5、王宮の二人
あの日の茶会のことを思い出すたび、聖女エミリアは笑いをこらえるのに苦労する。
聖女。この国では、豊穣の女神を祀る大神殿で最も位の高い女性聖職者をそう呼ぶ。
女神の声が聞こえるわけでも、奇跡を起こせるわけでもない。ただ、誰よりも長く、誰よりも熱心に祈りを捧げてきた者だけが、豊穣の女神の加護が授けられると信じられ、その地位に就くことを許される。
季節ごとの豊穣祭で、民を代表して祈りの言葉を捧げるのが聖女の何よりの務めだ。そして聖女の位は、王族に次ぐ神聖なものとされている。
エミリアは、生まれてすぐに大神殿へ預けられた娘だった。
物心ついたときにはもう祈っていた。夜明け前に起きて冷たい石の床に膝をつき、日が暮れるまで祈りの言葉を唱える。来る日も来る日も。それだけが、彼女に許された生き方だった。
そして一昨年、先代の聖女が夭逝した。国じゅうが一年の喪に服し、その喪が明けた昨年、エミリアは十七の若さでその後を継いだ。
絹のドレス。王宮の一室。かしずく侍女たち。そして何より、王太子殿下の熱を帯びた眼差し。
祈るだけの毎日からようやく抜け出せたのだ。冷たい石の床に膝をつくのはごめんだった。
「祈りなんて、もう十分すぎるほど捧げたもの」
あとは、邪魔な婚約者さえいなくなればよかった。
◆
王妃殿下主催の、薔薇の温室での茶会。
エミリアは、紅茶を注がれたカップを受け取ると、袖の中に隠した小瓶の栓を指先でそっと外した。
小瓶を用意したのはアルベルトの側近だ。腹を壊して数日寝込む程度の命に危険はない薬だという。量さえ間違えなければ。
卓の向こう側では、ミレイユが王妃殿下と静かに言葉を交わしている。背筋をまっすぐに伸ばし、表情ひとつ変えずに。
あの澄ました顔が、エミリアは大嫌いだった。
生まれたときから侯爵家の令嬢で、何をやらせてもそつなくこなして、王妃殿下にも一目置かれている。石の床で祈ることしか知らなかった自分が、十八年かけても手に入らなかったものを、最初から全部持っている人。
小瓶の中身をカップに落とす。ひと匙の砂糖のように、すぐに溶けて見えなくなった。
紅茶を淹れたのは壁際に控えている若い侍女だ。昨夜、側近から金貨の袋を受け取った娘。目が合うと侍女は青ざめた顔でうつむいた。
エミリアは、ゆっくりと紅茶を口に含んだ。
苦い。舌がびりびりと痺れる。思っていたより、ずっと。
(……量、間違えてないわよね?)
一瞬だけ不安になったがもう遅い。エミリアはカップを取り落とし、胸を押さえて精いっぱい悲痛な声を上げた。
「きゃああっ……!」
茶会は大騒ぎになった。薄れゆく意識の中でエミリアが最後に見たのは、打ち合わせどおり駆け寄ってくるアルベルトの姿と――自分のカップをソーサーに戻し、静かに首をかしげているミレイユの姿だった。
(……ほんとうに、可愛げのない人)
それから三日間、エミリアは本当に寝込んだ。
演技ではなく、純粋に薬が効きすぎたのである。
◆
ミレイユが白百合の塔に収監されてからというもの、王太子アルベルトの執務室は書類の山に埋もれていた。
「……おかしい」
アルベルトは積み上げられた紙の塔を睨みつけた。
領地からの陳情書。各部署の予算報告。外国使節との会談の日程調整。どれもこれも、先月まではこんなに溜まっていなかったはずだ。
「なぜだ。俺は先月と同じように仕事をしている。それなのに、なぜ毎朝、前の日より書類が増えているのだ」
先月と同じように仕事をしているからである。
これまでは、アルベルトが手をつけずに放っておいた書類の半分を夜のうちに誰かが整理し、要点をまとめたメモを挟んでおいてくれていた。署名するだけで済むように。その「誰か」は今、罪人となり造花を折っているのだが、アルベルトはそれを知らない。
「……文官どもが怠けているのだろう。後で叱りつけてやる」
そうつぶやいて、紙の塔の一番上から一枚を取ったときだった。
「アルベルト様ぁ!」
扉が勢いよく開いて空色のドレスが飛び込んできた。聖女エミリアだ。
茶会で毒を飲みかけ、三日間床に伏せっていたはずの彼女は、今ではすっかり血色もよく頬を薄ら色に染めている。
「エミリア。俺は今、忙しいのだが……」
「聞いてくださいまし、仕立て屋がひどいんですの。新しい婚約披露の夜会用にドレスを三着お願いしたのに、一着しか作れないって。王太子殿下の婚約者の注文なのですよ?」
「……三着も要るのか?」
「当然ですわ! だって、あの人が婚約者だった頃は夜会のたびに素敵なドレスを着ていたじゃありませんか。わたくしが負けるわけにはいきませんもの」
実際のところ、ミレイユは同じドレスを飾りだけ付け替えて何度も着回していた。王妃教育の経済学で「王家の財は民の税である」と叩き込まれていたからだ。もちろん、そんなことに気づく者は一人もいなかったのだが。
「……わかった。仕立て屋には俺から言っておこう」
「うれしい! さすがアルベルト様ですわ!」
エミリアはアルベルトの腕にしがみついた。その拍子に、紙の塔の一つが大きく傾いて、ばさばさと床に崩れ落ちた。
「…………」
「あら、ごめんなさい。でも、こんなの文官の方に拾わせればいいですわよね?」
「……そうだな」
アルベルトは、床に散らばった書類を見下ろした。その一枚に、見覚えのある小さなメモが挟まっている。細くて、きちんとした、よく知っている筆跡。
『こちら、来月の予算と紐づいております。署名の前に三頁目をご確認くださいませ。』
「…………」
アルベルトは、そのメモをしばらく見つめていた。
それからぐしゃりと握りつぶして屑籠に放り投げた。
「……文官を呼べ。今すぐにだ」
その声が、少しだけ上ずっていたことに、腕にしがみついたエミリアは気づかなかった。
◆
その頃、白百合の塔では。
「……まあ」
箱を開けたミレイユが、小さく声を上げていた。
いつもの薄桃色の紙が入っていない。代わりに、小さな丸い絵がたくさん並んだつるつるの紙と、手のひらほどの大きさの小箱が、どっさりと詰まっていた。
そして一枚の紙。
『いつも品質優良なお仕事をありがとうございます。新しいお仕事をご案内いたします。
丸いシールを台紙から剥がし、小箱の所定の位置に貼り付けてください。
一個あたりのポイントが、造花より少し高くなります。』
「……わたくし、昇進したのね」
ミレイユは、ちょっとだけ胸を張った。
王太子の婚約者から罪人へ。そして罪人から造花係へ。そして今、シール貼り係へ。世間から見ればたぶん、どんどん落ちているのだろう。けれど、ミレイユにとっては、この十年で初めて「認められた」瞬間だった。
一つ目を貼ってみる。
丸いシールを爪の先で剥がし、小箱の角に描かれた薄い線の内側にそっと載せる。指の腹で上からゆっくり押さえる。
少し、ずれた。
「……ふふ。」
ミレイユは不敵に笑った。これは、研ぐ甲斐がありそうだ。
その夜。
初日のシール貼りを終えたミレイユは、蒼い毛布にくるまりながらカタログを眺めていた。
最近は、寝る前にカタログを開くのがすっかり習慣になっている。何度もめくったせいで、頁の角はもう少し丸くなり始めていた。
嗜好品の章にはまだ知らない食べ物がたくさん並んでいる。その中でも最近気になっているのが、紙でできた筒の中に縮れた麺が入っている絵だ。湯気の立つ、いかにも温かそうな。
「『カップ麺』……『熱湯を注いで三分』?」
熱湯。この部屋には熱湯などない。調べてみると、家具・家電の章に「電気ケトル」という、どうやら湯を沸かすらしい白い壺が載っていた。
その周りにも家具・家電の章には不思議な品がずらりと並んでいる。
ふかふかと分厚いベッドに敷く白い布団。壁に掛けて部屋に暖かい風を送るという細長い箱。黒くて薄い板。
そして、章の一番最後の頁。
そこには、白くて大きな湯船の絵があった。なみなみと張られた湯の中から細かな泡がたくさん湧き上がっている。その隣には、白い陶器でできた不思議な形の椅子のようなものも。
必要なポイントは、今のミレイユが一年かけても貯められそうにない数字だった。
「……泡の出る、お風呂」
この塔に来てから一度も湯船に浸かっていない。三日に一度、桶一杯のぬるくなった湯が差し入れられて、それで体を拭くだけだ。
ミレイユは、その頁をじっと見つめた。
それから、蒼い毛布の中で、小さく、けれど確かに、拳を握った。
「……決めましたわ」
まずは、カップ麺と電気ケトル。それから、ふかふかの布団と暖かい風の箱。
そしていつか、この泡の出るお風呂を。
王妃になるために努力してきた十年間、ミレイユは一度も「自分が欲しいもの」を目標にしたことがなかった。
だからこれが、生まれて初めての自分だけの目標だった。
ミレイユはカタログを閉じて枕元にそっと置いた。
明日もたくさん貼りましょう。
そう心に決めて目を閉じた侯爵令嬢の口元は、牢屋にいるとは思えないほど穏やかにほころんでいた。
6、三分間の儀式
7,メイドの正体
8,雲の上の寝床
9,温かい風の箱
10,聖女笑いに来る
を今日の夜投稿します!よろしくお願いします!
最後まで読んで読んでいただきありがとうございました!
よろしければ評価や感想お願いいたします!




