2,茶色い箱
目を覚ますと、窓の外はもうすっかり明るかった。
ミレイユはしばらく石の天井をぼんやりと見上げていた。太陽が昇ってから目を覚ますのはいつ以来だろう。思い出そうとしてみたが、思い出せなかった。
「……寝坊、してしまいましたわ」
叱る人はもういない。それが少しだけくすぐったくて、ミレイユは毛布の中でもぞもぞと身じろぎした。それから冷えきった体を起こす。
とたんに背中がぎしりと傷んだ。肩も、腰も、首筋も。藁を詰めただけの寝台では体中がこわばって固まってしまっていた。
体を伸ばそうと寝台から降りた時、そこで気づいた。
寝台の脇に、見たことのない箱が置いてある。
一抱えほどの大きさで、茶色くて、四角い。木箱でも革でもない。指で押すと少しへこむ。分厚い紙を何重にも貼り合わせたような不思議な素材だった。側面には見たことのない文字が黒いインクで大きく刻まれている。
「……衛兵さんの忘れ物かしら?」
昨夜は確かになかった。鉄格子の鍵はかかったままだし、この大きさでは差し入れ口も通らない。
「ごめんくださいませ。どなたか、いらっしゃいませんか?」
鉄格子の向こうに声をかけてみる。螺旋階段に自分の声が反響して消えていった。返事はない。
ミレイユは箱の前にしゃがみこんだ。
王妃教育では「出どころのわからないものに触れてはならない」と教わった。毒や呪いが仕掛けられているかもしれないからだ。
だが、よくよく考えてみれば毒を盛ったことにされて牢屋に入っているのだ。今さら毒を盛られたところで、さほど事態は悪くならない気がする。
「……開けてみましょう」
蓋は細長い透明な帯で留められていた。爪の先で端をめくると、べりべりと小気味よい音を立てて剥がれていく。
中には薄桃色の紙の束と細い針金の束、緑色の細長い帯が巻かれたもの。それに、一枚の紙と薄い冊子が入っていた。
紙にはこう書かれている。
『内職のご案内
同封の材料で造花を作り、完成品を箱にお戻しください。
出来高に応じてポイントを付与します。
ポイントは、同封のカタログの商品と交換できます。』
「……ないしょく?」
聞いたことのない言葉だった。
王妃教育では五か国語を学んだが、どの言葉にも「ないしょく」という単語はなかった。文脈からすると、どうやら仕事の一種らしい。
「つまり、造花を作れば何かと交換していただけるということね」
紙を裏返すと作り方が絵つきで丁寧に書かれていた。薄桃色の紙を花びらの形に折り、針金の先に一枚ずつ巻きつけていく。最後に緑の帯を根元から巻いて茎にする。
それからミレイユは「カタログ」と書かれた薄い冊子を開いた。
そして、息を呑んだ。
絵が本物のように精巧だった。王宮お抱えの画家が何日もかけて描いたとしてもこうはいかないだろう。光の当たり方も、表面の質感も、まるでそこに物があるかのようだ。
冊子はいくつかの章に分かれていた。「嗜好品」「日用品」「家具・家電」。
頁をめくるたびに必要なポイントの桁が増えていく。嗜好品の章では百五十、日用品の章では五百。最後の「家具・家電」の章にいたっては、0がずらりと並んでいた。
「……この白い箱は、一体何に使うものなのかしら」
家具・家電の章に載っているのは、白い箱や黒い板ばかりだった。箱の扉を開けると中から冷気が漏れているような絵もある。あまりに理解が追いつかないのでミレイユは一番最初の頁に戻った。
嗜好品の章。その先頭に銀色の紙で包まれた茶色い板の絵があった。
「『チョコレート 150ポイント』……?」
よくわからない。ただ、銀紙が少しだけめくれたところから覗く茶色い表面が、やけに美味しそうに見えた。
そのとき、鉄格子の向こうで足音がした。朝食を運んできた衛兵だ。
「あの、衛兵さん。この箱は……」
「はい?」
衛兵は、ミレイユが指さした先を見て、それからミレイユの顔を見た。
「……何かございますか?」
どうやら彼にはこの箱が見えていないらしい。それならそれで、下手に騒ぎ立てるよりは黙っていた方がいい。令嬢が一人牢屋で気が触れたと思われても困る。これ以上問題ごとを増やせない。
「いいえ。その、今日も良いお天気ですわね、と申し上げたかっただけですの」
「は、はあ……」
衛兵は差し入れ口に盆を置くと、逃げるように階段を下りていった。
◆
朝食の黒パンを平らげたあと、ミレイユは薄桃色の紙を一枚取った。
どうせすることは何もないのだ。寝ていても天井の石の数を数えるくらいしかやることがない。
説明書きの絵を見ながら一枚目の花びらを折る。二枚目、三枚目。針金に巻きつけ、緑の帯で留める。
一つ目はひどい出来だった。
花びらはつぶれ、帯はゆるんで、針金がにょっきりとはみ出している。なんというか、萎んだキャベツのようだ。
「……これは、いけませんわね」
ミレイユは背筋を伸ばした。
王妃教育で叩き込まれたことがある。人前に出すものに手を抜いてはならない。刺繍の一針も、手紙の一文字も、お辞儀の角度も。たとえそれが誰に届くかもわからない造花であっても。
二つ目は、花びらの折り目を丁寧につけてみた。少しマシになったがまだ形が偏っている。
三つ目で、花びらを少しずつずらして重ねるコツがわかった。
五つ目で、帯を斜めに引っ張りながら巻くと、茎が美しくなることに気づいた。
十個目を超える頃には花びらを五枚にするか六枚にするかで本気で悩み始めていた。説明書きには五枚とある。だが、六枚の方がふんわりとして美しい気もする。
「……いいえ。ここは指示どおりに。勝手なことをしては作り手の風上にも置けませんわ」
ミレイユは重々しくうなずき、十一個目に取りかかった。
夕食を運んできた衛兵の足音にも気づかなかった。衛兵は、何もない空中で黙々と指を動かし続ける侯爵令嬢をしばらく見つめてそっと盆を置いて去っていった。
日が暮れる頃。
箱の中には、ふんわりと開いた薄桃色の花が五十輪きれいに並んでいた。
花びらの重なりも、茎の角度も、全部そろっている。一つ目の萎んだキャベツだけは、さすがに箱には入れられず、机の上にちょこんと飾ってある。
「……悪くないわね」
ミレイユは満足げにうなずいた。
一日中指先を動かしていたせいか、体がぽかぽかと温かい。寒さも昨夜ほどは気にならない。それに、完成した花を眺めていると十年間積み上げてきたものとはまた違う、小さな達成感が胸の奥でふつふつと湧いてくる。
「どなたのところへ届くのかは存じませんけれど。どうか、大切にしてくださいませね」
そうつぶやいてミレイユはそっと箱の蓋を閉じた。
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