到着前日の幕間「第三王女と本の妖精」
この日、レィトは本の妖精と出会った。
レィトが昼食をとったあと、いつものように塔の最上階から街を眺め、空を見上げ、地の果てを見つめ、その景色の変わらないことを確認して私室に戻るとそれはいた。
部屋の片隅に置いてある来客用の椅子に腰をかけ、背筋をぴんと伸ばし、手に持つ本へと眼鏡越しに視線をまっすぐに落としていた。
扉を開けて入ってきた部屋の主であるレィトに目もくれることなく、ただひたすら黙々と本を読んでいる。
見た目は女性だ。かけられた眼鏡のせいもあるのかレィトより幾分か年をとっているように映る。
肩口で切りそろえられた翠色の髪は上質のエメラルドを思い起こさせる。
下女かと思い、近づいて顔をうかがったが見覚えはない。外見に特徴が多いため、見たことがあれば覚えているはずだ。
それに、下女ならうやうやしくレィトに頭を下げるだろう。不思議な彼女は明らかにレィトが視界に入っていてもなにも反応を示さなかった。
彼女の着ている衣服も下女のものとは違っている。純白の外套に丸い章が付き、やはりこちらも見覚えがなかった。
「あのぅ……どなたでしょうか?」
おじおじと声をかけたものの返答はない。
聞こえなかったのだろうかと再び話しかけたところで、「うるさい」とでもいわんばかりに眼鏡の彼女はページをめくった。
レィトが呼鈴を鳴らし下女を部屋に来させると、ほんの少し目を離した合間にその不思議な彼女は椅子の上から姿を消していた。
部屋中を見渡しても彼女の姿が見えずレィトが困惑していると、下女もなにごとかとおろおろとしていたので水を持ってくるように言いつけた。
すぐに下女が瓶とグラスを持ってきてテーブルの上に置き、深く頭を下げながら部屋から去る。
幻覚だったのだろうか……そう思い息を吐くと、紙のこすれる小さな音が聞こえた。
慌ててそちらに目を向けるといつの間にか眼鏡の彼女は姿を現し、先ほどと同じように、椅子に腰掛け本を読んでいた。
レィトは心を落ち着かせるため、視線を彼女から外した。グラスに水を注ぎ一口に飲みほす。
どうやら彼女はレィトにしか姿を見せないようだ。
昔、読んだ本に妖精というものが出てきた。彼らは恥ずかしがり屋で特定の人間にしか姿を見せない。
それなら、この女性の姿をしたものはきっと本の妖精なのだろう。
レィトは、物言わぬ本の妖精への接触を試みた。
妖精へとおそるおそる近づき、その白い肌に手を伸ばす。
いよいよレィトの細い指は妖精の頬を押した。妖精の頬もレィトの指を押し返してきた。
どうやら妖精は幻ではなく、たしかに存在するようだ。レィトは心躍らせた。
しかし、妖精は頬を押すレィトの指など気にも止めず本を読み続けていた。妖精の二つの目が文字を追って左右に揺れる。
次に手を妖精のかけている眼鏡の前にかざしてみた。左右に揺れていた瞳が止まり、
「読めない」
妖精の口が動き、レィトの耳に言葉が届いた。
その音は感情が一切含まれていない、抑揚すらない。
グラスがテーブルをたたく音や本をめくるさいに生じる紙片がかすれる音、椅子が乱暴に床をこすりつける音と同じように自然ではあるものの、命の存在しない音だった。
このあまりにも無機質な音を聞き、いよいよレィトは彼女が妖精であることを確信した。
これ以上、妖精の読書を邪魔すると何をされるかわからない。
だが,どうせ変わらぬ日常だ。いっそのこと何かされてみたい気持ちに駆られたが、なんとか押しとどめ、手を妖精の目もとからどかした。
そして、レィトも椅子に腰掛けて妖精を観察することにした。
妖精が読んでいる本は部屋の本棚に置いてあったものだ。本棚に一冊分の隙間ができている。
クストスに持ってこさせた中の一冊で、著者はたしか……レオンハルトだっただろうか。
一週間ほど前に出たばかりのようだが、あまりにも内容が難解すぎてレィトにはとうてい理解ができそうになく、一ページも読むことなくそのまま本棚に入れてしまっていた。
クストスは本を持ってきてくれるものの、算術書や理論書といった内容が硬すぎるものばかりだ。ごくまれに混ざる大陸冒険の記録書や男女の恋仲を描いたものをレィトは好んで読んでいた。
そのクストスが持ってきた難解な算術書も、どうやら妖精には理解できているようで、たまに一人うなずいていた。
そんな様子をレィトはテーブルに肘をつけながら観察していると、妖精が首を傾げ始めた。定期的にめくられていたページも今は止まっている。そして、妖精はいきなり立ち上がり片手に本を、もう片方の手に椅子を持ってレィトの方に歩み寄ってきた。
レィトは面食らってのけぞり、椅子の背もたれにぴたりと背中を張り付かせる。
妖精はそんなレィトの対面に椅子を置き、テーブルに本を置いて座った。外套に手を入れてごそごそとまさぐる。すぐに出された手にはペンとインク瓶、そして数枚の紙が握られていた。
妖精はテーブルに本を開き、ペンにインクを吸わせた。紙にペンを走らせる。
ペンの軌跡が青黒い線として紙に浮かび上がる。レィトはそれをじっと見つめる。
しばらくすると紙にはまん丸の円と×印が描かれた。×印の交点は円の中心と一致し、円をきっちりと四等分している。
×印の中心からさらに一本の線が円に向けて付け加えられる。その線と円の交点から、×印へと直角になるように線が下ろされた。
そこまで描くと、図の下に次々と文字が書かれていく。数式というものだ。
レィトにはその意味が詳しくわからないが、なにやら本に書かれているものと同じような文字の羅列がずらずらと書かれていく。紙の下までたどり着くと、妖精は横に置いてあった紙に手を伸ばし、その続きと思われるものを書いていく。
ペンは紙を二枚ほど黒で染めたのち走るのを止めた。最終的に一行の文字列が浮かび上がった。実際に浮かび上がったわけではなく、妖精が最後の一行に下線を引いたためレィトにはそう見えただけだ。
その一行は本の章の末尾に書かれていたものと一致していた。
レィトは紙片を焦がすように見つめるが、やっぱり意味はわからない。
妖精を見ると、彼女は顎を上げ目を閉じていた。
「……これはどういう意味なんでしょうか?」
レィトがたまらず問いかけるが、妖精は例によって例の如くなにも答えない。
やはり妖精と会話することは無理なのだろうか、と諦めかけたときレンズの向こう側にあった妖精の目がきっと開いた。
突然の開眼にレィトは思わず身をすくませる。
ここにきて初めてレィトは妖精と目を合わせた。
声も無機質だったが、妖精の目もまた無機質だった。そこに生命があるとは思えない。
本に描かれた人や石で造られた像のほうがまだ生命力を感じられる。死んでいるわけではない。そもそも最初から生きていない。
眼鏡のレンズを通さなければ、自分の生命力もなくなってしまうんじゃないかとレィトは錯覚した。
「美しい」
妖精はレィトのそんな思いなど知るはずもなく、ただそう告げた。答えになっていなかった。
告げ終えると妖精は目を本に向けた。
そのまま本に手をつけ、ページを忙しくめくっていく。
「レオンハルト」
妖精の手が止まり、またもや呟きが漏れた。
どうやら著者の名前を探していたらしい。
「数年前から本を次々と出しているのに、誰も彼の顔を知らないそうです」
レィトが口に出す。
「曰く、女性。曰く、老人。曰く、テロリスト。曰く――能力者、と様々な噂がある不思議なかたです」
知ったように話すものの、全てクストスやカリガから聞いた話だ。
レィト自身は塔の外に出られないので、彼女の情報源は主としてこの二人となる。
レオンハルトを不思議とは言ったが、今レィト自身の前に座る存在以上に不思議なものであるとは思えなかった。
「そうそう、なんでもトゥリスにきているとか」
それを聞いて妖精は命なき目をレィトに向け、無言で説明を求めた。
「えぇと……その本の原本が一週間前にトゥリスで出回ったばかりで、写本もまだできてないから、まだ本人がここにいるかもってカリガが話していました」
カリガは話を聞き出すのがうまい。うまい、というよりもどんどん踏み込んでいくため相手に話を強制させるという方が正確だろうか。
カリガ本人は特に意識してないと言うが、どう考えても踏み込みすぎている。
「カリガ」
妖精はカリガを知らないらしい。
本の妖精はやはり人に興味がないのだろう。レオンハルトも本当に人でないのかもしれない。
「そう、カリガ。赤毛の小柄な子ですよ」
カリガは数少ないレィトの話し相手だった。
「しかも銀章もちで……えと、その、とても強いってことです。それに――」
カリガは八年前のトゥリス防衛戦で生き残った三人のうちの一人、英雄だ。
本人は英雄であることを強く否定しているが、レィトには謙遜としか思えなかった。
その実績を評価され銀章を与えられ、王女である私とも話ができる立場を持つ。
しかし、実際は立場が逆だとレィトは考えていた。
私と年同じくして都を守った英雄。それは、半ば捨てられた王女――なんのために生きているのかわからないレィト――が話をしてもいい存在ではないだろう。
そんな英雄であるカリガやクストスは、私を壊れ物のごとくことさら丁寧に話をしてくれるが、その口調を聞くたびにレィトは胸が狭く、息苦しい思いを感じていた。
一方、目の前に座るこの妖精は私に対して一切の敬意がない。
むしろレィトが敬意を払っているくらいだ。今も下女にグラスをもう一つ持ってこさせるべきか否かを彼女は迷っていた。
これでいい、これがいい。この不思議な関係がレィトには新鮮で心地よかった。
「カリガは、わたくしと同じ能力者なんです」
妖精はレィトが能力者であることにはまったく驚かない。知っていたのか、興味がないのかはわからない、おそらく後者だろうが、そう告げて顔色一つ変わらないのは初めてだった。
レィトは能力者として、六歳であった十年前から塔に軟禁されている。
そんなレィトとも話をしてくれるのは今ではクストスとカリガ、それに能力者管理長官であるロドスだけだ。
話をするといってもクストスとカリガはどうしても態度に壁を感じる。
長らくトゥリスを離れていたロドスも今日の朝に戻ってきたようで、すぐさま本人自ら挨拶に来た。数日のうちにまた離れるようだが、久々に話をして彼特有の演技くさい話し方を思い出すことができた。
その他のものは身分と刃持ちのせいで会話にすらならない。
そんな思考を巡らせて、レィトがひとり勝手に気を滅入らせてきていると、
「あなたの刃は?」
妖精が口を開いた。
疑問系だ。初めて妖精から抑揚のある声が聞くことができた。しかも単語だけでなく、「あなた『の』刃『は』」とずいぶん会話らしくなった。
レィトは嬉しくなって刃を出そうとするものの、やはりそれはできない。
彼女の刃は人前で出すことが固く禁止されている。
「ごめんなさい。わたくしの刃は人に――」
そこまで口に出して、レィトは目の前にいるのが人ではなく本の妖精だということを思い出した。
それなら――レィトは少しためらいながらも、刃を顕現させた。
レィトの手に黒に煌めくティアラが現れる。
銀のフレームに小さなブラックダイヤモンドがちりばめられ、複雑かつ緻密な模様を描く。
その黒を基調とした中で、ただひとつ白銀に輝くダイヤモンドが中心よりずれた位置に飾られている。円形にカットされたダイヤは、まるで闇夜に浮かび、辺りを優しい光で包みこむ満月のようであった。
妖精はしばらくティアラを見つめたあと、
「神の比」
と呟く。
レィトはよくわからず、
「……それはいったいなんでしょうか?」
と、いくらか遅れて聞き返したものの、妖精はなにも答えない。興味を失ったように視線を本へと戻した。
レィトは驚かざるを得なかった。
彼女の記憶の中で、自身の刃の顕現中に目を逸らされたことなど一度もなかった。
ひとたびティアラを目に入れた相手を惹きつけ、まばたきすらも許さない。それがティアラの――レィトの力だった。
無意識のうちに力が漏れ出てしまうため人前での顕現が禁止されていたのだが、目の前に座る妖精はあっさりと目を逸らした。
やはり妖精ともなると刃の力など受けないのだろうか。
レィトもティアラを消して、妖精が本を読む様子をしげしげと眺めていたが、そのうちにまぶたが重くなり目を閉じてしまった。
レィトが目覚めるとそこに妖精の姿はなかった。
テーブルの上からペンやインク瓶はなくなり、椅子も部屋の片隅に戻されている。本棚の空いていた隙間も本が埋まっている。
全ては夢だったのだろうか、とレィトは不安になった。
妖精が読んでいた本を手に取ると、ページの間から紙片がこぼれ落ちた。
その紙には見覚えのある文字が羅列されている。
妖精が「美しい」と話していた下線の引かれた数式の下に、レィトの記憶にない無機質な文字が書かれていた。
『レオンハルト、あなたは私の可能性たりえるか』
相変わらず意味がわからなかったが、妖精との出会いが夢でなかったことにレィトはひとまず安堵した。




