第8話 金曜日の約束と、鳴り止まないアラート(後編)
いつから、画面の数字が二重に見えるようになったのか。
日曜から月曜に変わるころには、もう時計を確かめる気力も失せていた。
サーバールームの空気は冷え切っているのに酷く乾いていて、目を開けているだけで角膜が擦り切れるように痛む。
まばたきをするたび、まぶたの裏を赤や青の残像がチカチカと走った。
「槙野さん、そこ、伝票番号が一桁ずれてます」
隣の席から乾いた声が飛んできた。
誰の声だったか、数秒かけて思考を手繰り寄せ、ようやく同じチームの先輩のものだと認識する。
「……すみません。直します」
掠れた返事が喉の奥に引っかかった。
喉を潤そうとぬるくなったペットボトルの水を流し込んでも、口内は乾いた障子紙のままだ。
基幹データベースの大規模障害が発生したのは、金曜の夕方だった。
土曜の深夜二時過ぎ、結菜ちゃんへ週末の約束を延期させてほしいとメッセージを送った。
彼女から「了解。無理しないでね」と即座に返信をもらって、張り詰めていた肺の底からほんの少しだけ息が抜けた、はずだった。
その直後、けたたましいアラートが鳴り響いた。
CRCエラー。ストレージの物理破損に伴うパリティ不整合。
叩き起こされ、土曜の夜も、日曜の昼も夜も、ひたすらターミナルに向かい続けた。
三日目ともなると、作業手順をなぞるだけの反射神経だけが稼働し、それ以外の思考はことごとく輪郭を失っていった。
バックアップからの手動ロールフォワード。破損ログの切り分け。欠損したトランザクションデータの泥臭い突き合わせ。
何十万件ものテーブルデータを手作業で照合し、ズレを検知してはスクリプトを走らせ直す。
たった一つのタイプミスで、積み上げた復旧作業がすべて水泡に帰す。
だから何度も確認した。充血しきった目で、同じ数字の羅列を指でなぞり続けた。
それでも指先の感覚は、いつの間にか麻痺していた。
キーストロークの反発を感じない。
指がキーを押しているのか、画面の英数字が勝手に増殖しているのかすら曖昧になる。
手首から先が、自分とは切り離された冷たい義肢になったかのようだった。
「槙野、そこは再実行の前にダンプ取れ」
「はい」
返事をしたつもりだったが、自分の耳には届かなかった。
画面の端が周期的に明滅している。
天井の蛍光灯が切れかけているのかと思って顔を上げると、白い光は均一に落ちていた。
視線をモニタに戻すと、文字列が歪んで滲む。
目を強くこすっても何も変わらない。目の奥に熱した鉄針を押し込まれているような痛みが走り、頭の芯が鉛のように重かった。
眠気という生易しいものではなかった。
眠りたいという欲求すら、とっくの昔にどこかへ摩耗して消えている。
ただ、自重を支えるだけの骨と筋肉の強度が失われていく。
椅子の背もたれに体重を預ければ、そのまま床へ崩れ落ちてしまいそうだった。
座面に深く座り直すことすら恐ろしい。一度でも体の緊張を解けば、二度と立ち上がれないと本能が警告していた。
「水、飲め。少しでいいから」
先輩が無言で置いたペットボトル。
キャップを回そうとするが、指先が滑って噛み合わない。
手のひらはじっとりと冷や汗をかいているのに、指先は氷のように冷え切っていた。
喉を無理やり開いて水を流し込む。
だが水滴は胃に届く手前で喉元に詰まり、空っぽのはずの胃壁が強烈に痙攣した。
せり上がってきた胃液を奥歯を噛み締めて飲み下すと、酸っぱい苦みが舌一面に焼き付いた。
「……大丈夫です」
「そういう声じゃないだろ」
先輩の呆れたような声に、もはや返す言葉も見つからなかった。
自分が大丈夫かどうかなんて、判断する脳の領域はすでに活動を停止している。
月曜の午前五時。
最後に残されたテーブルの整合性チェック結果が、画面にスクロールアウトした。
実行ログを精査し、全件のステータスを確認する。
もう一度、あと一回だけと擦り切れた意識で数字を照らし合わせた。
合っている。
目を閉じ、深く吸って、見開く。数字は動かない。
「……全テーブル、整合性の確認完了しました」
声に出してから、自分が何を報告したのかを理解するまで、ひどく時間がかかった。
「暫定稼働テストも、オールグリーンです」
背後に立っていた部長が身を乗り出して画面を覗き込み、短く鼻を鳴らした。
フロアのあちこちから、吐息のような低い呟きが漏れる。
誰かが小さく息を呑んだ。だが、歓声も拍手も起きない。
そんな余力のある人間は、この部屋のどこにも残っていなかった。
「よし、槙野。もういい、交代の日勤部隊に引き継ぐから今すぐ帰れ」
部長の目は、俺の体調を気遣う色など微塵もなく、ただ疲弊しきった部下のスペックを見限るように冷ややかだった。
「ですが、引き継ぎ書の備考欄がまだ……」
「必要な数値はログに残ってる。お前がこれ以上居座って操作ミスでも出されたら、労務的にも責任問題になるんだよ」
労務。責任問題。
部長の口から平然と出た言葉が、熱を持った耳の奥を通り抜けていく。
「聞こえたな、帰れ。――ただし、明日火曜の朝イチには今回の障害報告書の初版を役員会に出す。夕方まで寝りゃ少しは頭も回るだろ。自宅で仕上げて明日の始業前までに投げておけよ」
……代休の話すら、出なかった。
金曜の夜から月曜の早朝まで、丸三日間の週末をすべてこの無機質な機械の部屋に吸い取られた。
神経をすり減らし、胃液を吐きそうになりながら命を削ってシステムを繋ぎ止めた結末が、これだ。
使い潰されてパフォーマンスが落ちたから放り出され、数時間眠ったらまた通常稼働を強いられる。
「……了解、しました」
言い返すための言葉を組み立てる機能すら、脳内から完全に削ぎ落とされていた。
帰れ。
そう命じられても、安堵や嬉しさなど湧いてこない。
残ったのは、ただただ冷え切った、底の抜けたような虚しさだけだった。
立ち上がろうとした瞬間、膝の関節がガクリと折れかけた。
机のヘリを鷲掴みにして、なんとか上体を持ち上げる。
「槙野さん、電車で寝過ごさないでくださいね」
交代で入ってきた後輩の声が、ガラス越しのように遠い。
「……ああ」
口角を持ち上げようとしたが、頬の筋肉はピクリとも動かなかった。
ロッカールームに入り、指先の震えを抑えながら作業着を脱ぐ。
下に着ていたシャツは冷たい汗で背中にべっとりと張り付いていて、鳥肌が立つほど不快だった。
私用のスマートフォンを鞄から取り出す。
いつ最後に画面を見たのか、記憶の引き出しが錆びついて開かない。
電源ボタンを押した。
液晶は真っ黒なまま、光を灯さない。サイドキーを強く長押ししても、何のバイブレーションも返ってこなかった。
完全なバッテリー切れだった。
「……嘘だろ」
乾ききった指先で、暗転したガラスを虚しく撫でる。
結菜ちゃんに、生きてると送りたかった。
今から帰る、とそれだけ伝えたかった。
金曜の夜以降、彼女から届いた「無理しないでね」というメッセージを最後に、俺は一言も返信できていない。
申し訳なかった。余計な心配をかけたくなかった。
だが、画面は冷たい黒のまま沈黙している。
社内に戻れば充電器くらい借りられたはずだ。
たった数分、同僚に声をかけてケーブルを挿すだけのことが、今の俺にはエベレストを登るほど不可能な作業に思えた。
他人に声をかけ、事情を説明する言葉を喉から絞り出す気力が、完全に枯れ果てていた。
スマホを無造作に鞄へ突っ込み、社屋を後にした。
ビルの自動ドアを抜けた瞬間、月曜の朝の冷気が肺の奥まで突き刺さった。
吸い込んだ空気が冷たすぎて胸の真ん中でせき止められ、喉がヒュッと小さな悲鳴を上げる。
始発の地下鉄に乗り込んだ。
ホームにも車内にも、これから始まる一週間に向かう会社員や学生がまばらに立っている。
眠たそうに目をこする彼らの姿と、自分の体を引き裂くような重力の間には、埋めようのない断絶があった。
目の前のロングシートが空いている。
座ったら、二度と立ち上がれない。
直感がそう告げていた。俺は震える腕を伸ばし、銀色の吊り革を掴んだ。
腕を肩の高さまで持ち上げるだけで、筋肉が小刻みに痙攣する。
掌にじわりと脂汗が滲み、革の輪が滑りそうになる。指を一本ずつ無理やり巻きつけた。
触覚はすでに失われかけていたが、この手を離せばその場で床に崩れ落ちるという確信だけがあった。
ガタゴトと車体が揺れるたび、膝がガクガクと小さく折れる。
正面の窓ガラスに、ぼんやりと男の顔が映っていた。
土気色の皮膚。ひび割れた唇。黒く窪んだ眼窩の奥で、焦点の合わない瞳が濁っている。
窓の向こうにいる幽霊のような男が自分自身だと気付くまでに、数秒の遅れがあった。
目を閉じるな。閉じたら落ちる。
自分に言い聞かせ、まぶたの裏に力を込める。
一駅、また一駅。
車内アナウンスの機械的な音声は耳を素通りし、地名が頭に定着しない。
乗り過ごしたら終わりだ。その一点だけを、壊れたテープレコーダーのように脳内で再生し続けた。
アパートへ帰る。鍵を開ける。靴を脱ぐ。床に倒れる。
それだけだ。その四つの工程だけを完遂すればいい。
最寄り駅で電車を降りた時、プラットホームのコンクリートが斜めに傾いて見えた。
足元だけを凝視しながら階段を一段ずつ下りる。
自動改札を抜けるころには、背中を伝う嫌な汗がじっとりと冷え固まっていた。
駅からアパートまでは、普段なら徒歩十分の平坦な道だ。
だが今の俺には、最初の交差点の信号機すら途方もなく遠い巨塔に見えた。
赤信号のまえで立ち止まる。ただ直立しているだけで、心臓が肋骨を突き破りそうなほど激しく脈打つ。
赤の光が滲んで二重になり、青に切り替わった瞬間を視界が捉えきれなかった。
後から来た歩行者に追い抜かれ、慌てて足を前に出す。
靴底がアスファルトに磁石のように吸い付いて、持ち上がらない。
ふくらはぎの筋肉が引きつり、膝の裏に鋭い痛みが走る。左右の足を交互に出しているはずなのに、歩幅がバラバラでまっすぐ進めない。
呼吸が恐ろしく浅かった。
空気を深く吸い込もうとすると胸が詰まり、喉の奥から酸っぱいものがせり上がってくる。
ドク、ドク、ドク、と耳のすぐ裏で不整脈のようなドラムが鳴り響いていた。
額から流れ落ちた汗が目に入り、強い刺激に顔を歪める。拭おうと上げた右肘が、頼りなく震えた。
道沿いのコンビニエンスストアから、明るい光が漏れていた。
何か水分を補給すべきだ。ポカリスエットでも一本買うべきだ。
頭の片隅でそう理解しているのに、足先は一ミリも店舗の自動ドアへ向かない。
入店する。棚から商品を取る。レジへ運ぶ。財布を出す。支払いを済ませる。
その一連のタスクを想像しただけで、脳のシナプスが焼き切れるような拒絶反応が起きた。
もういい。とにかく部屋へ辿り着くんだ。
それ以外のすべてを思考から削ぎ落とし、ただ足を前に引きずった。
視界の端に、ようやく見慣れた古いアパートの外観が引っかかった。
張り詰めていた緊張の糸が緩んだのか、建物の輪郭が波を打つように激しく揺れる。
外階段の鉄製の手すりが、昇り始めた朝日に照らされて鈍く白んでいた。
一階から二階へ続く、わずか十数段の階段。
それが、底知れない断崖絶壁のように見えた。
手すりにすがりつく。冷えた鉄の感触が、強張った掌に食い込んだ。
腕の力だけで体重を引き上げ、右足を一段乗せる。
一段。
激しく息を吐く。肺が酸素を拒絶して、うまく息が吸えない。
もう一段。
ドクン、と胸の奥で心臓が大きく跳ねた。鼓動が一拍分完全に抜け落ち、直後に強烈な圧迫感が胸を襲う。
視界がぐらりと回転した。
「……っ」
ガツン、と手すりの鉄パイプに額が打ちつけられた。
鈍い痛みが皮膚を突き抜け、その刺激で辛うじて意識が引き戻される。
ここから転落したら死ぬかもしれない。
そんな原始的な恐怖すら、次の足を上げるころには霧散して消えていた。
段を見る。足を乗せる。手すりを引く。
全身の筋力を総動員して、ひとつの動作ごとに意識を集中させなければ、体が前へ進まない。
視界の周辺が、じわじわと黒い靄で侵食されていった。
映画の絞り機能のように、左右の景色が暗く削り取られ、真ん中のごくわずかな円形しか見えない。
手すりを掴む自分の青白い指と、泥で汚れた革靴の先。
それだけを頼りに、最後の一段を踏み越えた。
二階の共用廊下に上がった瞬間、体幹のバランスが完全に崩れた。
手すりから手が離れ、右肩がアパートの外壁に激突する。
コンクリートのザラついた感触が、顔のすぐ横にあった。
一歩。二歩。
二〇一号室。俺の部屋だ。
ドアノブに、見覚えのあるものがぶら下がっていた。
くすんだ布製の保冷バッグ。中身の重みで、持ち手がノブに深く食い込み、少し傾いている。
いつから、そこにあったのか。
週末のいつか、結菜ちゃんが部屋まで運んでくれたのだ。
金曜の夜か、それとも土曜の昼間か。
俺が会社の冷え切ったフロアで、ディスプレイの光に目を焼かれながら泥沼の作業に追われていた間に。
慣れ親しんだはずのそのバッグが、まるで異世界の遺物のように遠く感じられた。
「帰って、きた……」
声に出したつもりが、乾いた呼気が喉を抜けただけだった。
帰ってきた。ここまで辿り着いた。
あとは鍵を出す。鍵穴に差し込み、回して、部屋に入る。
たったそれだけのことなのに、ポケットへ右手を差し入れることすらできなかった。
指が完全に硬直し、鍵の輪郭を掴めない。
肩から鞄を下ろす力すら残っていなかった。
張り詰めていた最後の一本の神経が、音を立ててプツリと切れた。
両膝から、完全に骨が抜き取られたように力が抜ける。
抗う間もなく、その場へ崩れ落ちた。
壁に手をついて支えようとしたが、指先は空を掻き、右肩と腰骨が冷たいコンクリートの床にまともに打ちつけられた。
ドサリと、鈍く重い音が廊下に響き渡る。
「……っ、あ」
肺から残りの空気がすべて絞り出された。
起き上がろうと、床に肘を立てる。だが腕全体がガタガタと激しく震え、自分の体重すら支えきれずに再び床へ沈んだ。
鍵。鍵を出さなきゃいけない。
頭の芯では理解しているのに、自分の手がどこにあるのかすら脳が認識できない。
指先が微かに床を擦る。掌にザラリとした冷たい感触が触れる。
鍵を握っているのか、ただの埃まみれの床を撫でているのか、もう判別がつかなかった。
黒い靄が、視界の残された光を完全に覆い尽くしていく。
ドアノブに掛かった保冷バッグの輪郭がドロリと溶けて滲み、遠くのアパートの室外機が唸る低音だけが、頭蓋骨の内側に反響していた。
「槙野さん……?」
突然、声が降ってきた。
隣――二〇二号室の方向からだった。
結菜ちゃんの声だ。
その事実を認識した瞬間、返事をしなければと唇を震わせた。
「結菜、ちゃん」
形だけは動いた。だが、音にはならなかった。
バダンッ、と激しい勢いで隣のドアが開き、金属がぶつかる音がした。
素足に近い足音が、信じられない速さでコンクリートの廊下を駆けてくる。
近づいてくる振動が、床を通して頭蓋に伝わる。
「槙野さん……!? 嘘でしょ、槙野さんッ!!」
鼓膜を破るような、悲鳴じみた叫び声がすぐ耳元で弾けた。
大丈夫だと、言いたかった。
ちゃんと帰ってきたからと、伝えたかった。
連絡も返さずに、週末を台無しにして、心配ばかりかけてごめんと。
けれど、動かせる筋肉はどこにも残っていなかった。
頬に触れる凍りつくような床の感触も、取り乱した彼女の叫び声も、急速に遠ざかり、薄れていく。
俺の意識は、底の抜けた深い闇の中へ、完全に途絶えた。




