKLEの間に立つ。
凪からは、SPARKLEの上半身だけが見える。
足元が隠れている。
SPARKLEからは、凪の顔と肩だけが見えているはずだった。
> CUT LINE
>
> NAGI / SPARKLE
右壁に、SPARKLEが凪を見る映像。
> CLIP 005
>
> SPARKLE、凪を見る
左壁に、凪がSPARKLEへ寄りかける映像。
> CLIP 006
>
> 凪、SPARKLEへ寄る
『また二人?』
『助ける?』
『近い』
『昨日もこんな感じだった?』
凪の胸の奥で、御門の窓が開く。
> SPARKLEを守ることで、自分を保とうとしている
足が前に出そうになる。
短冊を壊したい。
SPARKLEの前へ行きたい。
そう思った瞬間、HOUNDの床線が鳴った。
待っている。
凪が動くのを。
SPARKLEが短冊越しに言った。
「凪」
「分かっとる」
「ほんとに?」
「たぶん」
「弱」
「嘘はつかれへん」
SPARKLEの口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
右壁に抜かれる。
> CLIP 007
>
> SPARKLE、笑った
だが、今度の切り抜きは、悪く見えなかった。
前後を知らなくても、そこには少しだけ呼吸が残っていた。
凪はそれを見た。
切り抜きは全部を壊すわけではない。
残せるものもある。
問題は、どこへ残すか。
「HOUND」
凪が呼ぶと、フードの影がわずかに首を傾けた。
返事はない。
「お前、何で顔出さへん」
左壁がすぐに光る。
> CLIP 008
>
> 何で顔出さへん
その上に、HOUNDの文字。
> 顔を見たがる
凪はペンを抜いた。
右壁が光る。
> CLIP 009
>
> ペンを抜いた
早い。
凪が書くより先に、動作だけが抜かれる。
なら、動作を見せればいい。
凪はペンを握ったまま、書かない。
広告パネルが一瞬、迷ったように暗くなった。
HOUNDの黒い線が、床の上で細かく揺れる。
「凪、何してるの」
「見てる」
「何を」
「切る前」
凪は短冊の下を見る。
黒い線は、床を通ってパネルへ映像を運ぶ。
切られる前に、ほんの少しだけ余白がある。
HOUNDが選ぶより前。
画面になるより前。
そこへ書けるか。
「ほのか」
「何」
「右足」
SPARKLEの目が細くなる。
「そこ見てたの?」
「見えた」
「昨日から?」
「今は今や」
「ごまかした」
「ええから、半歩遅らせて」
SPARKLEは息を吐いた。
右足を、ほんの半歩だけ遅らせる。
派手なフェイントではない。
観客に見せる動きでもない。
床の黒い線が切り抜きを拾うタイミングから、少しだけ外す動き。
HOUNDの線が空振りした。
短冊の下に、わずかな隙間ができる。
凪はそこへペン先を差し込んだ。
短冊の表ではない。
壁に映る画面でもない。
切られる前の裏側。
そこへ書く。
> 前がある
文字は、すぐ切られた。
左壁に映る。
> CLIP 010
>
> 前がある
短い。
前後はない。
でも、言葉として残った。
『前?』
『何の前』
『今、裏に書いた?』
『切られる前ってこと?』
コメントの流れが、一瞬だけ変わる。
怒ったか。
逃げたか。
笑ったか。
それを決める前に、誰かが「前」を探した。
HOUNDが初めて、一歩前へ出た。
フードの奥はまだ黒い。
でも、声だけは聞こえた。
「余計なものを残すな」
乾いた声。
すぐに右壁へ抜かれる。
> CLIP 011
>
> 余計なもの
凪は、その文字を見た。
「自分で言うたな」
床の黒い線が一斉に跳ねた。
左右の広告パネルが、細かく点滅する。
凪の眉。
SPARKLEの右足。
ペン先。
短冊の裏。
全部が細かく刻まれる。
> CLIP 012
>
> 眉を寄せた
> CLIP 013
>
> SPARKLE、遅れた
> CLIP 014
>
> 裏に書いた
『遅れた?』
『いや、ずらした?』
『裏って何』
『前がある、残ってる』
凪は動かない。
SPARKLEも動かない。
二人の間の短冊は、まだ半分残っている。
けれど、壁に残った一文だけは消えない。
> CLIP 010:前がある
HOUNDの黒い線が、床の中央で止まった。
次の瞬間、通路の照明が現実の広告色に戻り始める。
だが、HOUNDの声だけは残った。
「明日、本番を開く」
床に、黒い表示が走る。
> FIELD RESERVED
>
> TARGET:AMASAWA NAGI / SPARKLE
「逃げるところまで撮らせろ」
黒い短冊が閉じた。
左右の広告が、普通の動画に戻る。
南側の改札跡にいたHOUNDの姿は、もうない。
通路はただの一本道に戻った。
低い天井。
黄色い誘導ライン。
左右の広告パネル。
そして、凪とSPARKLEの間に残った、切られた後の沈黙。
凪はペンをしまわなかった。
手の中に残す。
「明日やな」
「うん」
SPARKLEは右足を軽く回した。
さっきより動きが少し硬い。
凪は見た。
見てから、言う。
「大丈夫か」
「それ、今聞く?」
「今聞くやろ」
SPARKLEは少しだけ笑った。
でも、目は笑っていない。
「大丈夫じゃない」
「やろな」
「でも、見えた」
「何が」
「切られる場所」
凪は頷いた。
御門は、見る順番を決めた。
HOUNDは、見る前後を捨てる。
どちらも、見ていない相手には勝てない。
凪は壁の広告パネルを見た。
そこにはもう、普通の広告しか流れていない。
けれど、さっきの一文だけは、凪の目にまだ残っている。
> 前がある
次は、本番。
切られる前を、残す。




