22.フレデリックの王
「殿下!」
「来るな!!」
いまだ暴食蛙は半狂乱でギョロギョロと甲高く鳴きながら周囲を飛び回っているというのに銀の大蛇は見向きもせず、金の瞳はただまっすぐにじりじりと後退するフレデリックの姿だけを捉えている。もうきっと、先ほどのたうち回っていた時のようには簡単には逃がしてくれないだろう。
なぜか大蛇はフレデリックだけに興味を持っている。ならば、いけるかもしれない。
「レナード、動けるか?」
「っ、何とかっ」
フレデリックが大蛇を見据えたまま後ろへ声をかけるとレナードが少し荒い息とともに答えた。表情は見えないが骨や内臓を痛めているかもしれない。すぐにでも医者に見せなければ。
アイザックの怪我は先ほどレナードに駆け寄った様子からすると、擦り傷やあざはあるかもしれないが気がかりなのは頬のネトルのかぶれだけだ。痛ましいほどに赤く腫れていたが走ることはできるはず。体の大きなレナードは重いだろうが、それでも、アイザックならきっと頑張れる……信じられる。
「アイザック、レナードを連れて森に入れ。できればそのまま赤い綱まで行け。あの赤い綱に意味があるのならあそこまで行ければ助かるはずだ」
「ですが殿下を置いては!」
アイザックが叫んだ。きっと唇を引き結んで首をふるふると横に振っている。見えなくても何となく分かる。この数ヶ月で築かれた決して浅くはないつながりに、フレデリックはこんな状況なのに小さく笑った。
「僕はお前たちが体を張って守ってくれたから全身、無事なんだ。走れるんだ。だからお前たちが先に行ってくれれば、僕は走って逃げられる。だがお前たちがそこにいれば僕は逃げられない。だから、行ってくれ!」
蛙にぶつかられたり倒れたりしてあざや擦り傷は少なくないが他にはどこも痛いところも無い。ふたりが身を挺して守ってくれた。今度は、フレデリックの番だ。
きっとこれは正しくない。王族なら…いずれ『正しい』王になるのなら、フレデリックは彼らを囮にしてひとり逃げるべきなのだ。必ず生き残り、走って森の外に出て騎士を呼び、すでに大蛇の腹に収まったかもしれないふたりの救出を頼むべきなのだ。レナードもアイザックも、フレデリックが命じればきっとそうする。
でも違う、そうじゃない。そんなのはフレデリックの王じゃない。フレデリックの求める王の姿は、フレデリックが本当になりたい王の姿は――――。
フレデリックはぎっと、眦を決して銀の大蛇を睨みつけた。
歯の根が合わない。指先だって震えている。立ち上がれば膝だって笑うかもしれない。それでもフレデリックは絶対に自分を捉える大きな金の瞳から目を逸らさなかった。
フレデリックの濃紫の瞳は最も高貴な王族の証。相手がたとえ森の王だとしても、決して屈してなどやるものか。
「みんなで、無事に帰るんですよね?」
「ああ、当然だ」
涙混じりのアイザックの声に、フレデリックは笑い混じりに頷いた。諦めたからでは無い。思い出したからだ。
フレデリックが彼らに命じた。全員が無事に逃げ切ることを最優先にしろ、と。命じた自分が約束を破るわけにはいかないではないか。
危険なことはしないという誓いは意図せず破ってしまったが後でたくさん謝ろう。………後で、必ず。
「絶対ですよ!?」
「分かっている。そのためにも……行け!!!」
叫ぶと同時にフレデリックは腰の短剣に触れた。短剣で敵う相手ではない。あの鱗に傷のひとつを刻むことすら難しいだろう。それでもレナードがフレデリックを救ってくれたように、逃げる隙くらいは作れるかもしれない。
気が付けば、あれだけ飛び回っていた暴食蛙が一匹も周囲にいなくなっている。皆どこかへ逃げ去ったか水に沈んで身をひそめたのだろう。期せずして蛙の救世主になってしまった我が身に、フレデリックはこんなときなのに可笑しくなった。
きっとアイザックとレナードも森へ入ったはずだ。あとはフレデリックが隙をついて森へ入るだけ。きっとこの大蛇は脇目もふらず自分を追うはずだ。必ず、逃げ切る。
「大きすぎるだろうお前!」
自分に対するいら立ちを、フレデリックは目の前の蛇にぶつけた。
短剣を抜こうとするのに手が震えてうまく柄を握れない。気ばかりが焦り、目に涙がせり上がる。負けるものかと思うのに体がどうしても言うことを聞いてくれない。あまりにも不甲斐ない…弱い。
「動け、動け……!」
何とか短剣を抜こうとベルトから鞘ごと取ろうとしたところ、握ったはずの短剣が手からするりと滑り落ち、がしゃりと音を立てて地面に落ちた。
「あっ」
思わず意識を逸らした瞬間、大蛇がシュー!!!っとひと際大きな音を立てた。
「しまっ………!」
銀の大蛇の真っ赤な口がまたフレデリックに向けて開かれた。二本の牙から垂れ落ちるしずくは唾液だろうか、それとも毒か。
「絶対に、諦めない……!」
落ちた短剣を引っ掴み蛇の顎から逃れるために力の入らない足で何とか大地を蹴ろうと歯を食いしばり目をぎゅっと閉じて踏ん張った瞬間、森の方から何かがどさりとフレデリックにのしかかり、勢いを殺しきれず背から倒れたフレデリックの視界が真っ暗になった。
「ぅわ!?!?…なんだ!?」
大きな暴食蛙に下敷きにされたのかと思ったが、違う。何とか逃れようとして身をよじるがその何かが更に絡みつきフレデリックを地面へと押し付ける。しっかりと背まで絡みつかれて抗うこともできず、フレデリックはその何かの布をぎゅっと掴んだ。
――――え?布?………服?
蛙とは全く違う乾いた布の感触。がたがたとフレデリックよりもよほど震えている、フレデリックをその胸に包み込む大きな体。頭上から聞こえる、どこか聞き覚えのあるかすれた声。良く知った匂い。
「あ………ちち、うえ…?」
「大丈夫だよ、フレッド。もう大丈夫だ」
「どう、して?」
どうして父がここにいるのだろう。何でこんな場所にいるのだろう。郊外どころか王都の視察にすら出ない、王宮から一歩も出ない父がこんな森の奥に。しかもこんな蛙だらけの場所だ。親指の爪ほどの蛙にすら悲鳴を上げて逃げ去る父が、どうして。
「大丈夫、大丈夫だよ…」
どう考えても自分よりも父の方が大丈夫ではないだろうと思えるほどに震える声でフレデリックの背を抱き、頭を抱き、必死に包み込んでいる。
ごくりと、フレデリックは息をのんだ。抱き込まれたフレデリックの耳にどくどくと今にも破裂しそうに早鐘を打つ父の心臓の音が聞こえる。その音に、フレデリックはやっと気が付いた。
自分は今、父に守られているのだと。




