8,雲の上の寝床
母がメイドに化けてやってきた日から、さらに一週間が過ぎた。
その朝、箱を開けたミレイユは、またも小さく声を上げた。
『品質優良のため、新しいお仕事をご案内します。
封筒に三種類の紙を指定の順番で封入してください。
一通あたりのポイントが、シール貼りより高くなります。』
箱の中には、白い封筒の束と三種類の紙の束がきっちりと詰められていた。
説明書きは、いつもどおりこの国の言葉で書かれている。一枚目の大きな紙を三つ折りにし、その内側に二枚目の小さな紙を挟む。三枚目の細長い紙は一番手前に。封筒の口は糊で閉じない。
ところが、封入する紙の方にはまったく読めない文字がびっしりと印刷されていた。
よく見ると、字の形が三種類ほど混ざっているらしい。丸っこくて柔らかい字と、角ばって線の少ない字と、やたらと画数の多い複雑な字。たまに赤い大きな文字が躍っていて、やたらと勢いがある。
「……異国の呪文かしら」
もちろんわからない。
王妃教育で五か国語を学んだミレイユでも、一文字も読めない。ただ、赤い大きな文字の横には、カタログで見たような食べ物の絵が並んでいた。そして、その下には数字。
「……もしかして、商人のお品書きのようなものかしら」
だとすれば、この封筒はどこかの誰かの家に届けられるのだろう。そう思うと、折り目ひとつにも気が抜けない。届いた封筒を開けた誰かが、紙が曲がっていたらきっとがっかりする。
ミレイユは三枚をきっちり折って、封筒に入れ続けた。
どこかの誰かのもとへ、このお品書きが届くのだろう。できる限り美しく届けたい。
◆
封入作業は、ポイントの貯まり方がまるで違った。
造花が一輪いくら、シール貼りが一個いくら、という計算を、ミレイユはもう毎日欠かさずつけている。王妃教育で叩き込まれた帳簿の知識が、こんなところで役に立つとは思わなかった。
壁の石に刻んだ作業量の印の隣に、新しく「目標」の列を作った。
ひとつ目は、「マットレス」。
カタログの家具・家電の章の先頭の方に載っている白く分厚い床だ。絵の中では、異国の女性が幸せそうな顔でその上に横たわっている。必要なポイントは毛布の十倍以上だった。
藁を詰めた寝台は、寝返りを打つたびにぎしりと鳴る。朝には背中に藁の跡がついている。
「……あと、十日。」
ご注文用紙の残高を確かめるたびに、ミレイユはそうつぶやいた。あと七日。あと三日。
その間にも、クラリスは約束どおり十日後にまたメイドの姿でやってきた。
今度は、頭巾の下の口元が最初から緩んでいた。
「さあ、ミレイユ。一人一つずつ、よ」
二人並んで正座し、三分待つ。クラリスは前回よりもさらに背筋を伸ばしていた。
どうやら、これが異国の正式な作法だと思っているらしい。
カップ麺を平らげると、クラリスはカタログをぱらぱらとめくり、赤い筒の絵を指さした。
「次は、これを食べてみたいわ。この赤いの」
「……それ、とても辛いらしいわよ、お母様」
「あら、いいじゃない。若い頃は南方の香辛料料理が大好きだったのよ」
そして帰り際。扉が閉められ、衛兵の足音が遠ざかるとクラリスは何も言わずに頭巾を外した。それから両手で自分の耳をきゅっと折りたたみ慣れた様子で格子の隙間に顔を差し入れる。
「……お母様、もう手慣れていらっしゃるのね」
「なんれも、いちろやれば、こつがわかるものよ」
今度は耳は引っかからなかった。一かけらのチョコレートを味わい、すぽんと顔を抜くとクラリスは両頬にまた縦二本の跡をつけて元気な新人メイドの声で階段を下りていった。
赤いカップ麺と、チョコレートと、それを二人分。その分のポイントを計算して一日だけ遠い目をした。
けれど、母がまた来てくれるのなら、それも悪くない。
そして。
ついに「ポイント残高」の数字がマットレスの数字を越えた。
ミレイユは、筆記具を握る手が少し震えるのを感じながら一文字ずつ書き込んだ。
「マットレス 1」
その夜、ミレイユはなかなか寝つけなかった。
藁の寝台で寝返りを打つたびに、ぎしり、と鳴る。この音も今夜で最後かもしれない。そう思うと、なぜか少しだけ名残惜しい気もした。この塔での最初の夜からずっと、文句も言わずに自分を支えてくれた寝台だ。
王宮の夜会の前夜よりもずっと胸が高鳴っていた。
「……今までありがとう、藁の寝台さん」
そうつぶやいて目を閉じると、寝台は返事の代わりにもう一度だけぎしりと鳴った。
◆
翌朝。
ミレイユは、ゆっくりと目を開けた。
何かがおかしい。
背中が痛くない。藁のチクチクした感触も寝返りのたびのぎしぎしという音も、まったくない。代わりに、体の重さがどこまでもやわらかく受け止められているような、不思議な浮遊感があった。
「……?」
そっと身を起こして、自分の下を見る。
藁の寝台の上に、白く分厚い床がきっちりと敷かれていた。そして自分はその上ですやすやと眠っていたらしい。
枕元には、あの小さなカード。『設置完了』
「……いつの間に?」
眠っている自分の下にどうやって床を敷いたのだろう。持ち上げられた覚えも動かされた覚えもない。そもそも、昨夜は一度も目を覚まさなかった。
こんなに身を委ねられる床の上で眠っていたのだから、当然といえば当然かもしれない。
ミレイユは、もう一度そっと仰向けに寝転んだ。
ずぶり、と体が少しだけ沈む。けれど沈みすぎない。肩も、背中も、腰も、全部がちょうどよい高さで支えられている。
「……雲の上に、寝ているみたい」
天蓋付きの侯爵家の寝台も、王宮の客室の寝台もこんなに寝心地がよくはなかった。
王妃教育では「淑女は仰向けで美しく眠るもの」と教わった。この床の上でなら、それも無理なく守れそうだ。
ミレイユは、蒼い毛布を首元まで引き上げ、そっと目を閉じた。
……五分だけ。
あと五分だけ、このままで。
◆
次に目を開けたとき、小さな窓から差し込む光はすっかり真上から降ってきていた。
「……お昼?」
ミレイユは、がばりと身を起こした。
五分のつもりだった。本当に五分のつもりだったのだ。王妃教育の十年間、ミレイユは一度たりとも寝過ごしたことがない。四時の鐘が鳴る前に必ず自分で目を覚ましていた。
それが、この白い床の上ではあっさりと半日が消えてしまった。
「……おそろしい床ですわ」
ミレイユは、マットレスを恨めしそうに見下ろした。白い床は、何も言わずにふかふかとそこにあるだけだった。
差し入れ口には、とうに冷めた朝食の盆が置かれていた。黒パンと豆のスープ。電気ケトルの湯を少しだけスープに足すと、湯気と一緒に豆の匂いがふわりと立ち上る。冷めたスープもこれでまた温かくなる。この壺は本当に何でもできる。
遅い朝食を済ませると、ミレイユは封入作業に取りかかった。
驚いたことに手がよく動いた。
藁の寝台で眠っていた頃は、朝起きるといつも肩や腰が強張っていて、指先が温まるまで少し時間がかかった。それが今日は最初の一通から折り目がぴたりとそろう。体が軽い。頭もすっきりしている。
半日寝過ごしたというのに日が暮れる頃には、いつもと同じだけの封筒が箱に並んでいた。
「……よく眠ると、よく働けるのね」
当たり前のことかもしれない。けれど王妃教育の十年間、ミレイユはそれを一度も知らなかった。
ミレイユは、壁の「目標」の列の「マットレス」の文字の横に小さく丸をつけた。
それから、その下に新しい文字を刻んだ。
「エアコン」
◆
その日、朝食を運んできた衛兵は差し入れ口の前で立ち尽くした。
最上階の牢の中で、侯爵令嬢がつい昨日まではなかった分厚い白い床の上で、この上なく幸せそうな寝息を立てていたのだ。
太陽はもうとっくに昇っている。
衛兵はしばらくその寝顔を眺め、そっと盆を置いて足音を忍ばせて階段を下りていった。
詰所に戻ると同僚たちに小声で告げる。
「……寝床が、増えてた」
「寝床?」
「白くて、ふかふかのやつだ。俺の寝床よりずっといいやつだった」
詰所に重たい沈黙が落ちた。
衛兵たちの寝床は藁すら詰まっていないただの板だった。
「……報告、した方がいいよな?」
「……何て?」
このやりとりも、そろそろ三度目だった。
最後まで読んでいただきありがとうございます!
よろしければ感想や評価の程よろしくお願いします‼




