第二話:虚勢の狩人、覚醒の初撃(ファーストストライク)
Training Street――NISHIJIN SECTORの一角に存在するその通りは、現実世界では学生たちが行き交う何の変哲もない路地裏だった。しかし、このヴァルドギアの世界においては、異様な雰囲気を纏っていた。壁やシャッターには無数のタグやマーキングが発光し、地面には淡い幾何学模様が浮かび上がっている。まるで、ここが特別な「闘技場」であることを示すかのように。
天沢凪は、目の前に立つ男――Clipと名乗るバトラーとにらみ合っていた。陰湿な笑みを浮かべ、凪を「素材」と呼ぶClipの言葉が、凪の心の奥底に眠っていた怒りの導火線に火をつけた。
「オレが……素材、やと?」
低い声で問い返す凪の身体からは、自分でも驚くほどのプレッシャーが放たれていた。黒のレザージャケットの内側に刻まれた無数の文字が、まるで凪の感情に呼応するように、チカチカと明滅を繰り返す。両腕に巻かれた白い包帯は、これから何かを刻み付けられるのを待っているかのように、凪の拳を固く覆っていた。
「そうだよ。お前みたいな反応のいい初心者は、俺のフォロワー様たちも喜ぶんだ」
Clipは肩をすくめ、手にしたスマートフォン型のデバイスを軽く振った。その画面には、カメレオンのようなアイコンと共に、「フォロワー数:203」という数字が浮かび上がっている。
「お前をコテンパンにして、その無様な姿を拡散すれば、また俺の評価が上がるって寸法さ。感謝しろよ、“敗北者”として名を売ってやるんだからな」
その言葉は、凪の胸に深く突き刺さった。「敗北者」――それは、凪自身がこれまで何度も自分に言い聞かせてきた言葉。だが、他人に、それもこんな侮蔑的な態度で投げつけられるのは、我慢ならなかった。
(ふざけんな……! オレは……オレはまだ、何も諦めてへん!)
凪の右手に握られたペンデバイスが、カチリ、と微かな音を立てて起動する。先端から淡い光が漏れ、まるで凪の意志を待っているかのようだ。
「ほらほら、かかってこないのか? それとも、怖くて足がすくんだか?」
Clipが挑発するように顎をしゃくる。その瞬間、彼の足元からデジタルの波紋のようなものが広がり、その姿が僅かにブレた。
「まずは小手調べだ。《保存データ・ロード》!」
Clipが叫ぶと、彼の身体から半透明のデータの残像のようなものが複数分離し、それぞれが過去のバトラーが使ったであろう技の型を取った。それはまるで、無数の幽霊が凪を取り囲むかのようだ。
「これは、俺が今まで“狩って”きた奴らの技の一部だ。お前ごときにオリジナルを使うまでもない」
残像の一つが、鋭い蹴りを繰り出してくる。咄嗟に身を屈めて避ける凪。頬を掠めた風圧が、その攻撃が単なる幻ではないことを告げていた。
(なんや、こいつ……人の技を!)
「そうさ、俺の能力は《コピー&ペースト》。そして、気に入った技は《保存》していつでも使える。お前のそのしょーもない異能も、すぐに俺のコレクションに加えてやるよ!」
Clipは下卑た笑みを浮かべながら、次々と残像に指示を出す。パンチ、キック、エネルギー弾のようなものまで、多彩な攻撃が凪を襲う。それらは一つ一つが致命的ではないものの、凪を確実に消耗させ、翻弄するには十分だった。
凪は必死に応戦する。配達で鍛えた反射神経と、本能的な危機回避能力で紙一重の攻撃を避け続けるが、防戦一方だった。自分の力がどういうものなのか、まだ掴みきれていない。レザージャケットも、腕の包帯も、このペンデバイスも、どう使えばいいのか皆目見当がつかない。
(クソッ、このままじゃ……!)
焦りが募る。Clipの言葉が脳内で反響する。「敗北者」「誰にも響かねえ」「しょーもない異能」。それは、凪が現実世界で抱え続けてきた虚無感と直結していた。
「どうした、ポーンだっけ? チェスの駒で一番弱い雑魚兵隊。お似合いのコードネームじゃないか!」
Clipの嘲笑が、凪の集中を乱す。
「お前のその言葉遊びみたいな力、誰に届くんだ? 誰がお前のことなんか見てるんだ?」
その言葉は、凪の心の最も柔らかい部分を抉った。
そうだ、自分の音楽も、自分の言葉も、誰にも届かなかった。再生数2、いいね0。それが現実だった。
だが――。
(いや、一人……一人だけ、おったはずや)
脳裏に、あの三日月のアイコンと、「@Yui_Musubi」という名前が浮かんだ。
『あなたの音、私には届きました』
たった一つのコメント。だが、それは凪にとって、暗闇を照らす一条の光だった。
(オレの言葉は……無駄やないかもしれへん!)
その思いが、凪の中で新たな力を呼び覚ます。
「うるさいわ、ボケ!」
凪は叫びながら、無我夢中で右の拳を振るった。ペンデバイスを握りしめたままの拳。
ドゴォォン!
鈍い炸裂音が響き、凪の拳の先から黒い衝撃波のようなものが迸った。それは、Clipが放った残像の一つを吹き飛ばし、霧散させた。
「なっ……!?」
Clipが目を見開く。凪自身も、自分の拳から放たれた力に驚いていた。
(今のは……オレが思った言葉が……?)
「潰れろ」――そう念じた瞬間に、力が拳から溢れ出た。
ジャケットの内側の文字が、先ほどよりも強く発光している。腕の包帯が、まるで生きているかのように脈動し、ペンデバイスが熱を帯びていた。
「ま、まぐれだ! たまたまだろ!」
Clipは動揺を隠せない様子で叫び、新たな残像を生み出す。だが、その動きには先ほどまでの余裕がない。
凪は確信し始めていた。この力は、自分の「言葉」と「感情」に呼応するのだと。
ならば――。
凪はペンデバイスを包帯に押し当てた。そして、強く念じながら、文字を刻み込む。
『拒絶』
その一言を刻み終えた瞬間、凪の周囲に半透明のバリアのようなものが展開された。Clipの残像が放ったエネルギー弾が、バリアに当たって霧散する。
「な、なんだその技は!? 見たことないぞ!」
Clipは明らかに狼狽していた。彼の《コピー&ペースト》は、既存のデータがなければ機能しない。凪のオリジナルな技は、彼にとって未知の脅威だった。
「これは……オレの言葉や」
凪は静かに告げた。そして、今度は空間に向かってペンデバイスを振るう。まるで空中に文字を書くように。
『弾けろ』
その言葉が虚空に描かれると同時に、それは実体を持った文字の弾丸となり、Clipめがけて飛翔した。
「うおっ!?」
Clipは慌ててそれを避ける。文字の弾丸は彼の背後の壁に命中し、小さな爆発を起こした。
「面白いやないか……!」
凪の口元に、いつしか不敵な笑みが浮かんでいた。恐怖は消え、代わりに高揚感が全身を駆け巡る。自分の言葉が、確かに力になっている。この世界では、自分の存在が否定されない。
「調子に乗るなよ、雑魚が!」
Clipは逆上し、デバイスを操作する。
「《コピー&ペースト》! お前のそのフザけた文字も、俺が再現してやる!」
彼の瞳が不気味に光り、凪が先ほど使った『弾けろ』という文字の弾を模倣しようとする。だが――。
「無駄や」
凪は冷ややかに言い放った。
「お前には、オレの言葉の“重み”は再現できへん」
Clipが放った模倣の文字弾は、凪のものよりも明らかに威力が劣り、形も不安定だった。それは簡単に凪にかき消される。
「な、なんでだ……!? 同じようにコピーしたはずなのに!」
「お前のそれは、ただの猿真似やからな。心が、魂が籠ってへん」
凪は、自分の力が単なる現象ではないことを理解しつつあった。それは、自分の内面、経験、感情、そして「存在証明」への渇望そのものが具現化したものなのだと。
「まだだ……まだ俺には《保存》した切り札がある!」
Clipは後ずさりながら、最後の悪あがきのように叫ぶ。彼の周囲に、これまでで最も強力そうなエネルギーが渦巻き始めた。
「これは、TENJIN COREで見たランカーの技だ! これで終わりだ!」
巨大なエネルギーの塊が、凪に向かって放たれる。これまでの攻撃とは比較にならない威力。まともに受ければ、ただでは済まないだろう。
(ヤバい……!)
凪は咄嗟にペンデバイスを構え、包帯に新たな言葉を刻もうとする。だが、間に合わないかもしれない。
その時、凪の脳裏に、再び「@Yui_Musubi」の言葉が蘇った。
『迷子の音を探しています。あなたの音も、聴かせてくれませんか?』
(オレの音……オレの言葉……届けたい相手がおるんや!)
そして、心の奥底からの叫びが、堰を切ったように溢れ出した。
「オレはッ……オレは、ここにいるんやァァァァッ!!」
その言葉と共に、凪の全身から凄まじいオーラが迸った。レザージャケットに刻まれた無数の文字が一斉に黄金色の光を放ち、両腕の包帯にこれまで刻まれた言葉たちも共鳴するように輝き出す。ペンデバイスが、まるで星のように強く煌めいた。
『システム介入……ユーザー:ポーンの“存在証明”臨界点到達を確認』
『初回特典:フォロワーとの精神的リンクによる一時的ブースト発動』
凪の意識の片隅で、そんなシステムメッセージが流れた気がした。
そして、凪の右拳に、これまでとは比較にならないほどの力が集約していく。それは、凪自身の魂の叫びであり、「@Yui_Musubi」への感謝であり、そして、この理不尽な世界への宣戦布告だった。
「これが……オレの“存在証明”やッ!!」
凪は、迫りくる巨大なエネルギーの塊に向かって、その黄金色に輝く拳を叩きつけた。
ゴォォォォォォォォッッ!!!
凄まじい衝撃波がTraining Streetを揺るがし、閃光が視界を白く染め上げる。
やがて光が収まった時、そこには信じられない光景が広がっていた。
Clipが放った巨大なエネルギーは完全に消滅し、代わりに凪の拳から放たれた黄金の衝撃波が、Clipを直撃していた。
「ぐ……あ……ありえない……なんで、俺が……こんな、ポーンなんかに……」
Clipは膝から崩れ落ち、その身体が徐々にデジタルノイズに包まれていく。彼のスマートフォン型デバイスに表示されていたフォロワー数が、急速に減少していくのが見えた。
「覚えてろよ……お前みたいな奴は、すぐに……もっと強い奴に……狩られるんだからな……」
捨て台詞を残し、Clipの姿は完全に掻き消えた。後に残されたのは、彼のデバイスが砕け散ったようなデジタルの残滓だけだった。
「はぁ……はぁ……はぁ……」
凪はその場に膝をついた。全身が鉛のように重く、激しい疲労感が襲ってくる。だが、それと同時に、今までに感じたことのない達成感が胸を満たしていた。
『バトル終了。勝者:ポーン』
『経験値獲得。レベルアップ』
『スキル:言霊撃Lv.1を習得しました』
『スキル:存在の刻印Lv.1を習得しました』
半透明のウィンドウが次々と表示され、凪の勝利を告げる。
「勝った……オレが……」
信じられない思いで、自分の拳を見つめる。まだ微かに黄金色の光の粒子が漂っていた。
これが、ヴァルドギア。これが、異能バトル。
そして、これが、オレの力――。
凪は、ゆっくりと立ち上がった。身体はまだ重いが、心は不思議と軽かった。「どこにも繋がってへん」という感覚は、今はもうない。確かに、自分はここに存在し、戦い、そして勝利したのだ。
「ありがとうな……@Yui_Musubi」
凪は、誰に言うともなく呟いた。彼女の言葉がなければ、この力に目覚めることはなかったかもしれない。
ふと、ペンデバイスが再び振動した。新たなメッセージが表示される。
『次のミッションがアンロックされました』
『HAKATA BASE・Terminal Gateにて、新たな接続の兆候を確認。調査に向かってください』
HAKATA BASE……NEO-FUKUOKA CITYの交通と物流の玄関口。そこにあるTerminal Gateとは、一体何なのか。
凪は、まだ多くの謎に包まれたこのヴァルドギアの世界で、次なる一歩を踏み出す覚悟を決めた。
虚無の配達員は、今、確かな存在感を持つ一人のバトラーとして、その運命を切り開き始めたのだ。
(第二話:了)