第9話 救急車と、ただの隣人(前編)
金曜の夜、スマホに届いたメッセージは短かった。
『ごめん、大規模障害が起きて今夜帰れなくなった。週末の約束、延期させてほしい』
画面を見つめたまま、ウチは慌てて指を動かした。
『了解。大変そうだけど、無理しないでね』
送信を押したあと、いくら待っても既読はつかず、槙野さんからの返信は完全に途絶えた。
システムエンジニアの仕事が過酷なのは、これまで隣で見てきて痛いほど知っている。仕方ない。今は戦ってるんだから。そう自分に言い聞かせるしかなかった。
土曜の朝、目が覚めて真っ先に手を伸ばしたスマホの画面には、何の通知もなかった。昼も、夕方も、夜中も、無意味に画面を点灯させては消すのを繰り返した。
忙しいんだから、邪魔しちゃダメだ。
ウチは、ただのお隣さんなんだから。
言い聞かせるたびに、胸の奥がきゅっと窄まるように痛んだ。連絡を入れたら仕事の邪魔になる。でも、何かあったんじゃないか。いや、スマホを見る余裕すらないだけだ。
頭の中をぐるぐる巡るばかりで、何も手につかない。
日曜日になっても、状況は何も変わらなかった。
朝も、昼も、夜も。
どれだけ画面を睨みつけても、通知は来ない。
約束が流れたことなんて、どうでもよかった。ただ、あの人がちゃんと息をして、ご飯を食べて、無事に帰ってくるのか。それだけが怖かった。何もできない自分がもどかしくて、部屋の中でじっとしている時間が永遠のように感じられた。
せめて帰ってきたとき、胃に優しいものを一口でも食べてほしい。
夕方、たまらなくなってキッチンに立った。冷蔵庫にあった野菜と鶏肉で、消化のいい煮浸しを作る。出汁の匂いで気を紛らわせながら、いつもみたいにタッパーに詰めて蓋をした。
部屋の前まで持っていくべきか、何度も往復して迷った。
もし寝ていたらチャイムは迷惑だ。そもそも、押しつけがましい真似をして引かれたらどうしよう。
結局、ドアノブにビニール袋を掛けておくだけにした。
『帰ってきたら食べて』
震える手で走り書きした付箋を貼る。扉の向こうに耳を澄ませてみたけれど、中からは何の気配もしなかった。
月曜の早朝。
一睡もできないまま迎えた朝、講義のノートを開いて気を紛らわせようとしていた。
そのとき。
外の共用廊下から、ドスン、と鈍く重い衝撃音が響いた。
人の身体が、無防備にコンクリートへ叩きつけられたような音。
続けて、押し殺したような、かすかな呻き声。
心臓が跳ね上がり、握っていたシャーペンが指から滑り落ちた。
考えるより先に足が動いていた。鍵を外してドアを勢いよく開け放つ。
視界に飛び込んできたのは、冷たい廊下にうつ伏せで崩れ落ちているスーツ姿だった。
「槙野さん……!? 嘘でしょ、槙野さん!!」
悲鳴が喉を引き裂いて飛び出していた。
膝を床に強打するのも構わず、倒れ込むように駆け寄る。
肩を掴んで仰向けに返そうとした瞬間、指先に触れたその身体は、驚くほど軽くて、異様な熱を帯びていた。
露わになった槙野さんの顔は、血の気が完全に引いて土気色に変色している。
乾ききった唇は紫色で、額には尋常じゃない脂汗がびっしりと浮いていた。
「槙野さん、聞こえる!? ねぇ、槙野さん!」
返事はない。
胸元は小刻みに上下しているけれど、喉からヒューヒューと掠れた音が漏れていて、呼吸が信じられないくらい浅くて速い。
半開きになった瞳は、光を反射するだけで、どこにも焦点が合っていなかった。
「アンタ、ちょっと……! 嘘でしょ、目開けてよ!」
肩を激しく揺さぶりかけて、慌てて手を止める。動かしていいのかすらわからない。
恐怖で全身の血がサーッと引いていく。冷や汗で滑る指でポケットからスマホを引っ張り出し、震える手で画面を叩いた。
『1』『1』『9』。
発信ボタンを押す親指が、信じられないくらい激しく痙攣していた。
ツーツーという呼び出し音が、鼓膜の奥で狂ったように響く。早く。お願いだから、早く出て。
『はい、消防庁です。火事ですか、救急ですか』
「きゅ、救急です! 隣の人が倒れてて、意識がありません!」
叫んだ声が裏返る。
『落ち着いてください。場所の住所を教えてください』
住所を口にするのに、舌が回らない。震える息を吸い込みながら、アパートの名前と二階の通路であることを必死に伝えた。
『倒れている方の呼吸はどうですか』
「してます、でも、すごく浅くて……肩で息してて、呼んでも全然反応がなくて……っ!」
『わかりました。救急車はすでに向かわせています。胸や頭を無理に動かさず、声をかけながら待っていてください』
通話を切ったあと、スマホを取り落としそうになりながら、槙野さんの右手を両手で包み込んだ。
骨張った大きな手が、氷のように冷たい。
「槙野さん、起きてよ……お願いだから」
擦り寄せるように温めようとしても、体温が戻る気配はない。
「聞こえてるんでしょ? 救急車呼んだから。すぐ来るから……!」
呼びかけても、ぴくりとも動かない。いつもなら「すみません、ちょっと寝不足で」なんて情けない顔で笑って、ウチの心配を誤魔化すくせに。
今は、その言い訳すらしてくれない。
遠くから、けたたましいサイレンの音が朝の空気を切り裂いて近づいてくる。
お願い、間に合って。お願いだから死なないで。
階段を駆け上がってくる複数の足音が響き、ストレッチャーを持った救急隊員たちが姿を現した。
「いつ倒れましたか!?」
「数分前です、音がしてドアを開けたらもう……!」
隊員たちが手際よく槙野さんのバイタルを測り、酸素マスクを装着していく。テキパキとした指示が飛び交う中で、ウチはただ呆然と立ち尽くすしかなかった。
「ご家族の方ですか? 同乗されますか」
ストレッチャーに乗せられる槙野さんの顔を見ながら、喉の奥が引き攣った。
家族じゃない。
そんな資格、ウチにはない。
でも、ここでこの手を離してしまったら、二度と会えなくなるような気がした。
「隣の部屋の者です……っ! 乗せてください、お願いします!」
パジャマ代わりのTシャツに羽織ったカーディガン、足元は突っ掛けサンダルのまま。部屋の鍵も閉めず、財布とスマホだけを握りしめて救急車に飛び乗った。
バタン、と重い後部ドアが閉ざされる。
発進と同時に鳴り響いた電子サイレンの轟音が、車内の狭い空間に反響して耳を塞ぎたくなるほど痛い。
けたたましい警告音と、隊員たちの緊迫したやり取り。
ストレッチャーの槙野さんは、揺れる車体の中で、プラスチックのマスクを曇らせながら弱々しく息を繰り返しているだけだった。
「槙野さん……」
伸ばした手が、酷く震えていた。
こんなになるまで、何日一人で苦しんでいたの。
週末も、その前の夜も。ウチが『無理しないでね』なんて呑気な返信を送りつけて、部屋で待っていた間、アンタはずっと一人で倒れそうになりながら耐えてたの?
「起きてよ……こんなところで倒れてる場合じゃないでしょ……」
サイレンの音にかき消されて、ウチの声なんて届かない。
病院の救命センターに滑り込むと、ストレッチャーはそのまま慌ただしく処置室の奥へと吸い込まれていった。
「ご家族の方は、こちらの待合室でお待ちください」
看護師さんのその言葉に、ウチの足はピタリと止まった。
処置室の重い扉が閉まり、槙野さんの姿が完全に消える。
ご家族の方。
違う。ウチは家族じゃない。
ただ部屋が隣だっただけの、ただの女子大生だ。
案内された待合室のプラスチックの長椅子に、一人で腰を下ろした。
冷房が効きすぎた廊下の空気が、剥き出しの足首を冷やす。膝の上で丸めた指先が、さっき触れた槙野さんの冷たさを覚えていて、小刻みに震えが止まらない。
受付の事務員が、バインダーを持って近づいてきた。
「あの、倒れられた方の保険証はお持ちですか?」
「……持ってないです」
「勤務先や、ご親族の緊急連絡先はご存知でしょうか」
「勤務先は……SEの会社だってことしか知らなくて。ご親族の連絡先も、わかりません」
何ひとつ、知らない。
名前と、部屋番号と、彼が作る味付けの好みしか知らない。
ベランダで話して、ご飯を分け合って、少しだけ特別な関係になれたような気になっていた。
でも、いざ命の境目に立たされたとき、ウチには彼を助けるための何の情報もなかった。
「……すみません。ウチ、本当に……ただの隣人なので。何も、知らなくて……」
掠れた声で絞り出すと、事務員さんは困ったように、けれど気の毒そうに小さく会釈して戻っていった。
責められたわけじゃない。
それなのに、激しい惨めさと無力感で、胃の底が鉛のように重く沈んでいく。
あの白い扉の向こうで、槙野さんが今どうなっているのかもわからない。
自分には、この冷たい椅子に座って、縮こまって震えていることしかできない。
カーディガンの裾を爪が白くなるほど握りしめながら、ウチは膝に顔を埋めた。
こんなに胸が張り裂けそうなのに。
ウチは、ただの隣人だった。




