第3話 空のタッパーと、日曜日のスーパー(前編)
あの朝から数日が過ぎた。
佐伯さんの言葉どおり、俺の部屋のドアノブには、週に二、三回、保冷バッグに入ったタッパーが掛けられるようになった。
初めて見つけたときは、ドアの前でしばらく固まった。中身は豚汁。手書きの付箋には「レンジで二分!」とだけ書いてある。署名もなければ、食べていいとも書いていない。けれど、こんなものを掛けていく人は一人しか思い当たらなかった。
その翌週には筑前煮。その次は肉じゃが。どれも一人分にしては多くて、二食に分けてもまだ少し余るくらいだった。
ありがたいことに、付箋の文面は毎回同じだ。「レンジで二分!」。温め方に迷うほど凝った料理ではないし、俺だってそれくらいわかる。それでも、ぶっきらぼうな文字を見ると、ちゃんと温めて食べようという気になった。
食べ終わったタッパーは、洗って乾かしてから保冷バッグに戻す。翌朝、仕事に出るついでに佐伯さんの部屋のドアノブへ掛けておく。そんなサイクルが、いつの間にか当たり前になっていた。
会社から戻るのは、だいたい日付が変わるころだ。
シンク・コア・システムズの開発チームは、抱えていた案件の納期が近づくにつれて、少しずつ人間らしさを失っていく。席に貼りつき、画面を見つめ、鳴り続ける通知に返事をして、気がつけばコンビニの袋を片手に帰宅。以前の俺は、それを何週間でも繰り返すつもりでいた。
でも、最近は違う。
帰りが遅くても、冷蔵庫にはタッパーの残りがある。温めるあいだにシャワーを浴びれば、食べるころにはちょうどいい具合だ。コンビニの揚げ物と菓子パンを胃に押し込んで寝る夜は減った。
胃薬を飲む回数も、いつの間にか減っていた。胃の奥をつかまれるような痛みは、最後にいつ感じたのか思い出せない。
仕事中、ぼんやりする時間も短くなった気がする。午後の会議で資料の数字を追いながら、意識が飛びかけることもない。単に案件の山場を越えつつあるからかもしれないが、夜に温かいものを食べて眠れるようになった影響は、たぶん小さくない。
そう思うたび、俺は洗ったタッパーを少し丁寧に拭いた。
お礼は、返すたびに言っている。付箋にも一度、「いつもありがとうございます」と書いてみた。翌日、タッパーと一緒に戻ってきた付箋には、「いいから食べなよ」とだけ返されていた。
だから最近は、タッパーを返すときに、顔を合わせられれば直接お礼を言う。会えなければ、洗って返す。それでいいらしい。
そして、ひさしぶりに完全な休みを迎えた日曜日。
午前中、目覚ましをかけずに寝た。起きてからは洗濯機を回し、床を掃除して、平日に見ないふりをしていた郵便物を整理した。昼前には、冷蔵庫がほとんど空なのに気づいたが、今日は買い物に行く気力がある。仕事の連絡も今のところない。
ひとまず、ゴミを出しに行こう。
袋を手に部屋を出て、外階段を下りかけたところで、下から「うわ、重っ……」という声がした。
見下ろすと、買い物袋を両手に提げた佐伯さんが、階段を一段ずつ上ってきていた。左右の袋はどちらもパンパンに膨らんでいる。持ち手が指に食い込み、彼女の手は赤くなっていた。
佐伯さんは最後の段を上がると、いったん足を止めて息をついた。こちらに気づき、ほんの少し目を見開く。
「こんにちは、佐伯さん。すごい量ですね」
「こんにちは。いや、これは……見ればわかるでしょ」
「わかります。大変そうなので、持ちますよ!」
俺はゴミ袋を脇に置いて、階段を下りた。
「え、いいって。もう部屋まであとちょっとだし」
「その指、かなり赤くなってますよ。片方だけでも」
「平気だってば」
「じゃあ、片方だけ持ちます」
返事を待つ前に、片方の袋を受け取った。見た目の大きさから想像していた以上に重く、腕がぐっと下へ引かれる。
「……重いですね、これ」
「でしょ。だからって、そんな顔しなくていいから」
袋の口から、キャベツの葉がのぞいていた。下には大根の白い頭。もう片方の袋には、醤油の一升瓶らしき角張ったものが入っている。さらに、根菜やら肉のパックやらが隙間なく詰まっていた。
買い出しというより、店の仕入れに近い。
「佐伯さん、これ全部一人で持って上がってきたんですか?」
「そうだけど」
「……すごいですね」
「褒めてないで、そっち持って。落としたら怒るから」
「はい。気をつけます」
袋を一つずつ持ち直し、俺たちは階段を上がった。片手に二つ持つのは厳しい。佐伯さんは、片方を持ったまま平気そうな顔をしているけれど、さっきは階段の途中で止まっていた。
手が赤くなるのも当然だ。
彼女の部屋は二〇二号室。俺の部屋の隣だ。玄関前まで来ると、彼女は鍵を開け、ドアを押さえた。
「そこに置いて。あ、靴に当てないでよ」
「はい」
買い物袋を玄関の内側へ運び入れる。二つとも床に下ろすと、肩の力が抜けた。袋の中身が床にぶつかり、どさりと音を立てる。
「これ、一人で持つの無理あったでしょ、佐伯さん」
「だから染みついてんの! ほっといてよ」
「染みつくものなんですか、荷物持ちって」
「そういう意味じゃないし。ウチ、昔から家の買い出し手伝ってたから。これくらい平気なの」
「それなら、なおさら無理しないほうがいいと思いますけど」
「平気って言ってるじゃん。アンタ、ほんと心配性だね」
いつもの調子で言い返してくる。荷物を運んだだけで息が弾んでいるのは彼女も同じなのに、顔には出さない。俺はつい笑った。
「俺が心配性なのは、たぶん生まれつきですよ」
「そういうとこ。なんか、ずっとよそよそしいんだって」
佐伯さんは腕を組み、玄関の壁にもたれた。さっきまでの軽口とは少し違う顔つきだった。
「ていうかさ、アンタどう見てもウチより年上でしょ? なんで年下のウチにずっと敬語使ってんの」
「え? あー……二十七だよ」
「じゃあ七つも上じゃん! 余計に居心地悪いんだけど。普通に話しなよ」
返す言葉を探して、俺は一度口を閉じた。
年下だから敬語、というより、隣人だから敬語。料理をもらうようになってからも、佐伯さんは俺のことを「アンタ」と呼ぶし、俺は彼女を「佐伯さん」と呼び続けてきた。距離を詰めすぎないほうがいいと思っていたのも、たしかだ。
けれど、面と向かってそう言われてしまえば、頑なに敬語を維持するほうがかえって不自然かもしれない。
「そうだな……じゃあ、結菜ちゃん。これ、どこに置けばいい?」
口にしてから、少しわざとらしかったかな、と思った。
結菜ちゃん。
佐伯さんが、その場でぴたりと動きを止めた。
腕を組んだ姿勢のまま、丸くなった目が俺を見る。一瞬だけ虚を突かれたように固まり、それから言い返す言葉を探して慌てたように視線を泳がせた。
数秒の沈黙のあと、彼女は耳をほんのり赤くして、ふいと顔を背けた。
「……っ、ちゃん付け? いや……まあ、年上だし、別にいいけどさ」
「よかった。じゃあ、これどこに置こうか」
「そこ。キッチンの横。重いのはそっちに寄せて。瓶は立てて置いてよ」
「了解」
さっきまでより、少しだけ言葉の角が取れた気がした。俺自身も、返事のたびに敬語を選ぶ必要がないぶん、肩の力が抜けていく。
キッチンの横に袋を置き、醤油の瓶をそっと出して立てる。大根とキャベツは壁際にまとめた。買ったものを広げると、六畳ほどの部屋の一角が、あっという間に食材で埋まっていった。
「しかし、本当にたくさん買ったな」
「安かったの。キャベツも大根も、今日なら買っとくでしょ」
「それにしても醤油の一升瓶は、なかなか買わないと思うけど」
「料理するから使うの。アンタ、いつも作りすぎって思ってるでしょ」
「思ってる、というか……実際、俺の分まで回ってきてるからな」
「だって作りすぎるんだもん。食べてくれる人がいると、助かるじゃん」
その言い方はいつもどおり、さらっとしていた。けれど、俺は少しだけ返事に迷った。
「助かってるのは俺のほうだよ。タッパーのおかげで、最近は胃も痛くならないし」
「それならよかった。コンビニばっかりだと、ほんとに身体に悪いからね」
「前は平気だと思ってたんだけどな」
「平気な人は、あんな顔色で廊下に座り込まないって」
「それは……悪かったって」
「別に怒ってないよ。あ、そこの袋、冷蔵庫に入れるやつ。肉と豆腐が入ってるから」
「わかった」
自然に口から出た「悪かったって」に、結菜ちゃんがちらりとこちらを見た。何か言いたそうな顔をしたが、すぐに肉のパックを取り出し始める。
最初に会ったときは、玄関越しに雑炊を受け取るだけだった。それが今は、彼女の部屋の玄関で買い物袋を広げている。妙なことになったと思う一方で、居心地の悪さはなかった。
運んだ荷物を片付け終わるころ、結菜ちゃんがレシートを手にしたまま、ぴたりと止まった。
「あ」
「どうした?」
「みりんと卵、買い忘れた……」
彼女はレシートをにらみ、それから額に手を当てた。
「今日、卵が安かったのに。みりんも切れてたんだった」
「それは困ったな」
「ねえ、アンタ今日ヒマ?」
「今のところは。洗濯物を取り込むくらいかな」
「荷物持ちしてくれるなら、駅前の特売スーパーもう一軒付き合ってよ」
結菜ちゃんはレシートを丸め、困ったように眉を寄せた。頼みごとというより、もう一緒に行く前提みたいな口ぶりだ。
日曜の午後に、隣人とスーパーへ買い物に行く。
ほんの数日前の俺なら、そんな予定は想像もしなかっただろう。
「いいよ。洗濯物を取り込んだら行こうか」
「助かる。じゃあ、卵が売り切れる前に準備して。ウチも袋を片付けるから」
「了解。じゃあ、いったん部屋に戻るよ」
「うん。あと、さっきの荷物、ありがと」
「どういたしまして」
ドアの外へ出ると、結菜ちゃんはまだ少しだけ顔を背けていた。けれど「ありがと」と言う声は、いつもより穏やかに聞こえた。
俺は自分の部屋へ戻り、ゴミを出すのを忘れないよう玄関に置いたまま、洗濯物を取り込みにベランダへ向かった。
日曜日の午後は、まだ始まったばかりだ。




