第二十一話:床に残った文字
スマホの画面は、黒いままだった。
電源が落ちているわけではない。
通知も来ている。
ただ、凪の親指が、画面を起こすところで止まっていた。
安いワンルームの天井に、朝の光が薄く貼りついている。カーテンの隙間から入ったそれが、床に置いた配達バッグの角を白くしていた。
昨日の夜、Nexus Square(ネクサス広場)で床に手をついた感触が、まだ手のひらに残っている。
傷はない。
血も出ていない。
なのに、指を握ると、あの黒い床の冷たさだけが戻ってきた。
> AMASAWA NAGI
>
> KNIGHT
>
> FIELD CONTROL:0
最後に残った表示。
消えたはずの文字が、まぶたの裏に残っている。
「……だる」
声に出しても、部屋の空気は変わらなかった。
凪はスマホを裏返す。
すぐに、振動した。
一度。
短い。
通知の種類は分かる。
現実SNSではない。
VALDGEARの黒いログでもない。
あの白い通知。
凪は数秒、見ないふりをした。
それから、負けたみたいな気分でスマホを表に戻す。
> @yui_musubi
>
> まだ
それだけだった。
「……分かっとるわ」
凪は小さく言った。
責められているわけではない。
励まされているわけでもない。
ただ、まだ。
昨日、御門澄也の前で、自分が何も届かなかったことを、白い文字は短く置いてきた。
凪は返信欄を開く。
何を書くか、決まらない。
`次は勝つ`。
違う。
`見とけ`。
違う。
そんな言葉を打った瞬間、昨日の黒い窓が出てくる気がした。
> SUMIYA MIKADO
>
> まだ、という言葉で負けを先送りにする
凪は舌打ちして、返信欄を閉じた。
「勝手に出てくんなや」
部屋には誰もいない。
でも、御門の声だけが、昨日より近かった。
---
昼過ぎ、K-AXISの端の席で、ほのかはアイスコーヒーを二つ置いた。
制服のエプロン。まとめた髪。小さなリボン。
VALDGEARで見たSPARKLEの補助装備も、光る脚も、ここにはない。
それでも、店内の何人かは彼女を目で追っていた。
ほのかは慣れた顔で笑う。
「お待たせ。片方、シロップなしでよかったっしょ?」
「頼んでへん」
「顔がそう言ってた」
「顔で注文取んな」
いつもの軽さだった。
けれど、カップを置いた指が、ほんの少しだけ遅れた。
凪はそれを見た。
ほのかも、それに気づいた。
「何」
「何でもない」
「絶対何か見た顔じゃん」
「見てへん」
「嘘つき」
ほのかは向かいに座らない。仕事中だから当たり前だ。
けれど、少しだけ凪の席の横に立ったまま動かなかった。
店内の音が薄くなる。
カップの氷が鳴った。
「昨日さ」
ほのかが言った。
声は明るいままだった。
「あたし、めっちゃ感じ悪い顔してた?」
「いつも通りや」
「それ褒めてないじゃん」
「褒めてへん」
ほのかは笑った。
でも、すぐに笑いが落ちた。
「見てるだけ、ってさ」
凪はカップを持つ手を止めた。
「あれ、思ったより来た」
ほのかは視線を落とさない。店員としての笑顔も作っていない。
ただ、凪の横に立っている。
「あたし、見られるのは慣れてるんだよ。SPARKLEとしても、店員としても。かわいいとか、動きが派手とか、脚がどうとか。そういうのは別にいい」
凪は黙って聞く。
「でも、昨日は違った。見られてるのに、何もできないっていうか。あたしがいることまで、御門の絵にされてた」
凪の指に力が入った。
「あいつに言われたからって――」
「それ」
ほのかが遮った。
声は強くない。
だから、余計に止まった。
「凪、それだよ」
「何がや」
「あたしを守ろうとしてキレたじゃん。昨日」
凪は答えない。
否定できなかった。
「嬉しくないわけじゃないよ。ほんとに。でも、あれも御門の中に入れられた」
ほのかは、テーブルの端に指を置いた。
「あたしを守る凪。SPARKLEの横にいる男。怒ってる男。全部、先に名前つけられた」
昨日の黒い窓が浮かぶ。
> SPARKLEを守ることで、自分を保とうとしている
凪は奥歯を噛んだ。
「……分かっとる」
「ほんとに?」
「分かっとる言うてるやろ」
「じゃあ、御門のこと見た?」
凪の返事が止まった。
ほのかは逃がさない。
「顔。声。立ち方。癖。あいつが何に怒ってるのか。何を嫌がってるのか」
「……」
「見た?」
凪は、昨日の御門を思い出す。
黒いコート。
整った姿勢。
御門の窓。
FOLLOWER:6,014。
その数字はすぐ出てくる。
でも、顔の細部がうまく出てこない。
あの時の声は覚えている。
なのに、その声がどこでわずかに揺れたかは、分からない。
凪はカップを置いた。
「見てへんかった」
ほのかの表情が、少しだけ変わった。
「オレ、あいつの数字見てた」
凪は言った。
自分で言うと、思っていたより苦かった。
「最初の夜もそうや。3,902って数字だけ見て、ビビってた。昨日も、6,014って出た時点で、もう上見てもうた。顔とか、人とか、そんなんやない。数字や」
ほのかは軽口を挟まなかった。
「見られたいとか言いながら、相手を見てへん。あいつの言うた通りや」
カフェの奥で、誰かが笑った。
現実の音が戻ってくる。
ほのかは、少しだけ息を吐いた。
「それ言えるなら、まだマシ」
「マシなだけやろ」
「うん。全然足りない」
「容赦ないな」
「凪が今ほしいの、優しい言葉じゃないっしょ?」
凪は返事に詰まった。
ほのかはやっと、いつもの顔に少し戻る。
「御門ともう一回やるなら、他のKNIGHTとやった方がいい」
「御門から逃げるんか」
「違う。御門しか知らないまま御門に行くのが、もう負け筋」
凪は眉を寄せた。
「KNIGHTって言っても色々いる。あたしみたいに視線で作るやつ。御門みたいに順番を決めるやつ。切り抜きで意味を変えるやつ。拡散だけして名前を消すやつ。人を見てるつもりで、自分の見られ方しか見てないやつ」
「多いな」
「多いよ。VALDGEARだもん」
ほのかは小さく笑った。
その笑いは、少しだけ疲れていた。
「あたしも、御門にはまだ届かない。昨日、分かった。動けなかったの、ルールのせいだけじゃない」
「ほのか」
「あたしも場数いる。凪だけじゃない」
凪は、そこで初めてほのかの手元を見た。
トレーを持つ指。
人差し指の爪の横に、小さな跡がある。
昨日VALDGEARで傷を負ったわけではない。
現実の仕事でついた、ただの跡。
でも、それを隠すみたいに、ほのかはトレーの角を握っていた。
「……オレが勝手に守るとか言うたら、またキレる?」
「キレない」
「そうなん」
「笑う」
「そっちの方が嫌やな」
「でしょ」
ほのかは一歩下がった。
店員の顔に戻る。
その切り替えが、やけに綺麗だった。
「次、探しとく。御門じゃないKNIGHT」
「誰でもええわけちゃうやろ」
「もちろん。凪に足りないところを、ちゃんと殴ってくるやつ」
「嫌な紹介文やな」
「成長イベントじゃん」
「他人事みたいに言うな」
「あたしも行くから。他人事じゃないよ」
ほのかはそう言って、別の席へ歩いていった。
軽い足取り。
でも、右足だけが、ほんの少し遅れていた。
凪は、それを見逃さなかった。
---
夕方、配達の合間に、凪は歩道橋の上でスマホを開いた。
現実SNSの通知は、少ない。
昨日の敗北は、現実の街には知られていない。
誰も凪を見て笑っていない。
それが、逆にきつかった。
VALDGEARの中で何も届かなかったことだけが、凪の中に残っている。
スマホの端に、白い文字が浮いた。
> @yui_musubi
>
> 凪くん
凪は歩道橋の手すりに寄りかかった。
「何や」
もちろん、声は届かない。
それでも、そう言ってしまう。
> @yui_musubi
>
> 見た?
凪は少し迷ってから、短く打った。
> 凪
>
> 見てへんかった
送ってから、胸が詰まった。
白い通知は、すぐには返らない。
車の音が下を流れていく。
TENJIN COREの広告塔が、夕方の空に薄く光っている。
やがて、返事が来た。
> @yui_musubi
>
> じゃあ次
「……短いな、ほんま」
凪は苦笑した。
それで十分だった。
慰められたかったわけではない。
勝てると言ってほしかったわけでもない。
次。
その一語で、昨日の床から少しだけ手が離れた気がした。
その時、画面の下に黒い通知が重なった。
白ではない。
VALDGEAR側の公開ログ。
発信者は、すぐに分かった。
> SUMIYA MIKADO
>
> FIELD ENTRY ACCEPTED
凪の指が止まる。
続けて、相手の表示が流れる。
> OPPONENT:KNIGHT
>
> FOLLOWER:3,481
御門が、別のKNIGHT戦を受けた。
凪とほのかが敗北を噛んでいる間に、あいつは止まっていない。
さらに下へ、短い文字が落ちた。
> SUMIYA MIKADO
>
> 次の場へ行く
凪はスマホを握った。
焦りが来る。
悔しさも来る。
けれど、昨日みたいに、すぐ怒りへ逃げることはできなかった。
御門は進んでいる。
なら、自分も進むしかない。
御門だけを見るのではなく。
御門へ行くまでに、見るべき相手を見る。
倒すべき相手を、数字ではなく、名前と顔で見る。
凪は、ほのかへメッセージを送った。
> 凪
>
> 次のKNIGHT、探してくれ
返事は早かった。
> ほのか
>
> もう見つけてる
すぐに、もう一行。
> ほのか
>
> 切り抜き師。感じ悪いやつ
凪は画面を見たまま、少しだけ笑った。
> 凪
>
> それ、おまえの敵ほぼ全員やろ
> ほのか
>
> 今回はちゃんと感じ悪い
歩道橋の上で、風が吹いた。
凪はスマホを閉じない。
黒い公開ログも、白い通知も、ほのかの軽口も、全部同じ画面に残っている。
昨日は、何も見えなかった。
今日はまだ、見えないものの方が多い。
それでも、次に見る相手だけは決まった。
御門澄也へ届く前に、凪は別のKNIGHTを見る。
今度は、数字だけではなく。




