12,黒い板と三分の料理
格子の隙間からカップ麺を食べてもらう方法。
リーゼが帰ってから三日、ミレイユはずっとそれを考えていた。
フォークに麺をくるくると巻きつけ格子の内側に差し出してみる。けれど、麺はつるりと滑ってラグの上にぽとりと落ちる。筒ごと格子に押しつけてみたら汁がこぼれそうになって慌てて引っ込めた。そもそも、熱々の汁を格子に顔を挟んだまま飲めるものだろうか。
「……むずかしいわね」
ミレイユは、ひとまずこの問題を棚に上げることにした。
それよりも気になっていることがあったのだ。
カタログの家具・家電の章。そこにずっと載っている黒くて薄い板の絵。
「テレビ」説明書きにはこうある。『遠くの景色や、人々の暮らしを映し出します』。
遠くの景色。人々の暮らし。
この箱はどこから来るのだろう。チョコレートやカップ麺を作っているのは、どんな人たちなのだろう。封筒に入れているあの呪文は誰に届くのだろう。
この黒い板があればそれが少しはわかるかもしれない。
必要なポイントはエアコンと同じくらいだった。けれどミレイユはもう迷わなかった。
「テレビ 1」
◆
翌朝。
部屋の隅に小さな白い台が増えていた。その上に、黒くて薄い板がすっと立てて置かれている。台の上にはいつもの『設置完了』のカードと取扱説明書。それから、ボタンのたくさんついた細長い板。エアコンのものとはまた形が違う。
ミレイユは、説明書を三回読んでから「電源」と書かれたボタンを押した。
ぱっ、と黒い板が光った。
そして、板の中に人がいた。
「……!」
ミレイユは思わず後ずさった。黒い髪をきちんとまとめた女性がこちらをまっすぐ見て何かを話している。知らない言葉だった。けれど、声ははっきりと聞こえる。
「……ご、ごきげんよう」
ミレイユは反射的に完璧なカーテシーをした。
女性は、返事をしなかった。こちらを見ているようで見ていない。にこやかに何かを話し終えるとぺこりと頭を下げ、板の中の景色がすっと切り替わった。
「……絵、なのね。動く絵」
いや、絵ではない。窓だ。どこか遠くの国をのぞく小さな窓なのだ。
ミレイユはラグの上にぺたりと座り込み、説明書のとおりに細長い板のボタンを一つずつ押してみた。
押すたびに窓の向こうの景色が変わる。
馬のいない馬車が広い道を何十台も連なって走っていく。空まで届きそうなガラスの塔が夜の中で星よりも明るく光っている。大勢の人が、同じ服を着て同じ方向へ歩いていく。小さな子どもが見たこともない果物を頬張って笑っている。
どれも、知らない世界だった。
「……箱は、ここから来ているのね」
ミレイユは、膝を抱えて黒い板をじっと見つめた。
◆
それから数日で、ある番組を見つけた。
毎日、太陽がちょうど真上に来る少し前。前掛けをした女性が小さな台所で料理をする番組だ。
言葉は相変わらず一つもわからない。けれど、手元を見ていれば何をしているかはわかる。野菜を刻み、肉を焼き、鍋に何かを注ぐ。手際がため息が出るほど美しい。
そして、画面の隅には時刻のようなものが出ていた。
ひとつ、またひとつと、変わっていく数字。
「……あら?」
ミレイユは身を乗り出した。
ちょうど三分経つとき、女性は湯気の立つ一皿をすっと前に差し出した。
「……三分」
カップ麺と同じ。
ミレイユは静かに確信した。やはり、異国において三分とは神聖な時間なのだ。料理とは三分で仕上げるものであり三分待つことこそが異国の食の作法なのだ。
その日からミレイユは番組が始まると同時にカップ麺に湯を注ぐようになった。画面の向こうの女性と一緒にラグの上に正座して、三分を待つ。
ピピピピッ、とタイマーが鳴るのと女性が皿を差し出すのは、いつもほとんど同時だった。
番組を見ているうちに、ミレイユはもう一つ気づいたことがあった。
料理が仕上がると女性は必ずそれを一口味見する。そのとき使っているのはフォークではなかった。
二本の細い棒。
片手で二本を器用に動かし、肉をつまみ、野菜をつまみ、麺をつまんで、すいっと口に運ぶ。
「……大道芸では、なかったのね」
カップ麺の説明書きの絵で見たあの二本の棒。ミレイユはずっと異国の大道芸の一種だと思っていた。けれど、画面の中の女性はごく当たり前のようにあれで食べている。
ミレイユは、手元の木のフォークをじっと見た。
それから、筆記具を二本、右手に持って試しに封筒をつまんでみた。
封筒はぽとりとラグの上に落ちた。
「……いつか、練習しましょう」
フォークで食べるのもそれはそれで美味しいのだから。
そして、もう一つ。
女性は、味見をする前に必ず両手をそっと胸の前で合わせ短い言葉を口にしていた。毎日、同じ言葉を。
「……イタダキマス?」
意味はわからない。けれど、その仕草には見覚えがあった。初めてカップ麺を食べ終えた夜、ミレイユは月に向かって思わず手を合わせていたのだから。
きっと、食べ物への感謝の言葉なのだろう。
その日、ミレイユは三分を待ち終えると画面の女性と同じように両手を合わせた。
「……イタダキマス」
少しぎこちない発音だったが、口にしてみるとなんだか胸の奥が温かくなった。
その夜、塔の衛兵たちの詰所はざわついていた。
「……おい。上から人の声がしないか?」
「する。何人もいる。笑い声まで聞こえるぞ」
「最上階には、あの令嬢しかいないはずだぞ」
衛兵の一人が意を決して階段を上った。最上階の手前の踊り場からそっと鉄格子の向こうをのぞく。
暖かい風の吹く、桜色の床の部屋。そこにいたのは、もちろん侯爵令嬢ただ一人だった。
令嬢は、黒い板の前で正座していた。板の中では知らない国の人々が知らない言葉で大笑いしている。そして令嬢も意味などわかっていないはずなのに、口元を押さえてくすくすと肩を震わせていた。
衛兵は、そっと階段を下りた。
「……どうだった」
「……一人で、黒い板と笑ってた」
詰所に長い沈黙が落ちた。
「……報告、した方がいいよな?」
「……何て書くんだよ」
その夜、衛兵たちの報告書には例によって『異常なし』と書かれた。
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