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第4話 空のタッパーと、日曜日のスーパー(後編)

部屋に戻ってから、財布とエコバッグを持って玄関を出るまで、たいして時間はかからなかった。


俺が鍵を閉めていると、隣のドアが開く。結菜ちゃんは薄手のパーカーにデニムという、近所へ買い物に行くのにちょうどいい格好をしていた。


「お待たせ。卵、まだ残ってるといいんだけどね」


「特売だもんな。売り切れてたら困る?」


「困る。今週の献立がちょっと崩れるじゃん」


結菜ちゃんはそう言って、駅の方へ早足で歩き出した。


俺も隣に並ぶ。前までなら、少し後ろを歩いて「佐伯さん」と呼びかけていた気がする。今は「結菜ちゃん」と呼ぶことになっていて、敬語も抜けた。


変わったのは呼び方だけのはずなのに、並んで歩く距離が前よりほんの少し近い。肩が触れそうというほどではない。けれど、以前なら気にしていた隙間が、今は自然に埋まっていた。


気恥ずかしいような、落ち着くような。自分でもどっちなのかよくわからない。


午後の光は柔らかく、道沿いの植え込みにまだ昼の熱が残っている。日曜の住宅街には、子どもの声や自転車のブレーキ音がところどころ混じっていた。平日の帰宅時に聞く音とは違って、どれも急かしてこない。


「槙野さん、何ぼーっとしてんの。スーパー、こっち」


「わかってるって。ちょっと日曜の空気を味わってただけだよ」


「なにそれ。疲れすぎて休日の歩道に感動してんの?」


「そこまでは言ってない」


「じゃ、早く歩きなよ。卵がなくなるよ」


結菜ちゃんは振り返りもせず、歩幅を少しだけ大きくした。俺は笑って、その後を追った。


駅前のスーパーは、日曜の午後らしく混んでいた。自動ドアを抜けたところから、買い物カートの車輪が床を転がる音と、レジの呼び出し音が聞こえてくる。入口近くには、山積みのキャベツと特売の洗剤。惣菜売り場からは揚げ物の匂いが漂ってきた。


「まず卵ね。はい、カゴ係」


「はいはい」


結菜ちゃんは迷いなく青果コーナーを抜けて、卵売り場へ向かった。俺がカゴを持って追いつく頃には、彼女はパックの賞味期限を見比べている。


「これと、こっち。今日買うなら、こっちの方が期限長いね」


「そんなに違うのか」


「二日くらい。作り置きするんだから、そういうの見とくの」


卵を一パック、慎重にカゴの端へ置く。すぐ隣で別の客がパックを持ち上げたので、俺は卵を落とさないよう、野菜を入れる場所を空けた。


「ゲット! ほら槙野さん、みりん取って。そっちの安いやつじゃなくて、ちゃんと本みりんって書いてあるやつね」


結菜ちゃんが調味料の棚を指さす。棚には大きさも値段も違う瓶が並び、似たようなラベルが続いていた。


「これか?」


「それはみりん風調味料。こっち」


「ああ、ほんとだ。本みりんって書いてある」


「料理酒とかしょうゆもそうだけど、値札だけ見てると間違えるんだよね」


「勉強になるな」


「覚える気があるならね」


俺は言われた瓶をカゴへ入れた。結菜ちゃんはすぐに次の売り場へ向かう。豆腐、鶏もも肉、ごぼう、大根。買うものが決まっているらしく、迷う時間がほとんどない。


ごぼうは太さを見て一本を選び、鶏肉はパックの中の脂身を確かめてから手に取る。大根は葉の切り口を見て、結局、半分のものではなく一本を選んだ。


「それ、一本使い切るのか?」


「浅漬けにする分と、味噌汁に入れる分。余ったら煮物でもいいし」


「今週の分、結構な量だな」


「アンタの冷蔵庫、空いてるでしょ」


結菜ちゃんは、当然みたいに言った。


俺の冷蔵庫には、麦茶とドレッシング、いつ買ったか少し曖昧なチーズくらいしか入っていない。空いているどころか、棚が余っている。そこを知っていて言っているのだろう。


買い物中、結菜ちゃんは何度か俺に指示を出した。カゴを持つ位置、袋詰めのときに卵を上へ置くこと、鶏肉のパックを傾けないこと。どれも細かいけれど、言われてみれば全部その通りだった。


会社では、俺の仕事はたいてい決められた手順を守ることだ。シンク・コア・システムズの開発現場では、確認を怠ると後で面倒なことになる。なのに、食料品の買い物ひとつになると、俺は驚くほど目が利かない。


「料理って、買うところから始まってるんだな」


「当たり前じゃん。作るもの決めずに適当に買うと、使いきれなくて困るでしょ」


「たしかに。俺は買ったものを使い切れずに困る側だ」


「それは困る側じゃなくて、ちょっと気をつける側」


「厳しいな」


「そのくらい言わないと、アンタ、またコンビニのおにぎりだけで済ませるでしょ」


言い返せない。結菜ちゃんは俺の返事を待たず、カゴの中をざっと見て、足りないものがないか確かめた。


レジへ向かうと、前には買い物カゴがいくつも並んでいた。結菜ちゃんは最後にもう一度、買うものを確認する。俺はその隣で、カゴを床に置かずに持ち続けた。


「重くない?」


「これくらい平気だよ」


「じゃ、レジ済んだら袋はお願いね。卵あるから、あんまり振らないで」


「わかった」


会計を済ませると、結菜ちゃんは袋詰め台で手際よく品物を分けた。重い根菜や調味料を下へ、肉や豆腐をその隣へ。卵は最後に、いちばん上へ置く。


袋の持ち手を俺が受け取ろうとすると、結菜ちゃんは一瞬だけこちらを見た。


「そんなに持たなくてもいいよ。こっちの袋、ウチが持つから」


「いいよ。年上なんだからこれくらい持たせろよ」


「ふーん、頼もしいじゃん」


いつもの調子で言いながら、結菜ちゃんの口元は少し緩んでいた。


俺は卵の入った袋を片手で水平に保ち、もう片方には調味料や野菜の袋を持つ。彼女は軽い袋をひとつだけ持ち、空いた手でエコバッグの口を押さえた。


スーパーを出ると、外の光は少し傾き始めていた。買い物袋の重みが腕に食い込む。その感覚は、会社から持ち帰るノートパソコンの重さとは違っていた。中身がわかる。今夜の食卓や、明日以降の弁当になるものが詰まっている。


「卵、無事?」


「大丈夫。割れてないよ」


「帰ったらすぐ冷蔵庫ね」


「わかったって」


アパートまでの短い道を、今度は少しだけゆっくり歩いた。買い物の段取りが済んで、急ぐ理由がなくなったからかもしれない。結菜ちゃんは袋を持つ俺の歩調に合わせていた。


部屋へ戻り、買ったものをそれぞれの冷蔵庫へしまう。俺が卵を棚へ入れ、みりんを調味料の隅に置いた頃、結菜ちゃんは自分の部屋から大きなタッパーの袋を抱えて戻ってきた。


「ねえ、槙野さんの部屋の台所、少し借りていい?」


「台所? もちろんいいけど」


「ついでに今週分のおかず、アンタの冷蔵庫にも仕込んどくから」


「俺の分も?」


「そう言ったじゃん。空いてるし、作りすぎるし。ちょうどいいでしょ」


結菜ちゃんは、調味料の小瓶や保存容器を抱えている。断る理由はなかった。俺は玄関を開けて、道を空ける。


「どうぞ。狭いけど」


「知ってる。何回か見てるし」


何回か、という言葉に、俺は少しだけ考えてしまった。彼女がこの部屋にいるのは、今日が初めてじゃない。荷物を運んでもらったときも、玄関先で少し話したときも、結菜ちゃんはここを見ている。


ただ、こうして自分の台所に立つのは初めてだ。


俺の部屋のキッチンは、一人暮らし用の小さなものだ。調理台はまな板を置けばほぼ埋まり、コンロはひとつ。壁際には、買ったままの調味料が申し訳程度に並んでいる。


結菜ちゃんはエプロンを持ってきていた。首にかけて、腰の紐を後ろで結ぶ。その動きに迷いがない。


「槙野さんは手を洗って。あと、そこにあるまな板と包丁、使っていい?」


「どうぞ。包丁、切れ味はあんまり自信ないけど」


「研いだ方がよさそうだね。まあ今日はこれでいけるか」


「俺の生活を見直す日みたいになってきたな」


「そうだよ。まずは包丁を研ぐところから始める?」


「今日は勘弁してくれ」


結菜ちゃんは笑いながら、ごぼうを洗ってまな板に置いた。包丁を入れると、乾いた軽い音が台所に響く。ささがきにしたごぼうが、薄い花びらのようにまな板の上へ増えていった。


俺は隣で、大根をいちょう切りにする役をもらった。切る幅を結菜ちゃんに見せると、「もうちょい薄く」と指導が入る。厚く切った分は、彼女が手早く整えた。


「はい、これくらいでいい?」


「うん。今のはいい感じ」


「褒められると伸びるタイプなんだ」


「じゃあ、伸びてよ。まだ大根あるから」


大根を切り終えた頃には、ごぼうがフライパンで炒められていた。ごま油の香ばしさに、しょうゆと砂糖の甘辛い匂いが重なる。結菜ちゃんは菜箸で全体を返し、火加減を調整した。


「いい匂いだな」


「きんぴらは簡単だよ。ささがきにして炒めて、味つけるだけ」


「その簡単が俺には難しいんだよ」


「槙野さん、料理したことないの?」


「袋麺に卵を入れるくらいなら」


「それは料理に入れていいのかな」


「入れてくれ」


「じゃあ、今度教えてあげるよ。ちゃんと野菜も食べるやつ」


きんぴらは保存容器に移され、湯気が落ち着くまで脇に置かれた。次は卵だ。結菜ちゃんは鍋に水を張り、卵をそっと入れて火にかける。湯が沸くまでの間に、しょうゆとみりん、砂糖を小鍋で合わせた。


「煮卵って、味をつける前に茹でるんだな」


「そう。茹でたら殻をむいて、このタレに漬けるの。明日になったら味が入ってるよ」


「明日か」


「今日食べる分もあるよ。味見用」


卵が茹で上がると、結菜ちゃんは冷水に取って殻をむいた。薄皮が残らないように、指先で少しずつ剥がしていく。白くつるりとした卵が、ひとつ、またひとつとボウルに並ぶ。


鶏肉は、余分な脂を取り除いてからフライパンへ。皮目が焼けると、じゅう、と音が鳴った。結菜ちゃんは肉を押さえ、こんがりした色がつくまで動かさない。


「動かさない方がいいの?」


「焼き目がつくまで我慢。焦っていじると、皮がきれいに焼けないんだよ」


「仕事にも通じそうだな」


「料理と仕事を一緒にしないでよ」


「いや、待つのも大事かなって」


「アンタの場合は、待つより先に休んだ方がいいと思うけど」


結菜ちゃんはさらりと言った。責める調子ではなかった。俺の残業や食生活を、彼女はずっと気にしてくれている。どうしてここまでしてくれるのか、まだちゃんと聞けずにいた。


鶏肉に焼き色がつき、調味料が加わる。しょうゆ、みりん、砂糖。煮立ったタレが肉に絡み、キッチンに甘くて香ばしい匂いが満ちた。


その匂いは、狭い部屋の隅々まで広がっていく。机の上には仕事用の資料と充電器。床には、脱いだままのジャケット。いつもなら、帰宅してもそのままの状態で、翌朝まで放っておく。


けれど今は、コンロの前に結菜ちゃんがいて、俺は横でまな板を洗っている。大根の浅漬けには塩と昆布が加えられ、きんぴらと煮卵は容器の中で少しずつ冷めている。


殺風景だった部屋が、料理の匂いと調理器具の音で、一気に人の生活の場へ変わっていくようだった。


「こっちのタッパー、洗っておくよ」


「お願い。水気、ちゃんと拭いてね」


「了解」


俺が容器を拭いて並べると、結菜ちゃんが料理を詰めていく。きんぴらは平たい容器に。煮卵はタレごと小さな容器へ。鶏肉の照り焼きは、食べやすい大きさに切ってから重ならないように並べた。


「これ、全部俺の冷蔵庫に入るのか?」


「入るでしょ。ほら、棚ひとつ空いてる」


「棚どころか、冷蔵庫の半分以上が空いてる」


「じゃ、問題なし」


結菜ちゃんは浅漬けの味を確かめて、少しだけ塩を足した。色鮮やかな大根が透明なタッパーの中に収まる。料理が一品ずつ増えるたび、部屋の冷蔵庫に入れるものが増えていく。


照り焼きの仕上げに、結菜ちゃんがフライパンの火を止めた。タレの照りが、肉の表面にきれいに乗っている。


「ほら、味見。口開けな」


菜箸で小さくちぎった肉を、結菜ちゃんが差し出した。


「え、今?」


「今。冷めたら味が変わるでしょ」


「じゃあ、いただきます」


少し照れながら口を開ける。甘辛いタレが舌に広がり、焼けた皮の香ばしさと肉のうまみが続いた。熱すぎず、ちょうどいい。ごはんが欲しくなる味だった。


「……美味い。本当に美味いよ」


「でしょ! ウチの特製ダレだからね」


結菜ちゃんは誇らしげに笑った。俺もつられて笑う。


「これ、今週の夜に食べたら、毎日帰るのが楽しみになりそうだ」


「それはいいことじゃん。ちゃんとごはん食べる理由ができたね」


「理由がないと食べないみたいに言うなよ」


「違うの?」


返す言葉がない。結菜ちゃんは「やっぱり」と言って、照り焼きを保存容器に詰めた。


ひと通り料理を片づけ、二人で冷蔵庫にタッパーを並べる。上の棚には煮卵と浅漬け。下にはきんぴら、照り焼き。容器のふた越しに、茶色や黄色、白と緑が見える。


俺の冷蔵庫が、こんなに賑やかになったのは初めてだった。


「これで今週分、どんなに深夜帰りになっても餓死しないから。ちゃんと食べるんだよ」


「……うん。ありがとう、結菜ちゃん」


「どういたしまして。作りすぎた分を置かせてもらっただけだからね」


「そういうことにしておくよ」


「なに、その言い方」


「いや、ありがたいなと思って」


結菜ちゃんは一瞬だけ視線をそらし、それから空のタッパーを重ねた。


「じゃあ、ちゃんと食べたら容器返しなよ。空で」


「もちろん」


「あと、洗って返して」


「わかったって」


さっきと同じやり取りなのに、今度は少し違って聞こえた。


作りすぎたから食べてほしい。空になった容器を返してほしい。その言葉だけで説明できる範囲を、俺たちの日常は少しずつ越えているのかもしれない。


冷蔵庫の中には、今週食べるものが並んでいる。台所には、まだしょうゆと出汁の匂いが残っていた。結菜ちゃんがそこにいることも、隣の部屋へ帰っていくことも、もう特別な出来事ではなくなりつつある。


俺は冷蔵庫の扉を閉めた。


今週は、ちゃんと食べよう。そう思えるだけで、明日からの日々が少しだけ違って見えた。

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