さよなら、お姫様
オイラー隊長の見た目は平凡だ。
髪が異常に長いわけでもなく、声が耳を塞ぎたくなるほど大きくもなく、すれ違えば思わず振り返るほどの美人でもない。
まるで人間の平均値を体の各部位に取り付けているのではないかと思える。
少し話をしてみたが、話し方も地上で会った人間の中で一番まともだ。
語尾に訳のわからない言葉もつかず、突拍子のないことも言わない。
わかりやすい言葉で、ざっくばらんに話してくれるため、たいへん話がしやすい。
適度に表情を変えているのもいいところだ。
行動も別段おかしいところはない。
目を見て話をして、相づちを打って話を聞く。
人並みに足音を立てて歩き、大きな物音がした方向に目がいく。
当然、いきなり踊り出したり、腕に組み付いたりもしてこない。
ここまでは平凡、平坦、平均。まるで当たり障りがない。
全体としても平均値を寄せ集めて、普通のいい人になっているように見える。
そう。「見える」だけなんだ。
いい人に見えるオイラー隊長は、いったいなにを考えているのかまったく感じとれない。
体の部位も、話し方の特徴も、行動の規範も全て取って付けたようなもので、人間性は見て取れるが、人間と感じられない。
人間以外の何かが人間の真似事しているとしか思えない。
彼女の全てが記号だ。
外見とその意味はあるが、感情の入りこむ余地がない。
「オッカムから『部下ができた』って手紙で聞いてるよ。こんな形で会うとは思ってなかったけど、レィト王女を味方に付けるとはね、驚いたよー」
確かに、話の内容と話し方は「驚き」という意味を示しているんだが、オイラー隊長が本当に驚いているとはどうしても感じられない。
それとその話題は、俺の腕をつかむ面倒な存在が話に加わるからやめてほしい。
「それよりもオイラー隊長。先ほどの、姿を変えるのは隊長の能力ですか?」
「そうだよ」
ひとまず話題を強引に変える。
オイラー隊長が顔に手を触れる。
手が離れると、女性の顔は消え、老人の顔が現れる。
髪や手はオイラー隊長のままだった。余計に気持ち悪くなる。
彼女が顔に触れる瞬間に何か白いものが見えた。
「刃は……仮面、ですか?」
「おもしろいでしょ」
肯定するようにオイラー隊長が顔に再び触れる。
鋭い目つきが特徴の顔に変わった。オッカムだ。
そのままオッカムの顔で笑ってみせる。
鳥肌が立った。何がおもしろいものか。
無論、オッカムの笑顔が気持ち悪いわけではない。そもそも、オッカムの笑顔なんて俺は見たことがない。
しかし、オッカムは表情に出にくいが、感情はきちんとある。仮に笑うとしたら、その心情が顔ににじみ出るだろう。
オイラー隊長の作ったオッカムの笑顔にはまったく感情がない。顔の筋肉が「笑う」を示すように動いているだけだ。
「女性、老人、能力者。あなたもしかして……」
俺が気持ち悪さに絶句していると、横からレェトが口を開く。
いつの間にか腕を組んできているが、今はその暖かさに人間を感じることができてありがたい。
「レオンハルトですか?!」
レェトがやや興奮状態で口を開いた。
レオンハルト――それは確か、カリガが探していた人物のはずだ。
「私の偽名の一つだね。みんなには内緒だよ」
顔を戻したオイラー隊長はあっさりと認める。その顔すらも作り物なんだろうな。
俺の目に感じていた気配が強まる。テネスが反応している。
「レオンハルトってのはどういう人なんだ?」
なにやらテネスも気にするほどの有名人らしいが、まったく心当たりがない。
「妖精さんが読んでいた本の著者です。美しいと話していました」
「えっ! テネ……妖精さんが美しいって喋ったのか?」
「そうなんです。なにやら一つの式を見て一言、『美しい』と。それでなにやら『私の可能性たりえるか』と書かれていました」
テネスの口から「美しい」なんて言葉が出るとは、とてもじゃないが信じられない。
城の図書館でよく一緒に本を読んでいたが、まともな会話なんてしたことがない。たいてい一単語で終わる。ごくごく稀に「てにをは」があるくらいだ。
それに話すことも相手への指摘か質問。自分の感じたことをそのまま口に出すなんて考えられない……っていうかそんな感情があったのか。
「妖精さんが美しいって話した数式はどんなのだったんだ?」
「ルイーゼ君はもう知ってるよ」
間髪を入れずにオイラー隊長が返してくる。
どうやら著者にはどれが美しいと言われる式なのか心あたりがあるようだ。
俺が、知ってる?
もしかして……、
「あの合言葉?」
「ごめいとー」
目に感じる気配が一段と強まった。どうやら正解くさいな。
あの式はまったく意味のわからないものだったが、テネスが「美しい」というほどのものだったようだ。
そうだとすると、「可能性」ってのはなんだ。
「可能性ってなんだろう?」
首を捻ってわからないという姿勢を示す。
どうやらオイラー隊長もそこには疑問を抱いたようだ。
オイラー隊長が不意に目線を動かす。
「あなたが妖精さんなのかな」
気配がする方を向いてオイラー隊長が口にする。
俺にはテネスの姿は見えない。レェトも首をひねっている。
テネスがオイラー隊長にだけ姿を見せているらしい。
「…………わかった」
しばらくの沈黙のあと、オイラー隊長はそう返事をした。
俺とレェトは完全に置いてけぼりだ。
「私は妖精さんとお話してくるね」
なにやら、二人で静かに話をしていたようだ。
話と言ってもテネスが視界を無理矢理いじって文字を見せただけなんだろうがな。
「ルイーゼ君はどうする?」
どうするかとはこのまま一緒に塔を出るか、それとも塔に残るかということだろう。
出て行きたいのはやまやまなんだが、このまま何も言わずに出て行くと腕にくっついてるのが、さらにめんどうなことになる気がしてならない。
「俺はレェトと大切な話をします。それとオイラー隊長、あなたに伝えたいこととオッカム隊長に伝えて欲しいがあるんですが、いいですか?」
オイラー隊長は目線だけで俺の発言を促した。
オイラー隊長に伝言を頼んだ俺は、レェトと塔の最上階に行くことにした。
見晴らしがよくて、二人きりになれる場所はないかと聞いたら、「そんな場所は最上階を置いてあり得ません。二人きりで夜景を眺めるなんて素敵です。行くべきです、行かなければなりません。さあ、行きましょう」と彼女が力説したためだ。
途中から完全に彼女の思考というか嗜好がだだ漏れだった。
階段を上る途中で何人か兵士に出会ったが、何も言われることなくかわいそうな人を見る目を向けられた。それも仕方ないと言える。
だぼだぼの服を着たほんの少し目つきの悪い男が、黒ドレスを着た麗人を抱っこして、トゥリス中枢部の階段を上がっている。
見て見ぬふりをするのが賢い大人というものだろう。
やっぱりオイラー隊長と一緒に外に出ておくべきだった。
最初は二人とも歩いていたんだが、途中でレェトが疲れたと言って手を伸ばしてきた。
しばらく手を引いて上ったが、次は歩けないとこぼし足を止めた。
仕方がないから、背負おうとすると「抱っこがいいです」とほざきやがった。
拳を固く握り、堪えに堪え、忍びに忍んでレェトの体を持ち上げると、彼女ははたいへんご満悦で、顔がとろけきっていた。そのまま全身とけて消えてしまえばいいのに。
もう大丈夫ですと言われてレェトを下ろしたのは、彼女の部屋の前だ。あとは二フロア上るだけらしい。
なにが「もう大丈夫です」だ。ほぼ全てじゃねぇか。
忘れ物をしましたと言ってレェトが部屋に入ると、俺はぽつりと部屋の前で待たされた。
メイドさんらしき人物が廊下の奥から、こっそりと俺を見てくる。
彼女のもの珍しそうに見つめる視線が俺の疲れきった心に突き刺さる。
……待つというのはつらいものだな。
レェトの部屋のあるフロアから上にあがると、そこには大きな鐘がつるされていた。これが朝と晩に鳴らされる鐘だろう。
部屋の四方はほぼ吹き抜け、容赦のない風が俺たちを揺らす。
ここの階段がおそろしかった。
手すりなし、幅狭し、暗くて視界不明瞭、おまけに強風、そしてなにより、落ちたらそのままさようなら。
ここだけはレェトが先導し、俺の手を引いてくれる。
毎日、上り下りしていますと豪語しているだけあって、たしかに彼女は慣れていた。踊るようにテンポ良く階段を上っていく。
手を引かれるほうの気持ちも考えてください。俺はまだ死にたくないのです。
怖くないのかと自分でもわかるほど震える声で尋ねると、「久しぶりに踏み外しそうで、怖くて怖くて仕方ありません」と返してきた。
そのときの表情と声色が本当に嬉しそうで、楽しそうで、俺の恐怖が一気に天井値を突破した。
なにそれ? なんなのそれ?
それならもうちょっとゆっくり行こうよ。死にたいの?
無事、最上階についた頃には精神的に疲労困憊だった。
レェトはそんな俺に構わず手を引く。
最上階は中心と四方に柱があるだけ。あとは天井と床、そして一面の空だ。
フロアを歩くと、優しい光が俺たちを照らしてくれた。
「どうです」
レェトが自慢するように俺の前に立つ。
ぼんやりとした光をたずさえ浮かぶまん丸の月。
一面に広がる西国の広大か膨大な地塊。
その奥には月の光をおぼろげ反射する大陸を分断するケントルム河。
手前には円形に縁取られたトゥリスの街。
これは、たしかに――素晴らしい。レェトに痛めつけられた心が癒やされていく。
「空も、大地も、街も昨日となんら変わっていないはずなのに、どうしてでしょう――どうして、こんなにもこの景色が新鮮に感じられるのでしょうか」
まずい、これは俺が一緒にいるからだとか言わせる誘導だ。
なんとか回避しなければ、俺も手遅れになる。
「違うだろ。昨日と変わってるのがある」
そう言って俺は空に浮かぶまん丸の月に手を伸ばす。
「今日は欠けてない。満ちてる。満月だ」
「そうですね。月が満たされたように、私も満たされてしまいました」
そ、そう繋げてきたかぁー。
何を言っても自分に都合の良い方に解釈していくぞ、こいつ。
俺にこいつをどうにかすることはもう無理なんじゃないだろうか。
「そして、あの月と同じように私も明日から欠けていくんでしょうか――」
ここまで絶好調だったレェトの言葉にかげりが差し始めた。
「ルイーゼ、あなたはもう行かれるのでしょう。私を置いて、どこか遠くへ。それがあなたの言われた『大切な話』ではないのですか?」
レェトは泣きそうに微笑み、満月のように円らな瞳で俺を見つめる。
この姫様は頭がおかしい、妄想も手が付けられない、行動も突飛だ。
ここまでやることなすこと全てがめんどくさいと感じた人間は初めてだ。
世間知らずで、わがまま。手がかかって仕方ない。
しかしだ。
そんなレェトは断じて、愚鈍ではない。
彼女は気づいていた。
俺の大切な話――トゥリスからの出立を。
「もっとお姫様ごっこを続けたかった。明日、あなたの騎士姿が見たかった。あなたにずっと側にいて欲しかった。あなたと一緒にまた――街を見て歩きたかった」
彼女は目に涙を溜めていく。
俺がハンカチを出そうとするが、見つからない。
そうだった。採寸を取られたときに没収されてしまっていた。
レェトがそっと俺に手を差し出す。その手にはきれいに折られた純白のハンカチが載せられている。
……いろいろと言いたいことはあったが、それらを全て胸に秘め、なにも言うことなくハンカチを手に取りレェトの涙を拭う。
「レェト、刃を出してくれるかな」
彼女はすこし逡巡したあと手を前に捧げる。
すぐにそこには黒を基調にしたティアラが顕現する。
俺はティアラを手に持ち、レェトの頭にずれなく飾り付ける。
目を縛っていた気配も落ち着いた。
「このティアラは月夜をモチーフにしてるんだろうね。しかも満月だ」
レェトが小さく頷く。
ティアラがなにかわかっていなくても、モチーフくらいはわかっていたらしい。
「たしかにレェトが言ったように月は満ちれば徐々に欠けていく。でも、このティアラはそれを認めていない。この白いダイヤのようにいつまでも欠けることなく、夜を照らし続けて欲しいという願いが込められてる」
「……私に、できるでしょうか」
レェトは自信なさげに呟く。
出会ったばかりならできないねと断言できた。しかし、今の彼女なら、
「できるさ――レェトはそう思わないかもしれない。でも、刃は人を間違えない。俺も間違いはなかったと感じてる。今のレェトは刃を制御できてる。とりあえず行動してみろよ。クストスやカリガは俺に厳しいけど、レェトには優しい、甘すぎるといってもいい。どこか壁を感じているなら、もっとわがままを言うように相談してみろ。今日、俺にしたみたいにな。そうすれば、きっと彼らも真剣にレェトを支えてくれるようになるよ」
レェトはしぶりながらも頷いてくれる。
「ではまず、練習をさせてください。ルイーゼ。なにか行動を起こしたいと思うのですが、私にもできそうなことはないでしょうか?」
それ相談じゃないよ。もろに聞いてるよ。
まあ、最初の一歩は重要だからな。
そうして俺は東の景色に目を移す。
トゥリスから伸びる道の先に、わずかに盛り上がる丘。
それを見てふと思いついた。
「そうだな――」
「――それならできる、かもしれません」
一通り話すとレェトはちょっと自信なさげながらも首肯する。
「もちろん当人が認めてくれればだけどね」
そうですねとレェトは口にするもののやはり自信がないようで俯く。
それもそうだろう。
十年近くも塔でなにもせず引きこもっていたんだ。
いきなり何かをしろといってもきついだろう。
能力者と言うだけで風当たりが厳しいんだ。
これを行えばさらに風当たりがきつくなる可能性もある。
ただでさえ自信過剰な人間じゃない。
……風に、自信過剰か。
「俺の育った国のある能力者の話をしよう」
あまり話したくはないが、まあいいか。聞かれるわけでもないし。
「やっぱりルイーゼは西国の人ではないのですね」
レェトが食いついてきた。
どうやら西国の人間とは思われていなかったようだ。
「そうだね。あの小さな丘を越え、河も越え、さらに空をも越えたところにある遙けき国だよ」
「私も見てみたいです」
「……見たことはあると思うがね」
「えっ?」
ダモクレスは大陸を時計回りに巡回しているらしい。
地上に降りてから詳しく知ったが、だいたいのルートが決まっているらしい。この辺りも通ると聞いた。
「いや、まあそれはいいんだ。年上の知り合い……顔見知り、いや、ただの他人だな。とにかく、風を操る刃に目覚めたやつがいるんだ。俺のいた国は環境が特殊だったからな。その風を操る刃に目覚めたものは国の重要ポジションにつけられる。そいつもまだ五才くらいのときに刃に目覚めてしまってな、そのポジションについたんだ」
ちなみに重要ポジションとは刃吏のことだ。しかも、いきなり第十針として扱われる。通常は第一針からが原則であることを考えれば超好待遇だ……例外的措置とも言えるが。
「重要ポジションと言えば、聞こえはいいけど、ひたすら城のてっぺんに縛り付けられるんだよ。年に二、三日しか外に出られない。それ以外はずっと刃を行使して国の環境を制御しないといけない」
レェトも自身の境遇と似ていることに気づいたようだ。
「そいつがとんでもないやつでな。口は悪いし、性格もドぎつい、平気で人を顎で使うようなやつだ。ちょっと年上だからって人をパシリにする。そして、とにかく口が悪い。重要なポジションについたことをいいことに、自分よりも格下の人間をとにかく見下す。しかし、本当に口が最悪なんだ」
まぁ、パシリにされてたのは俺なんだが。
ちなみに赤毛ってのはこいつのことだ。黙っていれば本当に美人。
俺が知っている人間の中で見た目が美人なのは誰と尋ねられれば、迷わずこいつを推せる。ただ口がな……惨い。
「す、すごいお方なんですね。それで、ルイーゼもそのお方が嫌いだったのですか」
「いや。口は絶望的だったが、嫌いじゃなかった。むしろ好意を抱いてたよ。苦手だったけどな……」
レェトが不思議そうな顔をする。
まあ、こんだけ悪く言っといて、嫌いじゃないって言えばそうなるか。
「口がひどすぎるやつだったが、自分の役割に絶対の自信を持ってた。あいつが他人を悪く言ったことは数え切れないが、自らの置かれた立場に文句を言ったのは聞いたことがない。たぶんないんじゃないかな」
五才のときから自由を奪われ、城の一室で過ごす生活だ。それが一生続く。
彼女はそれを幼いながらに理解していた。それでも一切の文句を言うことなく自信と誇りをもってその役割を果たした。当然、今も果たしているだろう。
「口は壮絶なんだが、本当に強くてかっこよかった。そんなやつを嫌いになれるはずがないよ。苦手ではあるけどね」
ちょっと話しすぎたな。
絶対に本人には聞かれたくない話だ。
あれ……なにがいいたかったんだっけ。
「そう、そうなんだ。レェトはもっと自分に自信を持つといい。いま言ったやつほどまではいかないまでも、レェトはレェト自身が思ってるよりも強い人間だと俺は思ってる。レェトのかっこいい姿が俺は見てみたい。ティアラを飾り、毅然とした王女レェトがクストスやカリガに命令するんだ……できれば口はそのままがいいな」
レェトは考えこみ、しっかりとした目で俺を見つめる。
どうやら大丈夫そうだ。
「もし、私がルイーゼの言うようなかっこいい私になれば、貴方は私の騎士となってくれますか?」
今、レェトの口から発せられた「騎士」という言葉は、おそらく今までに使っていた「騎士」とは意味合いが違う。
今までのものは近くにいて、おもりをしてくれる人間を指していた。
しかし、いま言った騎士は、
「そうだな。そんなかっこいい人間のすぐ隣に立って、理想を目指して共に歩み、誇りを守っていけるなら、騎士もいいな」
「そうですか。それでは、貴方がトゥリスに再び戻ってきたときは、私の騎士になってください。そのときの私は、きっと今の私ではありません。しかし、貴方が騎士としてありたい私になっていると思います」
彼女の目がまるで淡い月光のように俺を惹きつける。
なんとなくわかっていたが、おそらく彼女の性質は「惹きつける」ことだ。
彼女の刃も視線に始まり、心まで惹きつけるものとなるのだろう。
今みたく、めんどくさいことを言うのはたぶん変わらないだろうが、それも悪くない。
「わかった。そのときは貴方の騎士となろう」
「約束ですよ」
「ああ。それと今まで黙ってて悪かったけど、俺の名前はルイーゼじゃないんだ。本当の名前はまだ教えられないかな。でも、親しい人はルーって呼ぶからそっちのほうがいいな。それと俺は貴方の名前が正確に発音できないから――」
「はい。私はレェトでけっこうですよ、ルー。気に入っています」
それはよかったと言ったところで、下から外野が集まってきた。
「姫様、おられますか! 上がりますが、よろしいですね!」
「いけません! もうしばらくそこで待ちなさい!」
レェトがあっさりとクストスをとどまらせる。
「ルー、これをラーミナのリーダーに渡してください」
レェトが手紙をドレスの中から差し出す。
……今、ドレスのどこから出したのそれ?
「渡せばわかると思います。それが認められるなら私もラーミナの一員です」
「わかった。渡しておくよ」
外野がますますうるさくなってくる。
「どうしましょう。下まで送りましょうか?」
「いや、実は下で仲間を待機させてるからここでお別れだ」
オイラー隊長に伝えた一つは、オッカムに塔のすぐ側で月がある方向に待機して俺を優しく受け止めてくれということだ。めんどうなレェトから逃げ出すための最終手段だったが、使ってしまおう。
「それではさようなら、弱くて頼りないお姫様。貴方の道が俺の道と重なる日まで」
俺は姫君に背を向け月浮かぶ空に対峙する。
「ええ、お別れです。偽りの騎士ルイーゼ。貴方には感謝してもしきれません。本当に――ええ、今日という一日は本当に素晴らしいものでした。だから、せめて弱く頼りない今の私の全力をもって、貴方を見送りましょう」
背中に気配を感じる。
多少は強くなったものの、まだまだ弱々しい。
この力が、いつの日か振りほどけなくなるほどの力になることを期待し、俺は満月に向かって駆けだした。
当然、空を飛べるはずもなく俺の体は地面に向かって加速しながら落ちていく。
半分くらい落ちたかなと思ったところで、体に鋭い気配を感じ、すぐに上向きの力がかかる。気配の方向には銀色の髪をした人間が見える。
ある程度緩やかに落ちるようになったところで気配が消えた。
あ……あれ?
オッカムの方を見るとどうやら俺ではなく、さらに上を凝視している。
しまった! そうか!
レェトが欄干の側に立ってるんだ。その力がオッカムの視線を惹きつけている。
オッカムの力は彼女が見えているものだけにしか発動できない。
さすがだ、レェト。最後までめんどうなことをやってくれる。
そんなこと言ってる場合じゃない。やばい、俺がやばい。
加速は再び始まり、地面に叩きつけられようとしている。
オッカムはまだ上を見ているし、そうだ。トリカは! トリカはいないのか!
しかし、鏡を見て閉じ込められても、この速さを維持したまま鏡の世界に入るのだろうか。どちらにせよトリカは側にいない。
この高さ、受け身を取ったところで助かるとは思えない。
かっこよく別れを告げたのに、さっそく死んだら笑い話にすらならんぞ。
地面に敷かれた石床の網目が見えるくらいになったときだ。
気配を感じた。
なんだこれは……。
今までの気配とは比べものにならない。
地上に降りてから一番殺意を感じたのはオッカムの力で、一番気持ち悪かったのはジャネの力だ。
それでも気配の大きさはどちらも、これとは比べものにならない。
草原の中にぼろ布一枚着させられて立たされたところに、全方位から暴風を浴びたような感覚。さらにその後で、そのまま収束した風に体が上空へと飛ばされ、流され、地面に叩きつけられるくらいに大きすぎる気配。
そんな圧倒的な気配とは裏腹に、俺の周囲に優しく風が纏わり付く。くすぐったい。
そして、ゆっくりと丁寧に地面に下ろされた。
周囲の兵士たちは驚き、俺を見てくるが、俺は気配を感じたほうを見る。
塔の上だ。
レェトの気配もあるんだろうが、そんな弱々しい気配は吹き飛ばされてしまっている。
塔の上、最上階よりもさらに上。まさに屋上だ。小さくてよく見えないが、赤いなにかが見えた気がした。というかたぶん、わざと見せてますよね。
ま、まま、まさか……まさかまさか、来られてるんですか。えっ、ほんとに?
でも、あいつの力だっていうなら納得はできる。
風を操る彼女なら俺ひとり助けるなんて朝飯前だろう。
ねぇ、なんで? なんで来てるのお前。ダモクレスの環境調整してなくていいの? っていうかさっきの話、もしかして聞いてたの。聞いてたんだよね。助けたってことは、つまりそういうことなんだよね。
なんで上には上がいるみたいに、当然のごとく一番上にいてはるん?
この街はいったい全体なんなんです?
ほんとに頭がおかしい奴しかいないの?
「ルイーゼ!」
俺を呼ぶ声で我に返る。
オッカムが俺を向いて逃げるぞと叫ぶ。
俺もなんとか意識を取り戻してオッカムについていく。
とりあえずだ――、
「ありがとう、セラねぇ」
どういたしましてと風が俺の首を吹き抜けた……そんな気がした。




