10,聖女、笑いに来る
今日のここまでになります!ここまで読んでいただきありがとうございました!
明日からは1日1話投稿できればな、と思ってます。よろしくお願いいたします!
暖かい風の箱と、雲を作る箱が来てから石の部屋はすっかり過ごしやすくなった。
けれど、ある朝、マットレスの上で目を覚ましたミレイユはふと部屋を見回して思った。
「……灰色ね」
床も、壁も、天井も、灰色の石。暖かくて、潤っていて、寝心地は最高なのに見た目だけはどこまでも牢屋だった。
侯爵家の自分の部屋には、薔薇色の絨毯が敷かれ、窓には母が選んだ花柄の窓掛けが掛かっていた。王妃教育が忙しすぎてゆっくり眺めたことなど一度もなかったけれど。
ミレイユは、カタログの日用品の章を開いた。そこには「インテリア」という見出しの頁が何枚も続いていて、見たこともないほど可愛らしい品々が並んでいた。
「……まあ」
淡い桜色の、毛足の長いふわふわの敷物。「ラグ」というらしい。隅には、小さな白いうさぎの刺繍がちょこんと入っている。
それから、生成りの布に小さな花がたくさん散らされた窓掛け。「カーテン」。裾には、繊細なレースがぐるりと縫い付けられている。
王宮の調度品は、重厚で、豪華で、金糸と銀糸でできていた。けれどこの二つはそのどれとも違った。軽やかで、やわらかくて、見ているだけで口元がほころんでしまう。
「……必要なものではないけれど」
ミレイユはしばらく悩んだ。
マットレスもエアコンも加湿器も必要だから頼んだ。けれど、この二つは違う。ただ、可愛いから欲しいのだ。
王妃教育の十年間「可愛いから」という理由で何かを選んだことは一度もなかった。
「……いいわよね。一度くらい」
ミレイユは、ご注文用紙にいつもより少しだけ丸い字で書き込んだ。
「ラグ 1」
「カーテン 1」
翌朝。
目を覚ましてマットレスから足を下ろすと、石の冷たさの代わりにふわりとやわらかい感触が足の裏を包んだ。
灰色だった床が、一面淡い桜色に変わっていた。小さな窓には、石の壁に棒が渡され、小花柄のカーテンが掛かっている。朝の光がレース越しにやわらかく透けて、桜色の床に花の影を落としていた。
ミレイユは、しばらくその場に立ち尽くした。
それから、ラグの上にぺたりと座り込みうさぎの刺繍を指でそっと撫でた。
「……可愛い」
思わず漏れた声は、自分でも驚くほど年相応の娘のものだった。
◆
「……そろそろ、いい頃合いよね」
王宮の一室で聖女エミリアは鏡に向かって微笑んだ。
あの茶会からもう二か月が過ぎていた。冬の一番寒い時期だ。石の塔の最上階に閉じ込められた令嬢はさぞかし凍えて、痩せて、やつれ果てていることだろう。
その姿をこの目で見てやりたい。
「聖女として罪人に祈りの言葉を授けに参ります、って言えば塔にも入れるはずよね」
エミリアは一番新しい空色のドレスを着て、その上からふわふわの白い毛皮の外套を羽織った。この冬のために北の国から取り寄せた品だ。請求書はもちろん王太子宮に回してある。
「うふふ。あの人、どんな顔をするかしら」
◆
螺旋階段を百段も上らされるとは思っていなかった。
「……はぁ、はぁ……まだですの?」
「もう少しでございます、聖女様」
案内の衛兵に促され、エミリアは息を切らしながら毛皮の裾をたくし上げた。重い。暑い。そもそも、この階段はなぜこんなに温かいのだろう。上に行くほど空気がどんどん暖かくなっていく気がする。
それに、何だろう。この、妙にお腹の空く匂いは。
ようやく最上階にたどり着いたとき、エミリアの額にはうっすらと汗が滲んでいた。彼女は一度深呼吸をして息を整え、用意してきたとっておきの笑顔を浮かべた。
「ごきげんよう、ミレイユ様。さぞかしお寂しいでしょうと思って祈りを授けに……」
そこで、言葉が途切れた。
鉄格子の向こうは暖かかった。
壁の高いところの白い箱から春の日差しのような風が吹いている。その隣の白く丸い箱からは、細い霧がしゅうしゅうと立ち昇っている。灰色のはずの石の床には、淡い桜色のふわふわの敷物。小さな窓には、小花柄のレースの窓掛け。寝台の上には、分厚くて白い、いかにも寝心地の良さそうな床と、蒼いふわふわの毛布。その脇の白い台では、白い壺がことことと湯気を上げている。
見たこともない品ばかりだった。王宮のどの部屋にもない。王都のどの店にも隣国の宮殿にだってきっとない。
ここは牢屋のはずだ。それなのに、エミリアの目にはこの国で一番新しくて、一番洒落た部屋に見えた。
そしてその真ん中で。
麻の服にもこもこの靴下を履いた元婚約者が、床に正座して紙の筒の中の何かをフォークでくるくると巻いていた。
「……あら。ごきげんよう、エミリア様」
ミレイユは、フォークを置いて座ったままで完璧な会釈をした。
「ごめんなさい。ちょうどお昼をいただいていたところなの」
「……な、な、な……」
エミリアの口が、ぱくぱくと動いた。
「……何よ、これ!?」
「内職ですわ」
「ないしょく!?」
このやりとりも、もう何度目だろう。ミレイユは、筒の中の麺が伸びないうちにと、もうひと巻きを上品に口に運んだ。
「……ん。今日のは、少し辛いのね」
「聞いていませんわ!」
エミリアは、鉄格子を握りしめた。
おかしい。こんなはずではなかった。凍えて震えて、痩せこけた頬で、泣きながら許しを請う元婚約者の姿を見に来たはずなのに。
ところが目の前のミレイユは、痩せるどころか頬がうっすらと血色よく、肌はつややかで、何より、あの澄ました無表情が妙にやわらかくなっている。
「……どうして、あなたばっかり……」
「はい?」
「なんでもありませんわ!」
ミレイユは、少し考えてから、筒をそっと差し出した。
「……召し上がります?」
「えっ」
「とても美味しいのよ。ただ、牢の中にお入りにならないと、お出しできないのだけれど」
エミリアは、はっとして案内の衛兵を振り返った。
「ちょっと、あなた。ここを開けなさい」
「できません、聖女様。面会は鉄格子越しと決まっております」
「わたくしは聖女よ!?」
「聖女様でもでございます」
衛兵は、片方の目でちらりと牢の中の筒を見やりなぜか少しだけ悲しそうな顔をした。彼も、あの匂いの正体を一度でいいから知りたいのだ。だが、決まりは決まりだ。
「……まあ、それは残念ですわね」
ミレイユは、本当に残念そうに眉を下げて筒を自分の膝の上に戻した。
そして、最後のひと巻きをゆっくりと味わって食べた。
エミリアの腹が、きゅう、と小さく鳴った。
「…………」
「…………」
ミレイユは何も言わなかった。王妃教育で人の失態には気づかぬふりをするのが淑女の情けだと教わっていたからだ。
その「気づかぬふり」が、エミリアには何よりも屈辱的だった。
「……祈りは、また今度にしますわ!」
「あら、そう。お気をつけてお帰りになってね。下りも長いですから」
エミリアは、毛皮の裾をひるがえして階段を駆け下りていった。途中で一度、裾を踏んでつまずく音がした。
王宮への帰り道。
馬車の窓から吹き込む風が、いやに冷たく感じた。北の国から取り寄せた毛皮の外套も、あの暖かい風を知ったあとでは何だか無駄に重いだけのものに思える。
(……牢屋の方が、わたくしの部屋より暖かいなんて)
王宮の自分の部屋には小さな暖炉が一つしかない。寝台には羽毛布団が掛かっているがあの白く分厚い床ほど、寝心地がいいようには見えなかった。
そして何より、あの匂い。
「……負けませんわ」
エミリアは、毛皮の裾をぎゅっと握りしめた。
王宮に戻るやいなや、彼女は侍女たちを呼びつけた。
「部屋の暖炉を増やしなさい。それから、東の国から一番上等な羽毛布団を取り寄せて。床には桜色の毛足の長い絨毯を、窓には小花柄のレースの窓掛けを。王都中の仕立て屋に今すぐ作らせなさい。料理長には、匂いを嗅いだだけでお腹が鳴るような料理を作るように伝えてちょうだい」
「‥‥匂いだけでですか?」
「匂いだけで、よ!」
侍女たちは、顔を見合わせた。
その夜、王宮の料理長は異国の香辛料をありったけ鍋に放り込んだ。匂いだけは確かに王宮中に広がり、廊下の衛兵から書庫の文官まで、皆の腹を鳴らした。ただし、味は辛すぎて、聖女を含め誰一人として二口目を食べられなかった。
そして翌月、王太子宮に届いた請求書の束は、先月の倍の厚さになっていた。
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