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第10話 救急車と、ただの隣人(後編)

消毒液の匂いがした。


鼻の奥に染みつくような、冷たくて清潔な匂い。そこに規則正しい電子音が重なっている。ピッ、ピッ、ピッ。一定の間隔で鳴る音を聞きながら、俺は重たい瞼をゆっくり持ち上げた。


天井は白かった。見覚えのない照明がぼんやり滲んでいる。喉がからからに乾いて、舌を動かすだけで痛んだ。


左手の甲に、透明な管が刺さっていた。


点滴か。


どうして、こんなところにいるんだ。


頭の中に霧がかかっていて、記憶が途切れ途切れに浮かぶ。朝。駅。アパートの前。足元がふらついて、地面が近づいて――。


そこで、もう一つの記憶がはっきりした。


結菜ちゃん。


視線を横へ向けると、パイプ椅子に浅く腰かけた結菜ちゃんがいた。


膝の上で、両手を強く握りしめている。俯いたままの肩は小さく縮こまり、指先がかすかに震えていた。いつもきれいに整えている髪は乱れ、目元は赤く腫れている。


俺が身じろぎすると、その気配に気づいたのか、結菜ちゃんが弾かれたように顔を上げた。


目が合った。


彼女の瞳が揺れた。驚きと安堵が一瞬だけ浮かんで、すぐに押し込められる。


「……結菜ちゃん」


声が掠れた。喉が痛くて、まともに言葉にならない。


「ごめん、迷惑かけて」


なんとか口元を緩める。笑ったつもりだったが、頬が引きつっただけかもしれない。


結菜ちゃんは、唇を強く噛み締めた。


「……アンタさ、目が覚めて最初に出る言葉がそれなの?」


低く、掠れた声だった。


俺は返事を探した。けれど、何を言えばいいのかわからない。心配をかけたことを謝るのは、間違いなのだろうか。彼女の赤い目を見ていると、そういうことではない気がした。


そこへ病室のドアが開き、白衣の医師が入ってきた。結菜ちゃんは椅子から立ち上がり、ベッド脇に場所を空ける。


「槙野さん、目が覚めましたね。気分はどうですか」


「喉が、乾いて……。あと、胃が痛いです」


「そうでしょうね。検査の結果、重度の過労と極度の脱水症、それに急性胃炎が出ています。倒れるまで、かなり無理を続けていたようですね」


医師の言葉に、俺は曖昧に頷いた。かなり無理をしていた。たしかに、そのとおりだ。


「あと数時間遅れていたら、本当に命に関わっていました。今日はこのまま点滴が落ちきるまで、絶対安静です。自分で起き上がろうとしないでください。水分も、看護師の指示に従って少しずつ取ること。わかりましたか」


「はい……」


返事をした俺の顔を、医師は少し厳しい目で見た。


「仕事のことは考えないでください。いま必要なのは休むことです。いいですね」


「……はい」


医師は結菜ちゃんにも「付き添ってくれていたんですね。ありがとうございました」と声をかけ、点滴の状態を確認してから病室を出ていった。


静けさが戻る。


ピッ、ピッ、ピッ。


さっきまで規則正しくて落ち着くと思っていた音が、急に気になり始めた。自分がどれだけ悪い状態だったのかを、音の一つ一つに数えられているような気がする。


結菜ちゃんは、また椅子に腰を下ろした。さっきよりも少しだけ、俺から離れた位置だった。


「……ずっと、ここにいてくれたの?」


「うん」


「ごめん。ほんとに」


結菜ちゃんは何も言わなかった。


謝ってばかりじゃだめだ。そんなことはわかっている。それでも、彼女に何か言おうとすると、いつも最初に口をつくのは謝罪だった。


看護師が枕元のスマートフォンを手に取り、充電器へつないでくれていた。画面が点灯した拍子に、短い振動が伝わる。


メッセージの通知だった。


結菜ちゃんの目が、俺の手元へ向いた。俺も画面に目を落とす。差出人は、シンク・コア・システムズの黒田部長。


『槙野、少しは寝られたか? クライアントから役員向けに「今日の夕方までに一次サマリが欲しい」と急な突き上げがあった。火曜朝の予定だったが前倒しで対応したい。起きたらすぐ骨子だけでいいからチャットで投げてくれ』


画面の文字を追いながら、俺は無意識に空いている右手を動かしかけた。


今朝、ようやく暫定復旧まで持ち込んだ基幹データベースの障害。俺が帰ったあと、状況はどうなっただろう。引き継ぎは足りていたか。一次サマリの骨子なら、スマホでも書けるかもしれない。


「……返信しなきゃ」


体を起こそうとして、左手の甲の針が引っ張られた。


「PCないけど、スマホで骨子だけでも送れるかな」


その瞬間、ガタッと鋭い音がしてパイプ椅子がきしんだ。


「アンタさ……さっき先生がなんて言ったか、もう忘れたわけ!?」


結菜ちゃんの声が、張り詰めた糸のように尖っていた。


俺は動きを止めた。彼女は立ち上がり、画面を見つめる俺の手元を、信じられないものを見るような目で見つめている。


「絶対安静、仕事のことは考えるなって言われたばっかでしょ! 点滴打たれてるのに、まだ仕事の心配してんの!? 救急車で運ばれたんだよ!? 死にかけたんだよ!?」


「いや、でも……」


「……今朝帰ったばかりの人間に、昼にはもう仕事しろって言ってくるような連中のために、なんでアンタが命削らなきゃいけないわけ!?」


言葉が胸に刺さった。


反論はできない。黒田部長が理不尽なことを言っているのもわかる。帰宅して間もなく、病院のベッドにいる俺に仕事を頼んでくるのは、たしかにおかしい。


でも、俺がやらなければ仕事は止まる。障害対応の細かい経緯を、俺ほど把握している人間は社内にいない。そう考えれば、返事をするのは当然だった。


その当然を、口にする。


「でも、俺の仕事だし……。突発のシステム障害だから不可抗力なんだ。結菜ちゃんには関係ない話だし、巻き込んですまない」


言ってから、しまったと思った。


遅かった。


結菜ちゃんの表情から、熱がすっと消えていった。さっきまで必死に押さえていた怒りが、行き場をなくして顔から抜けていく。


代わりに、頬を一筋、涙が落ちた。


「……そうだよね。『関係ない』よね」


「結菜ちゃん、違う。そういう意味じゃなくて」


「ウチさ、毎晩ご飯渡して、ちょっと仲良くなって、アンタの生活を支えてる気になってた。いい気になってたんだよ」


涙を拭おうともせず、結菜ちゃんは続けた。


「でも結局、アンタが本当に壊れそうな時、ウチのご飯なんて何の意味もなかった。土曜日も日曜日も、ドアの前で冷たくなってただけ」


土曜日。日曜日。


思い出す。玄関の前に置かれていたタッパー。受け取れなかった食事。あの頃の俺は、画面の向こうの数字とログを追い続けて、ドアを開ける余裕すらなかった。


「止められないし、助けられないし、病院の書類一枚すら書けない」


結菜ちゃんの声が、かすかに裏返る。


「……ウチ、ただの隣人じゃん。アンタの人生に何の足しにもなってない、ただの余計なお世話だったんだよ」


「違う、そうじゃない!」


身体を起こそうとした。


点滴の針が突っ張り、手の甲に鋭い痛みが走る。息が詰まり、腕に力が入らない。ベッドの柵を掴むこともできず、俺はシーツを握った。


「結菜ちゃん、待って。そういうことじゃなくて、俺は――」


「もういいよ」


結菜ちゃんは涙を拭った。指で乱暴に目元を押さえ、それから一歩、後ろへ下がった。


止めなきゃいけない。違うと伝えなきゃいけない。ご飯がどれだけ助けになっていたか。玄関前に置かれたタッパーを、どれだけありがたいと思っていたか。


言うべきことはいくつも浮かぶのに、どれも喉の奥で絡まって出てこなかった。


「もう、いい気になってタッパー押し付けるのやめる」


「結菜ちゃん……」


「お大事に、槙野さん」


その呼び方に、身体の奥が凍った。


さっきまでの「アンタ」ではない。いつもの、少しだけ他人行儀で、でもどこか気安さのあった「槙野さん」でもない。間にあったものを一つずつ畳んで、きれいに返されたような響きだった。


結菜ちゃんは病室のドアへ向かった。


「待ってくれ」


声は出た。けれど弱く、掠れていて、彼女の背中を引き留めるには足りなかった。


ドアが開く。結菜ちゃんは振り返らなかった。


閉まる音は、小さかった。


病室に残ったのは、消毒液の匂いと、点滴の落ちる音と、モニターの電子音だけだった。


ピッ、ピッ、ピッ。


俺は動けない腕を見つめた。刺さった針の周りが赤くなっている。結菜ちゃんを追いかけることも、謝ることも、今はできない。


いや、身体が動いたとしても、何を言えばよかったのか。


俺は仕事を優先しようとした。結菜ちゃんが怒った。その理由を、俺はわかっているつもりだった。なのに最後には、彼女には関係ないと線を引いた。


気遣ったつもりだった。


巻き込まないようにしたつもりだった。


けれど、あの一言で、彼女が毎晩持ってきてくれたものも、俺の部屋の前で立ち止まってくれた時間も、彼女がここまで付き添ってくれたことも、俺自身の手で「関係ない」と片づけてしまった。


結菜ちゃんの涙が、頭から離れない。


ご飯が何の意味もなかった。


そんなはずはない。あのタッパーがなければ、俺は何度も食事を抜いていた。あの声がなければ、自分の生活が壊れていることに気づくのは、もっと遅かったかもしれない。


それを伝えたかった。


でも、彼女はもう出ていった。


言葉だけで「感謝してる」なんて言っても、何一つ届かない。俺自身がこの生き方を改めない限り、結菜ちゃんの前に立つ資格すらない。


点滴は、まだ落ちきらない。


俺はシーツを強く握りしめたまま、白い天井を見つめていた。

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