第5話 スーツの男と、真夜中の缶ビール(前編)
月曜日の夜、帰宅したのは日付が変わる少し前だった。
玄関で靴を脱ぎ、ネクタイを緩める。いつもなら、そのままソファに倒れ込みたいところだ。けれど、今夜の俺にはひとつだけ楽しみがあった。
冷蔵庫を開けると、透明な保存容器が並んでいる。照り焼き、きんぴら、煮卵。日曜日に結菜ちゃんと一緒に作った、俺の一週間分の作り置きだ。
電子レンジに照り焼きを入れて、スイッチを押す。温まるのを待つ間に、炊飯器の残りご飯を茶碗によそった。
レンジが鳴る。容器の蓋を開けた途端、甘辛い匂いが部屋に広がった。
「……いいなあ」
誰に聞かせるでもなく呟いて、箸を取る。
照り焼きは、温め直しても柔らかかった。タレの染みたご飯を口に運ぶと、空っぽだった胃がようやく落ち着く。煮卵を半分に割ると、中まで味が染みていた。
日曜の台所で、結菜ちゃんは「これ、冷凍するやつと冷蔵で持つやつ分けとくから」と、手際よく容器を並べてくれた。俺は言われた通りに野菜を切ったり、鍋を洗ったりしただけだ。
あの時間は楽しかった。誰かと台所に立つのが久しぶりだったから、というのもあるのだろう。
食べ終わると、流しに食器を運んだ。普段の俺なら、翌朝まで置いてしまうことも多い。でも今夜は、食器を洗って、使った保存容器を軽くすすぐくらいの余力があった。
腹が満ちている。それだけで、身体の重さが少し違う。
寝る前、いつもなら胃のあたりに残っていたじくじくした痛みも、今日はほとんど気にならなかった。
ちゃんと飯を食って寝る。
それだけのことが、案外ちゃんと効くものらしい。
翌日の火曜日も、仕事は遅くまで続いた。
帰宅したのは、やはり日付が変わる前。洗濯機を回す気にはなれなかったけれど、冷蔵庫の中身はまだ十分に残っていた。
今度はきんぴらと煮卵を温める。きんぴらは少し歯ごたえがあり、煮卵の黄身は箸を入れるとほろりと崩れた。
テーブルに向かい、スマートフォンで明日の予定を確認しながら食べる。仕事の通知が二件来ていたが、食べ終わるまでは見ないことにした。
たった十五分ほどのことだ。
それでも、画面を見ずに食事をする時間があると、頭の中まで少し静かになる。
胃の痛みは軽い。朝のだるさも、いつもよりましだった。階段を上がるとき、身体が鉛みたいに重い感じもなかった。
「食事って大事なんだなあ」
当たり前のことを、二十代も後半になってから知る。
それが少し情けなくて、少しだけ笑えた。
水曜日。週の半ばに差しかかったシンク・コア・システムズのオフィスには、朝から妙な緊張が漂っていた。
自分の担当する運用案件で、予定外の障害が起きたわけではない。火元は別のチームだ。先週リリースした機能の一部で、顧客データの処理が遅れているらしい。
午前中の定例会議で、その話が出た。
「現象は確認できてるんですけど、再現条件がまだ絞れてなくて」
担当チームのリーダーが、共有画面を示しながら言う。説明は続いたが、スライドの中には、原因の切り分けも暫定対応の手順も見当たらなかった。
午後になっても、会議室の予約は埋まったままだった。担当者たちは対策を練っているようだったが、現場の問い合わせは増えていく。
俺の席にも、チャットの通知が来た。
『槙野さん、ログ確認を手伝ってもらえませんか?』
送り主は、別チームの若手だった。困っているのは伝わる。俺は自分の作業を止めて、まずログの置き場とエラーの発生時刻を確認した。
調べ始めると、思ったより厄介だった。処理を呼び出す順番が複雑で、ログの粒度も十分ではない。原因を絞るには、関連する設定と直近の変更履歴も見ておきたい。
そこまで手をつけたところで、先輩の坂上さんが俺の席にやって来た。
「槙野、これ急ぎなんだけどお前しか頼めなくてさ」
手には、別の案件の設計書があった。俺が確認する予定ではなかったものだ。
「今日の夕方までにレビューが欲しいんだ。こっちは先方に返す約束しちゃってて」
「坂上さんの担当分ですよね?」
「そうなんだけどさ。別件の打ち合わせが詰まってて、全然見られてなくて。槙野ならこのあたり詳しいじゃん」
坂上さんは申し訳なさそうに眉を下げていた。けれど、机の端に置いたスマートフォンは何度も光っていたし、彼はさっきまで別の人と雑談をしていた。
俺は設計書を受け取らずに、目の前のログへ視線を戻した。
「今、他チームの障害対応を手伝っていて」
「聞いたよ。だから、それが片付いたらでいいんだ。巻き取ってくれたら助かる」
「夕方まで、ですか」
「うん。まあ、どうせ今日は少し残るだろ?」
軽い調子だった。断られるとは思っていない声でもあった。
そう言われると、反射的に言葉を探してしまう。自分の作業もある。障害対応がいつ終わるかは分からない。坂上さんが引き受けたレビューなのだから、本人がやるべきだ。
そこまで考えて、口を開きかけた。
けれど、坂上さんの顔には、困ったというより「誰かに渡せてよかった」という安堵が浮かんでいた。
「……分かりました。ログの確認が終わったら見ます」
「助かるよ。さすが槙野」
坂上さんは設計書を置いて、すぐに自分の席へ戻った。
断れば角が立つ。
引き受ければ、少なくとも今日は波風が立たない。
そう考えてしまう自分の癖は、分かっていた。分かっていても、変えるのは簡単じゃない。頼まれた仕事を断って、あとで「あいつは協力してくれない」と言われるのも面倒だった。
俺が残ればいい。
いつもの答えに、いつものように落ち着いた。
結局、障害の原因を絞り込めたのは夕方を過ぎてからだった。設定値の組み合わせが原因らしいと分かったものの、再発防止の確認項目をまとめる仕事が残った。
その横で、坂上さんの設計書を開く。
レビューを終えてコメントを返した頃には、他チームのメンバーはすでに退勤していた。坂上さんはまだ社内にいたが、客先との会議を終えると「助かった」とだけ言って、先に帰っていった。
俺は自分の担当分に戻った。昼の予定はとっくに消えている。夕食を食べるタイミングも逃していた。
冷蔵庫に作り置きがある。
そのことを思い出すと、少しだけ気持ちが落ち着いた。今日は帰ったら何か食べられる。そう思えるだけで、空腹に追い立てられる感じは違う。
だが、その日の仕事が片付いたわけではなかった。
翌日の午前中、障害対応の報告資料をまとめていたところに、また別の依頼が来た。今度は、以前から進めている社内システムの移行作業だ。
「この確認、今週中に頼める?」
チームのリーダーは、俺の画面をちらりと見てから言った。
「今週は障害対応の報告も残っています」
「分かってる。だから、優先順位はこっちで調整するよ。まず確認だけでも進めておいて」
リーダーはそう請け負ったものの、具体的にどのタスクを先送りにしていいのかは指示してくれなかった。結局、どれも締め切りを落とすわけにはいかず、全部を少しずつ同時並行で進める羽目になる。現場への実質的な丸投げだった。
俺は曖昧に頷くしかなかった。
木曜日も、退勤時間はずるずると後ろへずれた。社内チャットの通知が止まらず、問い合わせの返事をしているうちに、次の確認事項が増えていく。
気づいた頃には、フロアの照明が半分ほど落とされていた。空調の音がやけに大きく聞こえる。何人か残っていた社員も、ひとり、またひとりと席を立った。
俺が会社を出たのは、日付が変わってからだった。
駅からアパートまでの道を歩いているうちに、何時に帰るつもりだったのか、考えるのをやめた。スーツの上着が重い。ワイシャツの襟が首に擦れる。目の奥は熱を持ったように痛み、右肩から背中にかけて、まるで鉄板でも入っているかのように重く強張っている。
それでも、前みたいに空腹でふらつくことはなかった。
冷蔵庫に、食べるものがある。
それが少し救いだった。
アパートの階段を上がり、二〇一号室の前で鞄を持ち直す。ドアノブに、見慣れない保温容器が掛かっていた。
透明な袋に入った、丸い容器。蓋には付箋が貼ってある。
『汁物。温めて飲みなよ。結菜』
短い文字を見て、思わず笑ってしまった。
毎晩、俺が遅く帰るのを知っているからだろうか。夕方に、いつの間にか掛けていってくれたらしい。
礼は明日でもいい。でも、容器をこのまま外に置いておくのも気が引けた。俺は袋を持ち上げ、鍵を出そうとした。
そのとき、隣の二〇二号室のドアが開いた。
「あ」
出てきた結菜ちゃんは、片手に小さなゴミ袋を持っていた。寝る前にゴミを出すところだったのか、髪はざっくりと後ろでまとめられている。部屋着の上に薄いカーディガンを羽織っていた。
「結菜ちゃん。今日もタッパーありがとう。汁物まで、わざわざ――」
「槙野さん」
俺の言葉を遮るように、結菜ちゃんが呼んだ。
声の調子がいつもと違った。
結菜ちゃんは、俺の顔をじっと見ていた。目のあたりから頬、緩めたネクタイ、よれたスーツへと視線が動く。いつもなら、何かひとつは軽口を挟むはずなのに、今は何も言わない。
「……どうしたの?」
「昨日も今日も、この時間だよね」
廊下の灯りが、結菜ちゃんの眉間に浅い影を作っていた。
「まあ、ちょっと仕事が立て込んでてさ」
「昨日もそう言ってなかった?」
「そうだったかな」
「だったかな、じゃないでしょ」
口調はきっぱりしている。けれど、怒鳴っているわけではなかった。むしろ、静かだからこそ、返事に困った。
「でも、大丈夫だよ。作り置きのおかげで、ちゃんと食べてるし。今も汁物まで用意してくれて、助かるなあ」
できるだけ柔らかく笑ってみせた。
結菜ちゃんは、俺の笑顔に合わせてくれなかった。
「何が大丈夫なの?」
その声が、廊下に響いた。
「見れば分かるじゃん。顔、真っ青だよ。目だってひどいし、肩も上がってる。アンタ、また無茶な仕事押し付けられたんでしょ」
「いや、まあ……ちょっと手伝いが増えただけで」
「手伝い?」
「他のチームの対応とか、レビューとか。いつものことだよ」
「いつものことにしてるから、こうなってるんじゃん」
結菜ちゃんの指が、ゴミ袋の持ち手をきゅっと握った。
「アンタさ、なんでそうやって何でも引き受けちゃうわけ? ちゃんと断りなよ!」
初めて見る顔だった。
普段の結菜ちゃんは、さっぱりしていて、言いたいことを遠慮なく言う。けれど、それはいつも、少し笑いを含んだ言い方だった。
今は違う。口元が固く、目には真剣な怒りが浮かんでいる。
俺は、返す言葉を見つけられなかった。
廊下の壁際には、回収しようとした保温容器がまだぶら下がっている。結菜ちゃんの手には、ゴミ袋。俺の手には、鞄と鍵。
たった数歩の距離なのに、俺はその場に立ち尽くしていた。




