第一日目の幕間「投身王女と地図の妖精」
昼食後、レィトは例日どおり塔の最上階に登った。
空遠くの景色も、下に映る街並みも昨日と何も変わってなどいない。だが、それでいい。このあとの景色も昨日と変わらないものであってくれさえすれば。
レィトは心躍らせ、私室に戻った。
扉の側から右から左へと注意深く見つめるものの人の姿はない。
片隅に置かれている来客用の椅子も、四本の足を床につけ静かにたたずんでいる。
本棚を見るが、そこにも記憶通り全ての本がきっちり整列している。
テーブルの上にもペンや紙は置かれていない。
部屋に本の妖精はいなかった。
レィトは落胆した。
もしかしたらいないかもしれない、もう会えないかもしれない。その可能性があることは認めていた。
しかし、それでもいてほしかった。
話がしたいわけでも、お願いがしたいわけでもない。
ただただ、もう一度だけ、妖精に会いたかった。
そのエメラルドのような翠の髪、超然として本を読む姿、眼鏡の奥にある命の息吹を感じない無機質な目を見たかった。
しょんぼりという言葉がぴったりなように肩を下げ、足もふらつかせながらレィトは自分の椅子に歩み寄り、力なく椅子に腰を下ろした。
どうして妖精は姿を見せなくなったのだろうか。
いや、むしろ、どうして昨日だけ姿を見せたのだろう。
落ち着かず椅子から立ち上がり、妖精が読んでいたレオンハルトの本を本棚から引き出す。そこに挟まれていた妖精の痕跡をじっと眺める。
やはり本か。本がないと駄目なのだろうか。
クストスかカリガに頼み本を持って来させれば、妖精も戻ってくるだろうか?
けっきょく椅子に座り直し、テーブルに肘を立てて手に顎を乗せる。
クストスは行儀が悪いと叱るが、他の者に見せることはないし、塔から出られない以上、行儀がどうのこうのというのは意味のない話だ。
息をゆっくりと口から吐いていく。
本を読む気も起きず、絵を描く気分にもなれない。
クストスもカリガも先週の反乱騒動の事後処理で忙しいようだ。
会いに来ても経過報告だけでさっさと下に帰ってしまう。
そこが彼らの帰る場所だからだろう。
いったい私はなんでここにいるのだろうか。
刃に目覚めなければ、王の子として生まれなければ、私は今どこで何をしていたのだろう。
この先もここで変わらない生活をしていくのか。不変な生活をいったいいつまで、何度繰り返せばいいんだろうか。
幾度も重ねてきた問いではあるが、やはり今日も答えは出ない。
いや、答えはわかっている。解決法も考えている、それを実行することができないが……。
試しに何度か人に尋ねたが、やはり誰も答えてはくれなかった。
きっとみんなも私と同じ、答えはわかっているはずだ。
それでも誰も何も言わない。答えてはくれない。
…………あの妖精ならあるいは――。
悶々としているとかさりという小さな音が聞こえた。
テーブルに突っ伏していたレィトは、その音に反応し慌てて頭を起こす。
すぐに周囲を見渡すが、何も変わっていない。
勢いに任せて椅子を離れ、クローゼットからベッドの下や姿見の中まで確認したが、妖精の姿はない。
窓を開けてみるが、入ってくるのは風と赤みを帯びた光、そしていつもと変わらぬ光景のみだ。
すでに日は地平に没しかけていた。ずいぶん長く考え込んでしまっていたらしい。
少し新鮮な空気が吸いたくなった。
最上階に行こう。
空気なら窓からでも吸える。わざわざ最上階に上がるのは、この部屋に戻ってくることで妖精に会えるかもしれないと一縷の望みを抱いたからだ。
部屋を出て、円形に曲がりくねる階段を上がる。
途中で吹き抜けになった鐘の階を通過する。
塔に来たばかりのころは横にも下にも吹き抜けているこの階が怖くて足がすくみ、階段の一段一段を踏み外さないよう、ゆっくりと足を運んでいた。
今では慣れたもので恐怖はない。たとえ目をつむっても足を踏み外すことはないだろう。
階段を上り、最上階に顔を出す。
最上階は何もない。
フロアの中心と四方にある最低限の柱が天井を支え、落下防止の欄干も腰辺りと低いため、一周歩けば塔の周りが見渡せる。
数年前からこのフロアはレィト専用となっており、彼女の許可がないと入れないようになっている。ただし、これは公式に決まったわけではない。
レィトは別に誰かが入ってきても構わなかったし、むしろ入ってきて一緒に話でもして欲しかったのだが、いつの間にかそんなふうになってしまっていたようだ。
今では、このフロアで会う人間と言えば、クストスかカリガだけとなってしまった。
彼らですらレィトの許可を得てから上がってくる。
そのため、このフロアに上がってきて、まず見えるのは床と吹き抜けから覗く空、そのあとで地平線から草原、街並みと徐々に移り変わっていくというものだ。
これがレィトの重ね上げてきた経験であった。
――しかしだ。
まさに今日このとき、積み上げられた数年来の経験が崩されてしまった。
レィトの目には上で述べた光景以外のものが映った。
赤みを帯びた光の中に一本の黒い影が床に長く伸びている。
その影をたどると人が立っていた。否、断じて否だ、それは人などではない。
それは――風にはためく翠の髪と白い外套――妖精だ。
妖精は欄干のすぐ側に立ち、レィトに背を向けていた。
レィトはまず深呼吸をした。昂ぶる気持ちを抑えるためだ。
手を胸に当て、風よりもうるさく騒ぐ心臓を必死に制御しようと試みた。
その深呼吸中でもまばたきはしない。風が強く目にきついが、我慢した。まばたきをすると、例え一瞬とはいえ妖精がそのまま消えてしまうかもしれない。
はやる足を押しとどめ、妖精のほうへ努めてゆっくりと近づく。
深く深く息を吸い、レィトは声を出した。
「ごきげんよう」
きっちり音は出ていたはずだ。されど妖精はなんの返答もしない。
俯いてなにやら手を動かしている。
しまった、どうやら妖精は作業中のようだ。声をかけるべきではなかった。
レィトは反省しつつも妖精がなにをしているのかと、横から距離を取って観察する。
妖精は首から画板をぶら下げ、それに紙を固定し、ひたすらにペンを動かしている。もう片方の手には長細いもの――定規だろうか――を持っていた。
風景画を描いているのだとレィトは思った。
妖精の目に映る景色がどんなものなのか気になり、レィトはさらに接近してその絵を覗き込んだ。もちろん妖精の邪魔にならないように細心の注意を払っている。
妖精の描く絵を見て、しばらくレィトは固まった。
風景画だと先入観をもって見たため、それがなにか理解するのに時間がかかった。大きな円が描かれていたため夕日かと思ったが、それでは答えにたどり着けなかった。
大きな円の中に細々としたものがびっしりと配置されている。
妖精が描いているのはトゥリスの地図だ。
大円の中心にある丸が今いる塔だろう。中心から伸びる平行線が大通り。
大円の上・右・下の部分は描き込まれ、左も徐々に埋まりつつあった。
妖精の描く地図とレィトの目で見る街並みはほぼ同じであった。道と建物の配置、それにその大きさも見た限り正確に縮尺されている。
ペンが定規に沿って走る様子をしばらく見つめていたが、ふと疑問が生じた。
「どうして地図を描いているのですか」
本を読むなら、その内容に興味があったからで理解できるが、地図を描く理由がレィトにはわからなかった。単に描きたかっただけなのかもしれないし、そもそも妖精の行為に理由を求めるのが間違っているのかもしれない。
もしも何か理由があるのなら知りたかった。返答は期待していなかったし、案の定というべきか、妖精からの回答はなかった。
作業を邪魔するようで悪かったが、誰かに聴いてもらいたかったためレィトは口を開いた。
「なぜ私はここにいるのでしょうか」
妖精は答えない。地図をひたすらに描き込んでいる。
「この塔での変わらない日々はいつまで続くんでしょうか」
妖精は定規を細かく動かし線を引いていく。
「いつか塔から出ることができるのでしょうか――」
妖精は手に持った地図と実際の町並みを見比べる。
「その地図に描いた町並みを歩ける日がくるんでしょうか?」
妖精は地図から目を離し、なにやら一点を見つめている。
ほんのわずか、本当に瞬きの間だけ妖精の表情が動いたように見えた。
レィトも妖精の横に立ち、下に広がる町並みに目を移す。
妖精の視線を追うに、見ているのは西の大通りだろうか。この高さだとレィトには、人はほとんど点のようにしか見えないのだが、妖精には別の景色が見えるのだろう。
「――来ない」
隣から小さく音が聞こえ、レィトがさっと首を動かすと妖精はペンを置いていた。ただし、レィトを見てはいない。
「ただ待っているだけのあなたにそんな日は来ない」
妖精の視線は西の大通りに向けられたままだ。
しばらく思考が止まっていたレィトだったが、やっと頭が動き始め、口を出す。
「で、でも――」
私なんかにできることなんて……。
しょせんはお飾りの王女だ。
自分に求められていることは何もしないことだと気付いていた。
何もしないことこそが私にできる唯一のことだった。
それを今さら変えることなどできようもない。
妖精はそんな私を否定した。
何もしないのなら、何も求めるべきでないと。
何も感じず、考えず、ただ流されるままに生きていけと。
そんな人生に――、
「そんな私に、生きる意味はあるんでしょうか?」
妖精はここに来て、ようやくレィトに目を向けた。
眼鏡の奥からなにも感じさせない無機質な瞳がレィトを捕らえる。
あれほど焦がれた瞳は今や恐怖しか感じさせなかった。
妖精の唇がそろりと開く。
「ない」
一言だけだった。
たったそれだけの短い言葉がレィトの頭の中で何度も反響し、覆い尽くす。
そのまま幾分か時間が経ったはずだ。しかし、いつまでたっても残響が消えてくれない。
妖精の目もレィトを見て離さない。これ以上、この瞳を見続けてはいけない気はするのだが、どうしても視線を逸らすことできない。
妖精の無機質な目は、レィトに問いかけているようであった。
「姫様おられますか?」
そんな中、突然、階下から低い声が響いた。
レィトは、はっとして下へと続く階段に目を移す。
妖精の目から視線を逸らすことができた。
「報告したいことがございます。上がってもよろしいでしょうか?」
どうしようかと妖精のいたほうに目を向けると、そこに妖精の姿はなかった。
慌てて見渡してみるものの影も形もない。
「姫様?」
クストスが再び声をかけてきたため、レィトはなんとか許可を出した。
レィトは動揺を隠しているつもりだったが、クストスは彼女の顔を見るや否や、「顔色が悪いようですので、部屋に戻りましょう」と勧めてきた。
このクストスという男は見た目は粗暴さがあるのだが、なかなか鋭く、気も使える人間だ。
八年前のトゥリス防衛戦で右腕を失ってしまったが、国から金章を与えられ、三十にしてトゥリスに置かれている軍の総指揮権も委ねられている。
正確には、カリガを始めとする能力者についてはロゴス能力者管理長官の指揮下なのだが、ロゴスはあちらこちらに走り回って忙しいため、クストスの預かりということになっている。
レィトは部屋に戻らず、ここで報告を受けることにした。
報告内容は、昨日捕らえたという反乱者たちの処遇についてだった。
声は聞こえていたのだが、どうにも身を入れて聞くことができない。
クストスもそれに気付いたようで、途中で話を切って再度部屋に戻ることを勧めてきた。
「クストス」
そう呼びかけると、彼は「はっ、なんでしょうか」とはっきりした声で返してきた。
「いま私にできることはなんでしょうか?」
クストスは「部屋で休養をとることです」と即座に返答する。
「そのあとで報告を聞く……ですか」
「そうです。いつもどおりの姫様にお戻りください」
「いつもどおり……」
いつもどおりに報告を聞いて頷くだけ。
それがあと何度続くのか。こんな会話を何度繰り返すのか。何度繰り返せば終わってくれる?
いや、終わらせることができるのが、行動だとするなら……。
「クストス、私は刃を出します。人目があるといけません。下に降りるか、目を伏せるかしてください」
「姫様?」
「私は解決するべく行動に移します。あなたもどちらかを速く選んでください。いや、そうですね……見ていてくれてもかまいませんよ」
レィトの口元に微笑が浮かぶ。
「姫様、いったい?」
レィトはクストスの行動を待たず、両手を前に出し、刃を顕現させる。
彼女の白い手に黒を基調としたティアラが現れた。
クストスはティアラが現れるぎりぎりのところで俯き、目をそらした。
「なにをされるつもりですか、姫様?」
「クストス、待っているだけの私に夢が来ることなどありえません。妖精がそう教えてくれました」
「妖精?」
「そうです。彼女はそんな私に生きる意味はないとも言ってくれました」
そして、妖精は無機質な瞳で彼女に問いかけてきた――。
「もっと早くに気付かなければいけなかったのです。そもそも、私は――」
どうしてあなたは生きているふりなんかしているのか、と。
「もはや生きてすらいなかった」
レィトはクストスに背を向けて、欄干により上がる。
風でふらつくが、このまま倒れる訳にはいかない。自らの足で一歩踏み出さなければいけない。それが行動だ。
当然、踏み出す先に床はない。遙か下には夢見た町並みが見えている。
怖さなどない。ああ、そうか……最上階に昇る恐怖をなくしていたころから、もうすでに私は生きていなかったのか。
「あなたの持ってきてくれた本のおかげです。ありがとうクストス、そしてさようなら。私はようやく私として行動をすることができます」
最期くらい、私は私として、一人の人間としてありたい。
私は私自身の行動の結果として塔を出る。刃も消える。変わらない日々ともお別れだ。生きていたふりも今日で最後だ。新しい世界に飛び出す。
そこはきっと妖精の描いた地図の中。彼女と肩を並べて、下に広がる街並みを歩いていくんだ。
レィトはそう夢見て未来への一歩を踏み出した。
クストスは何かに背を押された。あるいは気のせいだったのかもしれない。
気のせいでもなんでもよかった。そのおかげで前を向くことができたのだ。
彼の目の前では、黒の衣装を着たレィトが低い石の欄干に立ち、何もない空へと一歩踏み出していた。
もちろん、その先に見えない床があるはずもなく、その体はすでに傾いている。
「姫様っ!」
クストスは咄嗟に駆けよろうとしてレィトに腕を伸ばす。
彼は、自分とレィトの距離が経験的に届かないものだと判断していた。だが、予想とは裏腹に腕はなんとか姫様の胴をつかんだ。
不思議な感覚だった。届かないと思っていた距離が、まるで縮んでしまったように彼は思えた。奇跡だったのかもしれないが、今はどうでもいい。レィトを助けることが先だ。
欄干に足をかけ、なんとか片腕だけでレィトを引き戻すことができた。
いつも、崩れるんじゃないかと不安に思っていた欄干だったが、見た目以上に強固に作られていたらしい。先人に厚く感謝する。
レィトの衣装もすこし千切れてしまったが、そんなことは些細なことだ。命が助かったことがなによりも大きい。
ただ、一つ問題があった。
レィトに腕をかけた後、なにか黒いものが落ちたように見えた。
あれはもしや……。
「姫様、ご無事ですか?」
クストスが声をかけるもののレィトは虚ろであった。
なにかぶつぶつと呟いているが、それは生きている証ともとれる。
落ちた黒いものはレィトの刃かと思ったが、この高さで落下すれば刃なら壊れ、そのままレィトも死んでいる。彼女が生きているということは、あれは刃ではなかったということになるだろう。
クストスはレィトの刃を知らない。万が一のため、レィトを部屋に送った後でロドス能力者管理長官と話をすることにした。
なぜ死ねない? どうして生きている?
私はクストスに背負われ塔の最上階から降りようとしている。彼は片腕にも関わらず、上手に私を支えている。
飛び降りることはクストスに妨げられたが、刃であるティアラは風に煽られつつもしっかりと地上に落ちていった。この目でしかと見届けたのだ。
グラスはテーブルから落としただけで割れて砕ける。この高さならあのティアラだろうが、ひとたまりもないはずだ。
能力者は刃が壊れれば死ぬと聞いていたが、あれは嘘だったのだろうか?
たしかに心の中から大切な何かが欠けてしまったようには感じる。だが、それだけだ。感じると言うことはまだ私は生きているということになる。
「行動したのに……なんで?」
どうして私はここにいる?
生きることも死ぬこともできない。
まだ生きているふりを続けろというのですか?
首だけで振り返ると、妖精がレィトを見つめていた。
妖精に寄りすがろうとクストスの背中で暴れるが、彼は私を離してくれない。私をなだめようと口うるさく言葉をかけながら階段を下りていく。妖精との距離がさらに広がる。
ねぇ妖精さん、どうしてですか? 教えてください。私はいったい――、
「どうしたらいいんですか?」
レィトは顔を悲痛に歪め、妖精に問いかける。
妖精は何も教えてくれない。何も感じさせない瞳でレィトを見下ろしている。
必死に手を伸ばすものの妖精に届くことはない。
空をつかもうとするレィトの手がどこにもたどり着くことなく無様に踊るだけだった。




