9,温かい風の箱
冬が本格的にやってきた。
マットレスと蒼い毛布のおかげで、夜はもう寒くない。問題は昼間だった。
小さな窓から入り込む空気は日に日に冷たくなる。石の壁は一日中冷たいままだし床に置いた桶の水には、朝になると薄い氷が張っている。
そして何より指先がかじかむ。
封筒に紙を入れようとして指がうまく動かない。三つ折りの折り目が、ほんの少しずれる。そのたびにミレイユは作業を止め、手をこすり合わせ、息を吹きかけて温めた。
「……これでは、品質優良がいただけませんわ」
それは、ミレイユにとって寒さそのものよりもずっと深刻な問題だった。
電気ケトルで湯を沸かして湯たんぽの代わりにしてみたり毛布を肩からかぶって作業してみたりもした。だが、湯はすぐに冷めるし毛布をかぶると手元が見えにくい。
そんなある日、三度目の「掃除」にやってきたクラリスが部屋に入るなり身を震わせた。
「……寒いわね、ここ」
「そうなの。夜は床があるから平気なのだけれど」
クラリスは、新しい白い床に腰かけて「あら、あらあら」と身を沈め、それから娘の手を取った。
「まあ、氷みたいじゃない」
「内職をしていると、どうしても。でも大丈夫よ」
「大丈夫じゃないわ。……そのカタログというのに暖炉のようなものはないの?」
ミレイユは、少しだけ迷ってからカタログの家具・家電の章を開いた。
そこには、壁の高いところに掛けるらしい白く細長い箱の絵があった。「エアコン」部屋に暖かい風を送り、夏には涼しい風も送るのだという。
必要なポイントは、マットレスのさらに倍以上だった。
「……今のペースだと、ひと月と少しかかりますわ」
「じゃあ、そのあいだは、私のカップ麺はいらないわ」
「お母様……」
「その代わり、暖かくなったら二つずついただくわね」
ころころと笑う母に、ミレイユは思わずつられて笑った。
◆
それからのミレイユは、ものすごかった。
朝は日の出とともに起きる。王妃教育の四時起きほどではないが、マットレスの誘惑を振り切るのは王妃教育よりずっと難しかった。
指がかじかんだら電気ケトルの湯を入れた筒を両手で包む。それから封入作業に戻る。空いたカップ麺の筒はちょうどいい湯たんぽになった。
チョコレートは、三日に一かけらに減らした。
「これは、戦いよ」
封筒を一通仕上げるたびに自分に言い聞かせた。
王妃教育ではいつも「王妃たるもの、民のために」と教えられてきた。それを否定するつもりはない。でも、自分の指先を暖めるためにこんなに必死になれるとは思わなかった。
そして、ひと月と三日後。
「エアコン 1」
ご注文用紙にそう書き込んだミレイユの指は、寒さとは違う理由で小さく震えていた。
◆
翌朝。
目を覚ますと、壁の高いところに白く細長い箱が取り付けられていた。
石の壁に、どうやって留めたのかはわからない。その下の床には石の粉ひとつ落ちていない。いつもの『設置完了』のカードと一緒に、小さな白い板が置かれていた。
板には、ボタンがたくさん並んでいる。説明書きによると、これを箱に向けて押すと離れたところからでも操れるのだという。
「……触れずに、操る?」
もはや魔法の類である。だが、もうこの程度では驚かない。電気ケトルは穴に差し込まなくても動いたし、マットレスは眠っている自分の下に敷かれていたのだから。
説明書きのとおり「暖房」と書かれたボタンを押した。それから「運転」のボタン。
ピッ、と小さな音がした。
白い箱の下の蓋が、ゆっくりと開いていく。そして、かすかな低い音とともに風が吹き始めた。
最初は冷たい風だった。
「……あら?」
間違えたのだろうか。不安になって説明書きを読み直そうとしたそのとき。
ふわりと。
頬に当たる風が暖かくなった。
春の日差しのような、やわらかい温もりだった。それが、部屋の隅々までゆっくりと広がっていく。石の壁の冷たさが、少しずつ、少しずつ、和らいでいく。
ミレイユは、白い箱の真下に立ち尽くしていた。
暖かい風が、髪を、肩を、かじかんだ指先をそっと包んでいく。
「……あたたかい」
たったそれだけを口にしたとたん、なぜか目の奥がじんと熱くなった。
婚約破棄を言い渡されたときも、この塔で初めての夜を過ごしたときも、泣かなかった。王妃教育で人前で涙を見せないようにと叩き込まれていたからだ。
でも、ここには誰もいない。
ミレイユは、少しだけうつむいた。
暖かい風は、そのあいだもずっと小さな石の部屋を包むように吹き続けていた。
◆
その日の封入作業は、これまでで一番はかどった。
指が思いどおりに動く。折り目がぴたりとそろう。麻の服の袖をまくり上げ、もこもこの靴下も脱いでミレイユは日が暮れるまでひたすら封筒を作り続けた。
そして、その影響は思わぬところにも及んでいた。
「……なあ。今日、塔の中暖かくないか?」
詰所で、衛兵の一人が首をかしげた。
いつもなら、螺旋階段を吹き降りてくる風は凍えるように冷たい。それが今日は、上の方からほんのりと暖かい空気が降りてくるのだ。
「……上からだよな」
「……最上階からだよな」
衛兵たちは、無言で顔を見合わせた。
そしてその日から塔の衛兵たちは食事を運んだあと、最上階の一つ手前の踊り場でなぜか少し長めに立ち止まるようになった。
「……報告、した方がいいよな?」
「したら、もうあそこで暖まれなくなるぞ」
「……だよな」
こうして衛兵たちは、いつの間にか共犯になっていた。
◆
エアコンが来てから、十日ほどが過ぎた頃。
ミレイユは、朝起きると喉がいがらっぽいことに気がついた。
「……こほっ」
唇もかさかさしている。指先もなんだか乾いている。封筒を一枚取ろうとすると指が紙の上をつるりと滑ってうまくつまめない。
暖かいのはありがたい。けれど、どうやらこの暖かい風は部屋の湿り気まで一緒に連れて行ってしまうらしい。そういえば絞って干しておいた体拭きの布が昼前にはもうからからに乾いている。
「……これでは、喉を痛めてしまいますわ」
王妃教育では喉は淑女の命と教わった。詩の暗唱も、来賓へのご挨拶も、かすれた声では台無しになる。もう暗唱する詩もご挨拶する来賓もいないのだが身についた習慣はなかなか抜けない。
ミレイユはカタログをめくった。暖かい風の箱のすぐ次の頁。そこに丸みを帯びた白い小さな箱の絵があった。てっぺんから白い霧のようなものがふわふわと立ち昇っている。
「『加湿器』……『乾燥する季節に、お部屋に潤いを』」
まるで、今の自分のために書かれた言葉のようだった。
必要なポイントはエアコンほどではない。三日、封入作業をすれば届く。
三日後。ご注文用紙に「加湿器 1」と書き込んだ翌朝、電気ケトルの台の隣に、白く丸い箱がちょこんと置かれていた。初めて買う品なので、もちろん取扱説明書付きだ。
説明書によると箱の上の蓋を開けて水を入れるらしい。
水。この部屋の水は、飲み水用の水差し一杯だけだ。
ミレイユは少し考えてから、電気ケトルを持ち上げた。
いくら注いでも減らない壺の湯を少し冷ましてから、加湿器にとくとくと注ぐ。満杯になってもケトルはやはりずしりと重いままだった。
ボタンを押す。
しばらくすると、白い箱のてっぺんから細い霧がしゅうっと立ち昇り始めた。
「……まあ。雲を作る箱だわ」
指を近づけると、ひんやりと湿った空気が指先を撫でる。霧はゆらゆらと揺れながら暖かい風に乗り、部屋中にほどけていった。
その夜、喉の痛みはなかった。翌朝の唇もしっとりしていた。そして封筒の紙は指先にちゃんと吸いつくようになった。
暖かい風の箱と、雲を作る箱と、減らない湯の壺。
石の部屋は、日に日に牢屋らしくなくなっていく。
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