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第11話 定時退社のチャイムと、もう一度の約束(前編)

退院してアパートに戻った日、二〇一号室のドアノブには何も掛かっていなかった。


いつもなら、帰宅すると真っ先に目に入った保冷バッグ。中には、結菜ちゃんが「作りすぎたから」と言って押しつけてくるタッパーが入っていた。俺がその言葉を疑いながらも受け取って、何度も助けられてきたものだ。


バッグはきれいに片付けられていた。ドアノブに、取り忘れた袋の持ち手すら残っていない。


隣の二〇二号室からも、物音は聞こえなかった。


退院したのは月曜日の夕方だった。翌日の火曜日は、医師の指示もあって正式に休みを取った。食べて、寝て、少し歩いて、また寝た。身体を休めることだけに集中した一日だった。


水曜日から出勤するつもりだと会社に伝えたものの、休みのあいだ、何度も隣のドアを見た。謝りに行きたいとは思った。顔を見て、言葉を尽くしたいとも思った。


けれど、あのときの結菜ちゃんの表情を思い出すたび、玄関の前で足が止まった。


「関係ない」


口にした瞬間の感触は、今でも生々しく胸に焼き付いている。


あれは咄嗟の失言などではない。相手を巻き込みたくない、心配をかけたくないという身勝手な気遣いの皮をかぶって、自分を支え続けてくれた結菜ちゃんの善意を真正面から拒絶した、傲慢な一言だった。


俺は自分の部屋に入り、灯りをつけた。いつもと変わらない狭い部屋が、ひどく静かに感じられた。


流し台には、使ったマグカップがひとつ。テーブルの隅には、退院の日に病院から持ち帰った書類。何もかも、ひとりで暮らす人間の部屋としては普通の光景だ。


ただ、今までこの部屋の中には、普通のひとり暮らしにはないものがあった。結菜ちゃんの料理だ。


夕食をまともに用意する余裕がない日も、冷蔵庫にタッパーがあれば食べられた。味噌汁を温める気力すらない夜も、レンジで温めれば、身体に入るものがあった。


それを、俺は当たり前のように受け取っていた。


今回の基幹データベース障害は、突発的な事故だった。誰か一人の判断や作業ミスで起きたものではなく、事前に防ぎきれなかった障害だ。そこは、病院で一人になってから何度も考えた。


でも、倒れた原因をその事故だけに押しつけるのは違う。


あの日までの俺は、誰かの作業が遅れていると聞けば引き取り、手が足りないと聞けば残業し、曖昧な依頼でも「分かりました」と答えていた。障害が起きる前から、余力なんてなかった。睡眠も、食事も、休みの日に何かをする気力も、少しずつ削っていた。


そこへ、避けようのない事故が来た。


倒れたのは、障害が起きたからだ。けれど、あの一件で命に関わるほどまで崩れたのは、普段から自分の許容量を使い切っていたからだ。


テーブルの前に座り、両手を組んだ。右手の手首には、点滴のテープを剥がした跡がまだ薄く残っている。


結菜ちゃんのご飯が無意味だったわけじゃない。むしろ、あれがなかったら、俺はもっと前に倒れていた。


自分で食べることも、休むことも後回しにしてきた俺の生活を、結菜ちゃんの料理が何度も引き戻してくれていたのだ。


そんな相手に、俺は「関係ない」と言った。


自分の生活の脆さを誰かに支えさせておきながら、都合が悪くなると壁を作って突き放す。そんな卑怯な真似をしておいて、弱っていたから仕方がないなどと、自分に言い訳できるはずがなかった。


「……ほんと、何やってんだよ」


呟いても、返事はない。


隣の部屋からも、何も聞こえなかった。


水曜日、俺はシンク・コア・システムズのオフィスに戻った。


エレベーターを降りると、フロアの空調音とキーボードを打つ音が耳に入ってきた。休んでいたのは二日だけなのに、ここまで戻ってくるのがずいぶん久しぶりに感じた。


「槙野さん、本当に無理しないでください!」


席に着く前に、佐藤が駆け寄ってきた。隣にいた田辺も、少し遅れて頷く。


「顔色、まだ完全じゃないですよ。何かあったらすぐ言ってください」


「ありがとう。今日は休み明けだし、無理はしない」


そう答えたら、佐藤はまだ心配そうな顔をしていた。いつもの冗談めいた調子ではない。俺がいない間に、周りも気を揉んでくれていたのだろう。


自分が勝手に抱え込んでいた仕事は、周りに何も影響を与えないものじゃなかった。俺が倒れたことで、かえって皆に心配と負担をかけた。


それを思い出して、胸の奥が少し重くなる。


だからといって、また全部を引き受ければいいわけじゃない。今日からは、そこを間違えないようにしようと思った。


午前中は休みの間に届いていた連絡を確認し、午後から障害報告書の仕上げに取りかかった。発生時刻、影響範囲、検知の経緯、復旧作業、再発防止策。事実関係をひとつずつ確かめ、関係部署から届いていた記録とも照合する。


集中していると、余計な考えが薄れていった。俺が今やるべき仕事に手を動かす。その範囲に限れば、迷いはなかった。


定時までに報告書を完成させ、黒田部長のところへ持っていく。


「確認をお願いします。基幹データベース障害の報告書です」


部長は紙を受け取り、何枚かめくってから、ふっと息をついた。


「助かった。さすがだな。状況がよくまとまっている」


「ありがとうございます」


「じゃあ、これに続けて頼みたいことがあるんだが」


その言葉のあとに何が来るか、俺には分かった。胸の奥が、反射的に身構える。


「遅れていた他チームの設計レビューと、来週のリリース判定の巻き取りも頼めるか? お前がやってくれないと、進行が滞るんだ」


部長の声には悪意がなかった。困っていることを伝え、頼れる相手に頼んでいる。今までの俺なら、それを理由に引き受けていた。


「分かりました」と答えれば、部長は助かる。チームも進む。俺は少し遅くまで残って、なんとか形にする。


そして、その次も同じように頼まれる。


いつもの流れを、頭の中でなぞった。


今までなら、考える前に頷いていた。けれど、俺はそこで首を横に振った。


「申し訳ありませんが、他チームの遅れの無制限な巻き取りはお引き受けできません」


部長の手が止まった。


「……槙野?」


「障害報告書の確認には対応します。ですが、設計レビューとリリース判定まで、今の担当業務に追加で持つのは難しいです」


部長は書類を机に置いた。眉間にしわが寄る。


「お前が定時で上がったら、残りの案件はどうするんだ」


圧をかける意図があったのか、それとも単純な疑問だったのか。どちらにしても、答えることは決めていた。


「担当チームで優先順位をつけて、必要なら人員を調整していただくべきだと思います」


部長が黙る。俺は言葉を探しながら、なるべくゆっくり続けた。


「障害対応のような突発事態には、エンジニアとして全力を尽くします。ですが、日常的なリソース不足を、特定の個人の残業で埋め合わせるのは健全ではありません」


言い終えても、部長は何も言わなかった。俺は視線を落とさないように気をつけた。


「自分の許容量を超えて引き受け続けた結果、今回みたいに現場に穴を開けることこそ、無責任だと痛感しました。これからは自分の主担当業務に集中して、定時内で最大のパフォーマンスを出します」


自分の口から出た言葉は、思っていたよりも落ち着いていた。


俺は会社を辞めたいわけじゃない。目の前の仕事から逃げたいわけでもない。必要な仕事を見極めて、自分が責任を持てる範囲で力を尽くしたい。そのために線を引くのは、手を抜くこととは違う。


部長は椅子にもたれ、腕を組んだ。しばらくして、息を吐く。


「……分かった。レビューは担当チームに戻す。リリース判定も、こっちで人を探す」


「ありがとうございます」


「報告書の確認は今日中にしておく。体調が戻るまでは、無理な残業はするな」


最後の一言は、少し気まずそうだった。俺は短く頷いた。


席に戻ると、佐藤と目が合った。彼は何か聞きたそうにしていたが、俺が小さく笑ってみせると、ほっとしたように自分の画面へ向き直った。


それから金曜日まで、仕事は思ったよりも静かに進んだ。


依頼が来れば、まず期限と優先度を確認した。自分の担当外のものは、担当部署へ返す。必要なら、何をいつまでに対応できるかを伝える。誰かに嫌な顔をされることもあったが、それで仕事が止まるなら、止まる理由を皆で共有すべきだった。


金曜日の十七時三十分。


定時退社を告げるチャイムが、フロアに鳴り響いた。


音が流れると、周囲の席で椅子が軋んだ。電話の声が途切れ、何人かが時計を見る。まだ残っている人もいたが、俺の今日の担当業務は終わっていた。


画面の上で保存を確認し、PCをシャットダウンする。机の上を片付け、鞄を手に取った。


「槙野さん、もう帰るんですか?」


向かいの席から田辺が声をかけた。驚いた顔をしていたが、責めるような響きはなかった。


「うん。今日はここまでにする」


「そっか。お疲れさまです」


「お疲れ」


フロアを出るとき、部長の席が視界に入った。部長は手元の書類に目を落としていたが、俺が通ると顔を上げた。


軽く会釈を交わして、俺はそのままエレベーターに乗った。


ビルの外に出ると、空には柔らかな夕暮れが広がっていた。


雲の端が少しだけ赤く染まり、通りを走る車の窓に光が反射している。歩道には、帰宅する会社員や買い物帰りの人が行き交っていた。駅へ向かう人の流れから少し外れ、俺は立ち止まって息を吸った。


仕事を終えたあとの空気は、いつもこんな時間にもあるものだったのか。


何ヶ月ぶりだろう。定時に会社を出て、明るさの残る外を、自分の足で歩く。誰かの予定に間に合わせるためでも、溜まった仕事を片付けるためでもない。


ただ、自分の生活へ帰るために歩いている。


そんな当たり前のことが、少し不思議だった。


駅前のベンチに座り、鞄を膝に置いた。スマホを取り出す。連絡先の中から、結菜ちゃんの名前を開く。


指が止まった。


謝りたい。話したい。けれど、こちらが話したいからといって、結菜ちゃんに応じる義務はない。病院での一言で傷つけたのは俺だ。急に食材を買って隣へ押しかけるようなことをしたら、また自分の都合を押しつけるだけだ。


メッセージを送る。それだけでも、返事を求める形になってしまう。


画面に文字を打ち込んだ。


『結菜ちゃん、病院で「関係ない」と言ってしまって、本当にごめん。あの言葉で傷つけたことを、ちゃんと謝りたいと思っています。』


そこまで打って、読み返した。


謝りたい、というのは俺の希望だ。結菜ちゃんが許すかどうかは別の話だ。俺はそこを急いではいけない。


続ける。


『自分の働き方と生活を見直しました。今まで、周りの仕事を抱え込んで、自分のことを後回しにしていました。結菜ちゃんのご飯にも、たくさん助けられていたのに、あんな言い方をしてしまった。ごめんなさい。』


それを読んで、また指が止まった。


「助けられていた」と伝えるのは本心だ。けれど、これでは結菜ちゃんの罪悪感を刺激して、自分のもとへ戻ってくるよう暗に求めているだけではないか。許されたいという自分のエゴを、反省の言葉で飾り立てているだけではないのか。


何度も指を動かし、消しては書き直した。


ただ事実と、謝罪と、相手に選択肢を委ねる言葉だけを残す。


『返事は急がなくて大丈夫です。もし許してもらえるなら、もう一度だけ顔を見て話せないでしょうか。難しければ、そう言ってください。』


最後に、もう一度最初から読んだ。


言い訳になっていないか。返事を急かしていないか。自分の寂しさを、相手に埋めさせようとしていないか。


完璧な文面かどうかなんて、分からない。ただ、謝罪の言葉を送ることから逃げたくはなかった。


俺は親指を送信ボタンの上に置いた。


夕暮れの街には、人の声と車の音が絶えず流れている。隣のベンチでは、学生らしい二人が笑いながらスマホの画面を覗き込んでいた。


俺は息を吐き、ボタンを押した。


メッセージはすぐに送信された。画面の中に、既読の表示はまだない。


スマホを握ったまま、俺はその小さな画面を見つめていた。返事が来るかどうかは、分からない。


それでも、送った言葉に責任を持つのは、ここからだ。

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