そこにある
湖の町ラクスに着いてから四日目。
東国に来てからは……二十日目、だっただろうか。すこし自信がない。
あまりの順調さに夢なんじゃないかと疑ってしまうくらいだ。
夢か現かを確認するためトリカの頬をつねってみたら、彼女は笑顔を崩すことなく無言で俺を鏡の中に一晩閉じ込めた。
堅く冷たい床で寝て、今は体がちょっぴり痛いからきっと夢ではない。
これが最大の問題で失敗だったというくらいラクスでは順調だった。
成功が続きすぎているときは、わざと小さなミスをして成功を止める。
こうした失敗により己を無理矢理にでも振り返ることが必要だ。
……けっしてトリカの頬に触って反応を見たかった訳ではない。
一日目――情報収集およびレェトへのお手紙記入。
二日目――能力者集団の情報収集。
三日目(昨日)――能力者集団と接触。交渉成功。鏡の中に監禁される。
ラクスでの日程をまとめるとこれくらい順調だ。
今までのことを考えるとこれがどれくらい順調なものかわかるだろう。怖いほどだ。
もしかすると俺は東国との相性がいいのかもしれない。
明日の早朝にはラクスを発つため、実質最終日となる今日は自由行動になった。
馬鹿なことはするなとオッカムに釘を刺されたが、そんな馬鹿なことをすることはないだろう。むしろ、そう言われると何か馬鹿なことをしろと前振りされているのではないかと思ってしまう。
今日は一日、トリカと一緒にラクスの町を散策するだけだ。
あちら――西国ではトリカは脱走兵だが、東国ではただの髪が長い女の子だ。
実際はテロリストと称される組織に所属しているのだが、派手に行動をしていないためばれることは今のところないだろう。
東国の服は西国とはかなり違っている。
話す言葉も大本は同じだがアクセントが異なる。
俺にとっては西国も東国もダモクレスとはそこそこ異なっているため、そこまで気にならないがトリカは西国のアクセントとの違いに戸惑っていた。
一方のオッカムはどちらの国でもアクセントを的確に使い分けている。さすが隊長は違う。……でも、ほとんど話さないからあんまり意味がない。
服もかなり変わった。
西国ではぶかぶかの服が一般的だったが、こちらではなにやらひらひらしたものに変わった。少し寒さを感じることもあるが、こちらの方が動きやすいため俺は気に入っている。
トリカはやはり慣れ親しんだ西国のぶかぶかした方がいいらしく。今も落ち着かない様子だ。
東国は国を大きく東西南北、そして中央の五つに分けており、それぞれの地域に執行者の一位から五位を振り分けているらしい。
西部は八年前の戦争で大きく衰退した。
その理由がトゥリスへの侵略の失敗だ。
当時、他の四地域から頭一つ抜きんでていた西部はその勢いを持って侵略を開始したものの、最終局でまさかの大失敗。五千以上の人員を失った。
当時のトップだった執行者第一位とやらは、命からがら東国に帰って来たもののその責任をとって自決したと言われている。
実際に死体を見たと話す人間がいないので、本当は生きているんじゃないかという噂もある。
まあ、だいたいは俺の師匠が悪いんだ……すまんな。
そして、ここはそんな西部にある湖の町ラクス。
西部にはこのラクスともう一つ大きな都市がある。都市が二つあるというよりは二つしかない。八年前の戦争によって、土地を大幅に縮減されてしまったようだ。
地域をまとめる執行者も第五位になり他の四地域と比べて武力的にも劣る。
さらに、その第五位も戦闘向きではなく、頭もよろしくない人物らしい。
自決した前執行者一位と仲が良く、二人一組で取り上げられていただけと聞いている。
そのためオッカムは西部なら軍との問題は少ないと話していた。
俺たちとしてもいきなり厳しいところに飛ばされなくてありがたかった。
一言多いおっさんも案外そのあたりのことを考えてくれていたのかもしれない。
さて、ラクスはここ七、八年で成長した町らしい。つまり、戦争のあとからだ。
それ以前にも人は住んでいたが、ぼちぼちだったようだ。
戦争で若干の被害を受けたとも聞いているが、その痕跡はもう見当たらない。
ここは北部、南部、中央の三地域からも交通ができ、非常に交易が便利な町だ。
町も大きな湖を囲むように沿岸を取り囲むように発達している。
もっと言うと、住む人の種類によって棲み分けがされている。
南北西、中央と町の四分の三は西部の人間ではない。
まあ、そんなことは外部の人間である俺たちにはあまり関係がない。
いろいろな地域のものが売られていておもしろい。それくらいなもんだ。
散策の途中でまだ少し機嫌の悪いトリカに経済的な髪飾りを買って手ずから付けてあげるとたいへん喜んでくれた……今日は、ベッドでぐっすり熟睡できそうだ。
楽しい時間というのはあっという間に過ぎてしまうもので、すでに日は傾いている。
西の沿岸から船に乗り、東の沿岸に向かう。
船頭はいない。俺が舵を漕ぐ。
いろいろなタイミングが悪く、俺自ら漕ぐことになってしまった。
目の前の金髪っ子はそれでよろこんでいるから良しとしよう。
湖の真ん中くらいに来ただろうか。
しかしこの湖は本当に底が浅い。手を伸ばせば届くのではないだろうか。
少し舵を引き上げて休むことにした。
「ところでルー」
ん〜?
と気の抜けた返事をする。
「レィト様にお手紙を書いたの?」
……どうやら、今日の修羅場はこれからだったようだ。
ああ書いたよ、と素直に認める。
彼女の質問は「書いたの?」と疑問系ではあるが、すでにどこからか俺が手紙を書いたという情報を掴んでいるはずだ。だからこその質問だと考えられる。
ここで俺が書いてないよと答えると、それは俺自身の首を絞めることになりかねない。
「どんなことを書いたの?」
質問は直球。
彼女らしいと言える。
「湖の町に来ました。その名前の通り、見渡す限りが湖で、住居が湖の上に建てられています。それくらいかな。まだ一日目だったからね」
トリカは俺の表情から情報を読み取ろうとしている。
ちなみに俺の話したことは事実だ。
どうせ嘘をついても高確率でばれる。それなら包み隠さず話した方が良い。
彼女も俺の言葉に嘘がないと判断したようで、静かに微笑む。
トリカさん。その顔は昨日、俺を監禁するときにしていたものと同じものですよ。気づいてますか?
誰か……助けてもらえませんかね。
そろそろ舵を漕ごうとしたが、手に汗を握っていたようでじっとりとする。
服で拭ってもいいが、せっかくだから水に手をつけて洗うことにした。
湖の水は澄んでおり、それにひんやりとして気持ちが良い。
――でも、それだけじゃなかった。
なにか……気配を感じる。
とても微少な気配。能力によるものだろうか。
「どうしたの?」
トリカもなにやら真面目な表情になっている。
俺の表情が真面目になっているからだろうか。
「よく、わからない。なにか気配を……」
俺はもう少し深く水に手を入れてみる。
先ほどよりも強く気配を感じるようになった。
底に近づけば近づくほど気配は大きくなるようだ。
もう少しで手が届きそうだが、この体勢ではきつい。
俺は船の端に寄りかかるようにして、腕を突っ込む。
トリカは困ったような、可哀想とでも言いたげな表情で俺を見てくる。
さっきの顔と比べて怖くはないんだが……なんだろう胸の辺りがチクチク痛む。
とりあえず、もう少しで水底だ。気配も明らかに大きくなってきている。
トリカの顔もどんどん直視できないものになってきている。
そしてついに手が届いた――それと同時に体を支えていた手が滑った。いや、何かに手を動かされた気がした。まさかトリカだろうか。
とりあえず船から乗り出していた体を支えるものはもはやない。
俺の体は水の中へ直行した。
水の冷たさの他に、二つの気配を感じた。
一つはあまりにも透明。水以上に透き通った気配。曇りなくどこまでも清き気配。
もう一つは、なんだろうな……。
今まで感じたもの気配の中で一番気配が濃い。気配の大きさは小さくないのに無理をして薄めようといろいろ混ぜたら、かえって濃くなってしまった。多くの光源によってできあがった一本の影のような気配だ。
自分で言っていてわかりづらいな。それくらいよくわからないものだ。
のんびりと気配の思考をしているうちに俺の体はどんどん水の中を沈んでいく。
水底は手が届くほど浅かった。それなのに、俺の体はどうしてどこまでも沈んでいこうとしているのだろうか。
上に見えていた光はすでにおぼろげで、水底はどこまでも暗く俺を誘う。
かすかな光を目指して足を蹴るものの、水は俺の体全体を覆い暗き方へと引きずり込む。
抵抗は無意味。
水底の闇を超えたとき、新たな光が見えた。
光は上ではなく、下にある。俺はどうかしてしまったのだろうか。
いや、そもそもどちらが上でどちらが下かなんて感覚は途中でなくなっていた。
俺の体は水を越え、光に向かって加速していく。
深く深くへと沈んでいたと思えば、いつの間にか俺は空を落ちていた。
どうやらタチの悪い夢を見ているらしい。
そろそろ目が覚める頃合いだ。目を開けたらベッドの下に体をぶつけるんだろうな。
覚悟を決めて目を瞑るものの、なかなか目は覚めない。
なんか地上が見えてきたんで、目が覚めてもいいと思うんですがどうでしょう?
…………もしかして現実ですか?
いやいや、そんな馬鹿な。
湖に落ちて、水の中を沈んでいって、空から落ちている――夢ですよね?
俺の落下方向に突如として球体が現れ膨らんだ。
どうしようもなく俺の体は球体にぶつかるが、ほとんど衝撃はない。
球体がへこみ、めりこんだところでパッと球体は消える。
小さな水しぶきが顔にかかる。冷たい……夢じゃない、のか。
減速しつつも落ちていくところでまたしても球体が現れ、俺の下向きの速度を落としていく。
速度が落ちてきてようやく気づいたが、この球体は泡だ。
減速したところで割れて、次の泡が俺を受け止めている。
この大きな泡は能力だ。
触れるたびに気配を感じる。俺が湖に手を浸したとき感じていたものだ。
清く澄んだ気配はこれだろう。
泡への衝突を繰り返してようやく俺の体は地にたどり着いた。
かわいた笑いがこみ上げる。
今日はラクスの最終日。とても順調にお仕事を終え、明日からは東に向けて出発するはずだった。
それが今では水浸しで、水面のように煌めく空を見上げている。
どうして……どうして、こうなった。




