6,三分間の儀式
シール貼りは妙に性に合った。
剥がして、貼る。剥がして、貼る。ただそれだけの仕事だ。地味だった。とてつもなく地味だった。
だが、一ミリもずれずに貼れたときの満足感は、王妃殿下の前で完璧なお辞儀を決めたときよりずっと心が躍った。
三日もするとミレイユはコツをつかんでいた。台紙を少しだけ折り曲げると、シールの端がふわりと浮き上がる。そこを爪でつまんで小箱の線の左上に合わせ、右下に向かって指の腹でなでる。そうすると空気も入らず、ずれもしない。
「……美しいわ」
積み上げた小箱の山を眺めてうっとりとつぶやいた。全部同じ位置に、全部同じ角度で、丸いシールが貼られている。兵士の閲兵式よりも整っている。
翌朝にはもちろん「品質優良」のカードが届いた。カードはもう十枚を超えている。
そして、一週間が過ぎた朝。
「……貯まりましたわ」
ご注文用紙の「ポイント残高」の欄をミレイユは指でそっとなぞった。
チョコレートを我慢した。一日一かけらに減らした日もあった。すべてはこの日のためだ。
ミレイユは、丁寧な字で書き込んだ。
「電気ケトル 1」
「カップ麺 2」
それから少し考えて、もう一行。
「キッチンタイマー 1」
三分を測るための道具だとカタログに書いてあった。この部屋には時計がない。太陽の影では三分は測れない。
◆
翌朝。
目を覚ますと,寝台の脇の小さな台の上に、白い壺がちょこんと置かれていた。
「……台?」
そもそも、そんな台はなかったはずだ。よく見ると壺と一緒に小さな白い台も届いているらしい。台の上には『設置完了』と書かれた小さなカードと薄い冊子が一冊。
表紙には『取扱説明書』とあり、その下に小さく『初回のご購入に限り、お客様の国の言葉でお付けしております』と書かれていた。
「……せっちかんりょう。まあ、ご丁寧に」
家具・家電の品は箱には入らず、こうして直接届くらしい。寝ている間に誰かが部屋に入ってきたのかと思うと少しだけ落ち着かないが鉄格子の鍵はかかったままだ。深く考えるのはやめた。
壺には紐が一本ついていた。その先には金属の小さな爪が二本。説明書きによるとこれを壁の「コンセント」という穴に差し込むらしい。
ミレイユは部屋を一周した。壁の石を一枚ずつ確かめた。穴はどこにもない。
「……どうしましょう」
しばらく悩んだ末、とりあえず紐の先を壁にそっと立てかけ、壺に水を入れてボタンを押してみた。
パチン、と小さな音がして、壺の底に赤い灯りがともった。
動いた。
なぜかはわからない。でも、動いたのだからそれでいい。
やがて壺の中から、こぽこぽと小さな音が聞こえ始めた。それがだんだん大きくなって、ごぼごぼという音に変わる。注ぎ口から白い湯気が立ち昇る。
そして、カチリと音がして、赤い灯りが消えた。
「……熱湯が、できてしまったわ」
種火も薪も使わずに。たったこれだけの時間で。
王宮の厨房では、湯を沸かすのにも下働きが火を熾し釜を運ぶ。この白い壺が一つあればどれだけの手間が省けるだろう。
ミレイユはしばらく湯気を上げる壺を尊敬のまなざしで見つめていた。
その日の昼過ぎ、三日に一度の湯が届いた。
衛兵が差し入れ口から押し込む木の桶一杯の湯。厨房で沸かされ、百段を超える螺旋階段を運ばれてくるうちにすっかりぬるくなっている。冬になってからは、手を入れるとぬるいというより、もはや少し冷たいくらいだった。
いつもなら、それで手早く体を拭いて震えながら麻の服を着込むのだが。
ミレイユは白い壺と桶を見比べた。
「……もしかして」
壺の熱湯を桶にそっと注ぐ。湯気がふわりと立ち、指を入れるとちょうどよい温かさになっていた。
「まあ」
布を浸して絞り首筋を拭く。温かい。肩も、腕も、背中も。体の芯までほぐれていくようで、ミレイユは思わず目を細めた。湯船には遠く及ばないけれど塔に来てから一番の贅沢だった。
ただ、一つだけ気になることがあった。
「……減っていないわ」
桶に注いだあと壺を持ち上げるとずしりと重い。蓋を開けてみると湯はなみなみと入ったままだった。
もう一度注ぐ。桶の湯は増えるのに壺の湯は減らない。三度目。やはり減らない。
水を足した覚えはない。そもそもこの部屋には飲み水用の水差し一杯ぶんの水しかない。
ミレイユはしばらく壺の中を覗き込んでいたが、やがて静かに蓋を閉じた。
「……便利だから、よしとしましょう」
深く考えないことにも、だいぶ慣れてきた。
◆
その日の夕方。
一日のシール貼りを終えたミレイユは、紙でできた筒状の容器を前に正座していた。
「……三分、待つ。」
説明書きは、もう五回読んだ。
蓋を半分めくる。中には、縮れた麺の塊とよくわからない乾いた具が入っている。内側の線まで熱湯を注ぐ。蓋を閉じる。
そして「キッチンタイマー」という小さな箱を三分に合わせ、押す。
三分。
石の部屋に、ひとつ、またひとつと数字が減っていく音だけが響く。蓋の隙間からうっすらと湯気と、吐息が出そうなほど良い匂いが漏れてくる。
ミレイユは背筋を伸ばし、微動だにせずに待った。
たった三分。しかし、どうして三分なのだろう。二分でも四分でもなく三分。この三分にはきっと何か大切な意味があるのだ。異国の神聖な儀式なのだろう。
そう思うと、自然と手が膝の上で揃った。
ピピピピッ、とタイマーが鳴った。
蓋を開けると細く縮れた麺が湯の中で揺れていた。さっきまで乾いていた具がふっくらと色を取り戻している。
説明書きの絵では二本の棒を使っているが、あれはきっと異国の大道芸だろう。ミレイユは食事に添えられていた木のフォークを手に取り、パスタをいただくときと同じ要領でくるくると麺を巻きつけた。淑女たるもの、音を立てて食べるわけにはいかない。
そして、ひと巻きをそっと口に運んだ。
「……っ!」
熱い。塩辛い。そして、ものすごく美味しい。
冷え切った体の奥にじんわりと熱が広がっていく。麺はつるつると喉を滑り、汁には肉と野菜と、何か知らないものの旨味が、幾重にも溶け込んでいる。
王宮の料理長が三日かけて煮込むスープよりも、この三分の汁の方が今のミレイユにはずっと沁みた。
汁の最後の一滴まで飲み干したとき、ミレイユは窓の外の月に向かってそっと手を合わせていた。
◆
その夜、塔の衛兵たちの詰所。
「……なあ。なんか、いい匂いしないか?」
「する。すごくする。上の方からだ」
「上って……最上階には、あの令嬢しかいないぞ」
衛兵たちは顔を見合わせた。
螺旋階段を漂い降りてくるのは肉とも野菜ともつかない、妙に食欲をそそる匂いだった。夕食の黒パンをかじっていた衛兵の一人の腹が、ぐうと鳴った。
「……報告、した方がいいよな?」
「……何て? 『収容者の部屋から美味そうな匂いがします』ってか?」
衛兵たちは、今日もこの話をなかったことにした。
ただ、その夜、詰所の黒パンはいつもより少しだけ美味しくなかった。
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