13,父の面会
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引き続き【冤罪が晴れて釈放されましたが、牢屋のほうが快適なので出ていきません】をよろしくお願いします!
テレビが来てから、ミレイユの牢屋は一日中にぎやかになった。
朝、目を覚ますとまず電源を入れる。封入作業をしているあいだも、シールを貼っているあいだも、黒い板はずっとつけっぱなしだ。手元は封筒を見ているけれど、耳はいつも、画面の向こうの知らない言葉を聞いている。
そして、気づけば聞き分けられる音が増えていた。
王妃教育では五か国語を叩き込まれている。新しい言葉を覚えるときのコツはよく知っていた。まず、何度も出てくる音を拾う。次に、その音がどんな場面で使われるかを見る。
「イタダキマス」は食べる前。
料理の番組の女性が一口食べて目を細めるときに言うのは「オイシイ」。
誰かに何かを聞かれて、うなずくときは「ハイ」。
そして、画面の隅の数字が減っていくとき、女性が一緒に声に出して数える音。「イチ、ニ、サン」。
「……数字ね」
ミレイユは、使い終わった説明書きの裏に聞き取った音を一つずつ書き留めていった。この国の文字で音の形を写し取る。その横に意味を書く。わからないものには、どんな場面で聞いたかを書く。
説明書きの裏は三日で埋まった。
「……面白いわ」
王妃教育の語学は苦痛だった。覚えなければ叱られるから、覚えた。けれど今は違う。この言葉の先には、チョコレートを作る人たちがいて、カップ麺を作る人たちがいて、あの封筒を受け取る誰かがいる。
知りたいから覚える。
それは、ミレイユにとって生まれて初めての勉強だった。
◆
その日の昼過ぎ、螺旋階段を上ってくる足音がした。
重たい。けれど衛兵とは違う。一段一段、どすん、どすんと踏みしめる、聞き慣れた足音。
ミレイユは、封筒を置いて立ち上がった。
「ミレイユ……!」
鉄格子の向こうに現れたのは、熊のような大男だった。肩幅は格子の幅の三倍はある。立派な口髭をたくわえ、目元は真っ赤に腫れていた。
ローズレイン侯爵ギルベルト。ミレイユの父である。
「お父様。お屋敷から出られるようになったの?」
「ああ。騎士団の連中め、三か月も屋敷をひっくり返して、何一つ見つけられなかったのだ。当たり前だ。何もしておらんのだからな! ようやく監視が解けて、真っ先に面会を申し込んだ。わしは……わしは、お前がどんなにつらい思いをしているかと……」
父は、鉄格子を両手でつかみ、涙声で言いかけて――
そこで、止まった。
暖かい風。桜色の床。花柄の窓掛け。白く分厚い寝床。湯気を上げる白い壺。霧を吹く丸い箱。そして部屋の隅で、知らない国の人々がしゃべっている黒い板。
「…………」
父の口が、ぽかんと開いた。
「……ミレイユ。ここは、牢屋だな?」
「ええ、牢屋よ」
「わしの書斎より暖かいのだが」
「エアコンのおかげなの」
「えあこん」
父は、ゆっくりと目元の涙を拭った。
ミレイユが内職とカタログのことを説明すると、父は腕を組んで、うーむと唸った。
「……にわかには信じがたいが、目の前にあるのだから仕方あるまい。それで、この話は誰か知っておるのか」
「リーゼと、お母様は知っているわ」
「……クラリス?」
父の眉がぴくりと動いた。先ほどまで涙で潤んでいた目が、ゆっくりと細くなっていった。
しまった、とミレイユは思った。母の訪問は、父には内緒のはずだった。
「待て。クラリスは、いつ来たのだ。屋敷からは一歩も出られなかったはずだぞ」
「……ええと」
「ミレイユ」
「……メイドに化けて、十日に一度」
「十日に一度!?」
父の大声が螺旋階段にこだました。
「わしが屋敷で、毎晩お前のことを思って眠れずにいたあいだに、クラリスは、十日に一度!」
「お母様は、お父様がメイドの格好をしたら、すぐにばれるからとおっしゃって」
「当たり前だ! わしが頭巾をかぶって似合うと思うか!」
似合わない。まったく似合わない。紺色のお仕着せの袖は、父の二の腕の半分にも届かないだろう。頭巾は頭のてっぺんにちょこんと乗るだけに違いない。
「……それで、あやつは、ここで何を」
「カップ麺を、一緒に食べたわ」
「かっぷめん」
「それから、チョコレートも」
「ちょこれいと」
父は、しばらく黙り込んだ。それから、低い声で言った。
「……わしも、食べる」
◆
もちろん、牢の中には入れない。
ミレイユが、母のやり方を説明すると父は迷いなく顔を格子に押しつけた。耳もちゃんと先に折りたたんだ。
けれど、父の顔は、母の顔の倍は大きかった。
額がつかえる。頬がつかえる。格子の隙間を通り抜けたのは、立派な鼻の先と、口髭の端っこだけだった。
「……ふぬぬぬ」
「お父様、お口が届いていないわ」
「ふぬぬぬぬ……!」
父は顔を真っ赤にして格子に押しつけ続けたが、唇は格子の外側から一歩も前に進まなかった。やがて、ぜえぜえと息を切らして顔を離す。額には、くっきりと格子の跡が二本ついていた。
「……無念だ」
大男が、牢の前で肩を落としている。
ミレイユは、少し考えてから銀紙の包みを開けた。一かけらのチョコレートを、父に見えるように格子の内側で掲げる。
「せめて、香りだけでも」
父は、格子にぴたりと鼻を押しつけ、くんくんと匂いを嗅いだ。
それから目を閉じた。深く、ゆっくりと何度も息を吸い込む。眉間の皺がすうっと消えていく。
「……甘い。だが、それだけではない。焦がした豆のような深い香りがある。こんな菓子は南の大陸の市場でも嗅いだことがない」
父の目つきが変わっていた。
ローズレイン侯爵家は、もとをたどれば、商才で身を立てた家である。祖父の代には、王国一の商会を率いていた。父もまた、若い頃は自ら船に乗り外国の市場を渡り歩いたという。
その父が、鉄格子越しに牢の中の品々を一つ一つ食い入るように見つめていた。
小花柄の窓掛けの、裾。桜色の敷物の毛足。白い壺の継ぎ目のない表面。
「ミレイユ。あの窓掛けの縁の飾り、あれは手編みか」
「わからないわ。でも、全部同じ模様が、少しの狂いもなく続いているの」
「その、かっぷめんというのは、どうやって作る」
「乾いた麺の塊に、熱いお湯を注いで三分待つの」
父は、ぴたりと動きを止めた。
「……乾かした麺に、湯を注ぐだけで食えるのか」
「ええ。それにとても長持ちするみたい。カタログには半年は持つと書いてあったわ」
「半年……」
父は、口髭をゆっくりとしごいた。視線はミレイユの手元のカップ麺の空き筒に注がれたまま少しも動かない。
「湯さえあれば、どこでも温かい食事ができる。戦場の兵にも、冬の山道を行く旅商人にも、北の港の漁師にも……」
独り言のように呟く父の目は、娘を案じる父親の目ではなくなっていた。若い頃、外国の市場を渡り歩いた商人の様な目だった。
そのとき、黒い板の中から男性の大きな声がした。何かを勧めているらしい明るい声だ。
「……ヤスイ」
ミレイユが、ぽつりとつぶやいた。
「何だ、今のは」
「あの国の言葉よ。たぶん『お買い得』という意味だと思うの。物を売る番組でよく言っているから」
父は、しばらく娘の顔をまじまじと見つめた。黒い板と娘の顔を何度も見比べる。娘の膝元に置かれた、文字でびっしり埋まった紙にも、ちらりと目をやった。
それから豪快に笑い出した。
「はっはっは! 牢に入れられて、異国の言葉を覚えておるのか! さすがはわしの娘だ!」
◆
面会の終わりを告げられると、父は名残惜しそうに格子を握った。
「ミレイユ。必ずここから出してやる。それまで、体だけは大事にな」
「ええ、お父様」
「それと」
父は、少しだけ声をひそめた。
「……次に来るときまでに、そのかっぷめんの外側の紙の筒。あれの絵をできるだけ詳しく描いておいてくれんか」
「お父様?」
「なに、ちょっとした興味だ」
階段を下りていく父の足音は、上ってきたときよりもずっと弾んでいた。
ミレイユは首をかしげてから黒い板に目を戻した。画面の中では知らない国の人が手を振って何かを言っている。
「……マタネ」
たぶん、『また会いましょう』という意味だ。
ミレイユは、説明書きの裏の言葉の列に、新しい音を一つ書き足した。
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