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婚約破棄されたので記録係になったら、消されたはずの人々が世界を変え始めました  作者: 月守いとは


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第35話 残すということ

 時間は、少しだけ過ぎていた。


 離宮の文書庫。


 変わらない静けさ。


 棚も、帳簿も、光も。


 すべては同じままだ。


 だが。


 そこに記されるものだけが、少しだけ変わっていた。


 わたくしは机に向かい、筆を動かしている。


 新しい補遺。


 だが。


 以前とは違う。


 最初の一行。


 それは、必ず書かれるようになった。


 ――本記録は、不確実な情報を含む。


 その下に。


 ――複数の解釈が存在する可能性あり。


 そして。


 ――単独での判断材料とせず、他記録と併せて参照のこと。


 書きながら。


 その意味を、何度も確認する。


 これは、制限ではない。


 否定でもない。


 ただ。


 読む者に委ねるための、手がかりだ。


「……増えましたね」


 エドガーが静かに言う。


 机の上には、以前よりも多くの帳簿が積まれている。


 補遺記録。


 そして、その追記。


「はい」


 わたくしは頷く。


「ただ、以前とは少し違います」


「どのように」


「……説明が増えました」


 それが、最も大きな変化だった。


 事実だけではない。


 その不確実性。


 その限界。


 それらを、すべて書く。


 読む者が、判断できるように。


 わたくしは、ページをめくる。


 そこには、過去の記録が並んでいる。


 そして。


 新たに追加された注記。


 以前なら、書かなかったもの。


 だが。


 今は違う。


 書かなければならない。


「……すべてを書くのですね」


 エドガーが言う。


「はい」


 短く答える。


「良いことも」


 一拍。


「そうでないことも」


 その言葉は、静かだった。


 だが。


 確かに、そこにある。


 あの報告。


 死亡者の記録。


 それも、すでに補遺として残されている。


 隠さない。


 削らない。


 それが、選んだ形。


 そのとき。


 足音が、静かに近づく。


 振り返ると、レオンが立っていた。


 以前と変わらない姿。


 だが。


 その空気は、少しだけ違う。


「……変わったな」


 短く言う。


 わたくしは、軽く頭を下げる。


「少しだけ」


「いや」


 一拍。


「大きく、だ」


 その言葉は、評価だった。


 レオンは、机の上の帳簿を見る。


 開かれたページ。


 そこにある注記。


 そして、その下の記録。


「……これなら」


 小さく呟く。


「読み違いは減る」


 完全ではない。


 だが。


 以前よりは。


 確実に。


「……それでも」


 わたくしは言う。


「完全ではありません」


 レオンは頷く。


「当然だ」


 それは、前提だ。


 完全な記録など、存在しない。


 それでも。


「それでも、残すのか」


 レオンが問う。


 それは、確認ではない。


 最後の問い。


 わたくしは、迷わなかった。


「はい」


 そして。


「残します」


 それが、答えだった。


 理由は、変わらない。


 ただ。


 そこにあったから。


 それだけ。


 だが。


 今は、もう一つある。


「読む人のために」


 静かに言う。


 レオンは、わずかに目を細めた。


 そして。


「……そうか」


 それだけ、答える。


 それ以上の言葉はない。


 だが。


 それで十分だった。


 わたくしは、再び机に向かう。


 筆を取る。


 そして、書く。


 変わらない作業。


 だが。


 その意味は、確かに変わっている。


 残すこと。


 それは。


 ただ消えないことではない。


 どう残るか。


 どう読まれるか。


 それを含めて。


 初めて、記録になる。


 わたくしは、一行を書き終える。


 そして。


 静かに、次のページを開いた。


 そこには、まだ何もない。


 けれど。


 これから、何かが残る。


 それは、不完全で。


 曖昧で。


 それでも。


 確かに、そこにあったもの。


 それを。


 そのまま残す。


 それが。


 わたくしの選んだ形だった。

読んでいただきありがとうございます。


本作、完結です。


「残す」という行為は、

決して単純なものではありませんでした。


正しさも、不完全さも、

すべて含めて、それでも残す。


その選択の物語です。


ここまで読んでいただき、本当にありがとうございました。

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