7,メイドの正体
白百合の塔では、十日に一度王宮から掃除係のメイドがやってくる。
いくら罪人とはいえ、収容されているのは貴族だ。部屋を不潔にして病でも得られては、王家の体面に関わる。そういう理由で掃除の日だけは鉄格子の扉が開けられ、メイドが牢の中に入ることを許されているのだと衛兵から聞いていた。
一度目に来たのは無口な初老の女性だった。罪人と口をきいてはならないと言われているのか、ミレイユとは一度も目を合わせず黙々と床を磨いて帰っていった。
そして、二度目の掃除の日。
「……掃除係だ。開けるぞ」
衛兵が鍵を回し、きい、と鉄格子の扉を開けた。
入ってきたのは、紺色のお仕着せに白い前掛け、頭には大きな白い頭巾をかぶったメイドだった。片手には水の入った桶、もう片手には竹箒。頭巾を目深にかぶっていて顔はよく見えない。
「いつものように、終わったら声をかけろ。下で待っている」
「……はい」
衛兵は外から鍵をかけ直すと階段を下りていった。掃除の間、衛兵は階段の下で待つ決まりらしい。最上階の部屋に充満するなぜか美味しそうな匂いから逃げたいだけかもしれないが。
メイドは桶を床に置くと、後ろ手でそっと竹箒を壁に立てかけた。
その仕草を見た瞬間、ミレイユはシールを貼る手を止めた。
背筋がまっすぐすぎる。
竹箒を立てかけるときの手首の角度。桶を置くときに膝をそろえて折る所作。そして何より、頭巾の隙間から覗く、紅を引いた口元の、あの形のいい微笑み。
ミレイユは、その微笑みを十八年間、いやというほど見てきた。
「……お母様?」
メイドは、頭巾をそっと指で持ち上げた。
そこにいたのは、紛れもなくローズレイン侯爵夫人クラリスだった。
「あら、もう気づいたの? もう少しごまかせると思ったのに」
「……お母様、お屋敷から出てはいけないのでは?」
「ええ、だからこうして来たのよ」
クラリスは、得意げに前掛けの裾をつまんでみせた。
話を聞けば、こうだった。
王宮の掃除係を取り仕切る侍女長は若い頃に侯爵家で働いていたことがある。その侍女長にこっそり手紙を送り、塔の掃除係と一日だけ入れ替わらせてもらったのだという。屋敷からは、出入りの商人の荷馬車に紛れて抜け出した。
「見張りの騎士さんたち、侯爵夫人が人参の箱の陰に隠れているなんて夢にも思わなかったみたい。ふふっ」
「……お父様は、ご存知なの?」
「まさか。あの人に言ったら、自分も行くって聞かないでしょう。あの人がメイドの格好をしたら、すぐにバレるわよ」
ミレイユは、頭巾をかぶった大柄な父の姿を想像してしまい、少しだけ口元を緩めた。
◆
「それで、これは一体なんなのかしら?」
クラリスは、部屋をぐるりと見回した。
蒼いふわふわの毛布。もこもこの靴下。寝台の脇の白い台と、その上の白い壺。窓枠には飾り切れずに壁に隙間に差し込まれた、「品質優良」のカード。
内職のこと、カタログのこと、牢の中でしか使えないことを説明すると、クラリスは「まあ」と一つうなずいただけだった。
「……お母様、驚かないの?」
「驚いているわよ。でも、あなたが元気ならそれ以外は全部その次だもの」
そう言って、クラリスは寝台に腰かけ蒼い毛布を指でつまんだ。
「……あら。あらあら。これ、うちの羽毛布団よりいいんじゃない?」
「そうなの。寝心地がとてもいいの」
「ずるいわ。うちにも欲しいわ」
「牢の外には出せないのよ、お母様」
「じゃあ、うちを牢屋にすればいいのかしら」
クラリスは、ころころと笑った。
ミレイユは、大事にとっておいた二つ目のカップ麺を取り出した。
「お母様、お昼はまだ? これ、一緒にいただきましょう」
電気ケトルで湯を沸かし、蓋を半分めくって注ぐ。キッチンタイマーを三分に合わせる。
「……それで、これからどうするの?」
「三分、待つの」
ミレイユは床に正座し膝の上で手を揃えた。そして、微動だにしなくなった。
クラリスは、しばらく娘の横顔を眺めていた。それから、何も聞かずに娘の隣に同じように正座した。
三分。
メイドの格好をした侯爵夫人と、麻の服を着た侯爵令嬢が牢屋の石の床に並んで正座し、じっと紙の筒を見つめていた。
ピピピピッ。
「……どうぞ、お母様」
クラリスは、娘に教わったとおり木のフォークで麺をくるくると巻き、上品に口に運んだ。
そして、動きが止まった。
「…………」
「お母様?」
「……ミレイユ。これ、もう一つないの?」
「ごめんなさい。今はそれだけなの」
「……そう。じゃあ、半分こだけにしておきましょう」
そう言いながら、クラリスのフォークは止まらなかった。結局、半分より少し多めに食べてから、名残惜しそうに筒を娘に返した。
◆
空になった筒を並べて、母娘はしばらく黙って床に座っていた。
やがてクラリスが、そっと口を開いた。
「……あなた、いい顔をするようになったわね」
「えっ?」
「王太子殿下の婚約者になってから、あなたちっとも笑わなくなったでしょう。お父様も私も、ずっと気にしていたのよ。でも、王家とのお約束をこちらから反故にするわけにもいかなくて」
クラリスは、娘の頬にそっと手を当てた。
「三分待っているあいだのあなた、小さい頃と同じ顔をしていたわ。焼き菓子が焼き上がるのを、厨房の窯の前で待っていた頃と」
「……お母様」
「牢屋に入れられて、ようやく元の顔に戻るなんて。母親としては複雑だけれどね」
そう言って、クラリスは娘をそっと抱きしめた。
ミレイユは、しばらくじっとしていた。母の肩は粗い紺色のお仕着せの生地の奥から、いつもの香水の香りがかすかにした。
「……ご心配をおかけして、ごめんなさい」
「いいのよ。心配するのが、親の仕事なんだから」
そのとき、階段の下から衛兵の声が響いた。
「おい、まだか! いつもはもう終わっている頃だぞ!」
クラリスは、ぱっと立ち上がった。そして、竹箒をつかむと、二、三度床を掃くふりをしてそれから大きな声で返した。
「ただいま終わります、衛兵さま!」
その声は、どこからどう聞いても、王宮で一番元気な新人メイドのそれだった。
「……お母様、お上手ね」
「うふふ。若い頃は、素人芝居の主役だったのよ」
クラリスは頭巾を目深にかぶり直し、桶を持ち上げた。
「それじゃあ、また十日後に」
「えっ……またいらっしゃるの?」
「当たり前でしょう。今度は、そのカップ麺というのを一人一つずついただくわよ」
ミレイユは、思わず小さく吹き出した。
衛兵が上ってきて鉄格子の扉を開けた。メイド姿の母が桶を提げて外に出ると、扉は再びがちゃんと閉められた。
「先に下りているぞ。早く来い」
衛兵の足音が、螺旋階段を遠ざかっていく。
その瞬間、クラリスがくるりと振り返った。
「……忘れていたわ」
「お母様?」
「ちょこれいと、よ。リーゼから詳しく聞いたの。銀色の紙に包まれた、この世のものとは思えないほど美味しいお菓子があるって。口の中でとろけて、甘くて、ほろ苦くて、いつまでも香りが残るんですってね。今日は絶対にいただいて帰るつもりだったのに、カップ麺に夢中ですっかり……」
リーゼは一体、どんな顔でそれを話したのだろう。自分は一口も食べられなかったというのに。
ミレイユは、大事に取っておいた銀紙の包みを取り出し、一かけらを割った。それから、鉄格子の向こうの母へ差し出す。
格子を越えた瞬間、チョコレートはふっと消えてミレイユの手の中に戻ってきた。
「……ごめんなさい、お母様。外には出せないの」
クラリスは、鉄格子をじっと見つめた。
格子と格子の間は、ちょうど大人の顔の幅ほどだった。
「……『お部屋の中であれば、どなたさまでも』だったわね?」
「……お母様、まさか」
クラリスは頭巾をむしり取ると、ためらいもなく、格子の隙間に顔を押し込んだ。
額。鼻。頬。そして、耳のところで、ぴたりと止まった。両頬がむにっと格子に挟まっている。
それでも、唇だけは、どうにか格子の内側に届いていた。
「……ふぁい、ろうぞ」
「…………」
侯爵夫人が、鉄格子に顔を挟んで、雛鳥のように口を開けている。
王妃教育では、こういうときの作法は教わらなかった。
ミレイユは、少しだけ迷ってから一かけらのチョコレートをそっと母の口に入れた。
クラリスは目を閉じて口を動かして――そのまま、動かなくなった。
「……お母様?」
「……みれいゆ」
「はい」
「……これ、ずるいわ」
格子に頬を挟まれたまま、侯爵夫人は、とろけるような顔をしていた。
「おい、まだか!」
階段の下から、衛兵の声が響いた。
クラリスは慌てて顔を抜こうとして――
「……あら?」
抜けなかった。耳が引っかかっている。
「お母様、動かないで。耳を、こう……」
「痛い、痛いわ、ミレイユ」
ミレイユが格子の内側から母の耳をそっと折りたたみ、顔をゆっくりと押し戻すと、ようやく、すぽんと抜けた。
クラリスの両頬には、くっきりと、縦に二本の格子の跡がついていた。
「ただいま参ります、衛兵さま!」
王宮で一番元気な新人メイドの声で返事をして、頭巾を目深にかぶり直すと今度こそ桶を提げて階段を下りていった。
その背中は、やはり一度も曲がらなかった。頬の格子の跡だけが少し間の抜けたものだったけれど。
その日の夕方、ミレイユはいつもより少しだけ多くシールを貼った。
十日後までに、カップ麺を二つとチョコレートをもう一枚交換しておかなければならないのだから。
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