第2話 午前二時の廊下と、生姜雑炊(後編)
佐伯さんが出て行ったあと、部屋は急に静かになった。
さっきまで廊下の冷気と一緒に入り込んでいた人の気配が消え、聞こえるのは冷蔵庫の低い唸りだけ。テーブルの上には、小鍋とお椀、それからスプーン。残った雑炊から、薄く湯気が立っている。
「洗わなくていいから。寝なよ」
佐伯さんはそう言っていた。
でも、借りたものをそのままにして眠るのは落ち着かない。俺はお椀を手に取り、冷めきる前に残りを口へ運んだ。
ひと口目は、やっぱり生姜の香りがした。
出汁の味はやさしいのに、ぼんやりしていない。鶏の滋味あふれる旨味と、すりおろした生姜のピリリとした心地よい刺激が、口の中で確かな輪郭を作っている。柔らかく煮えた米粒を、ふんわりと火の通った卵が優しく包んでいた。
喉を通るたび、強張っていた胸の奥をじんわりとほどきながら、熱がすうっと胃へ落ちていく。
ほんの数時間前まで、俺は廊下に座り込んでいた。胃の中には、いつ飲んだかも覚えていない冷えた缶コーヒーと、胃薬を流し込むための水くらいしかない。食べる気力すら湧かないまま画面に齧りつき、空腹の限界麻痺に慣れたつもりでいたのだ。
それなのに、温かい滋養が内壁に触れた途端、干からびた肉体が渇望していたとでも言うように、ひと口運ぶごとに強張っていた全身の力が抜けていく。
まるで荒波の引くように、荒れ狂っていた胃の粘膜が静まり、芯からぽかぽかと温まっていく。無意識に力んでいた肩と首の筋膜までもが、湯気とともに解けていくようだった。
食べることって、こんなにも直接、生身の体に届くものだったのか。
最後に残った米粒を、スプーンですくう。お椀の底まできれいにさらって、俺はそこでようやく手を止めた。
空になったお椀を見つめる。
数日ぶりに、まともな食事を腹に入れた。
その実感が、じんわりと遅れて胸を満たした。単に腹が膨らんだというより、見捨てかけていた自分の体をようやく労ってやれた、という深い安堵に近い。
「……ごちそうさまでした」
誰もいない部屋で、自然に声が漏れた。
さて、片付けるか。
立ち上がると、ずっしりとした疲労の重みが戻ってきた。腹が温まったことで少し息を吹き返したものの、積み重なった睡眠不足が消え去ったわけではない。膝に手をつきながら、テーブルから鍋とお椀を持ち上げる。
台所の明かりをつけた。白い蛍光灯の下、狭い流し台と、積み重なった空き缶が目に入る。見ないふりをしていた荒んだ日常が、こういう時間にはやけにくっきりと浮き彫りになる。
小鍋の内側には、米粒がいくつか残っていた。水を張り、しばらくふやかしてからスポンジで丁寧に洗う。お椀も、スプーンも。洗剤の泡を洗い流しながら、さっきの佐伯さんの言葉を思い出した。
洗わなくていい。
それはたぶん、彼女なりの飾らない気遣いだった。ボロボロの俺にこれ以上、何もさせないための。
だからといって、好意に甘えて借りたものを放っておけるかは別の話だ。ここで洗わずにいたら、明日の朝に返すとき、俺はきっと余計に居たたまれなくなる。
しっかりと水を切った鍋とお椀を、手近な清潔な布巾で拭く。テーブルの端に、重ねずに並べて置いた。小鍋の蓋もその横に揃える。
ようやく、今夜の用事が一つ終わった。
壁の時計は、二時半を少し過ぎている。明日のアラームが鳴るまで、あと何時間だろう。頭で数えかけて、すぐにやめた。そんな計算をしたところで、眠れる時間が増えるわけではない。
スーツを脱ぎ捨て、シャツのボタンを外す。いつもなら、帰宅してからも深夜の障害通知を恐れて、ベッドに入ったあとまでスマートフォンを握りしめている。けれど、今夜は不思議と画面を開く気にならなかった。
スマートフォンを画面伏せで置き、布団に潜り込む。
腹の底に、雑炊の柔らかな温もりと生姜の心地よい熱が、カイロのようにじっと宿っている。
それだけのことが、すり減った心には妙なほど心強かった。
目を閉じると、仕事の残滓が頭をよぎりかけた。明日の朝、真っ先に確認しなければならないエラーログ。顧客への障害報告書のドラフト。まだ終わっていないパートナー会社との調整。
いつもなら、そこから芋づる式に不安が膨らみ、浅い眠りの中で何度も悪夢にうなされ、刺すような胃の激痛とともに朝を迎えていた。
けれど今夜は、その冷たい思考が形を成すより早く、温かな睡魔に抱かれるようにして意識がストンと落ちていった。
次に目を開けたとき、枕元のアラームが電子音を刻んでいた。
手を伸ばして音を止める。画面の数字は、午前七時を示していた。
眠った時間は四時間半にも満たない。連日の激務による鉛のようなだるさは、肩にも背中にもずっしりとのしかかっている。体を起こすと、頭の奥に鈍い重さがあった。
だが――いつもと決定的に違うことが、ひとつだけあった。
胃が、痛まない。
毎朝目が覚めた瞬間から襲いかかってきていた、焼けた針で内側から引っかき回されるような、あのみぞおちのキリキリとした激痛が嘘のように消えていた。
空腹感そのものは当然ある。けれどそれは、内臓が悲鳴をあげている不快感ではなく、健全に代謝が巡っている証拠としての、自然な腹の減り方だった。
布団の上に座ったまま、俺は思わずみぞおちのあたりに手のひらを当てた。
昨夜の、生姜雑炊のおかげだろうか。たった一杯の食事がここまで劇的に効くものなのかは分からない。けれど、あの滋養が乾ききった胃壁を包み込み、一晩かけて労ってくれたのは確かだった。昨日までの泥沼のような苦しさと比べれば、雲泥の差だ。
起き上がって顔を冷水で洗い、髭を剃る。アイロンのかかったワイシャツに袖を通し、ネクタイをきゅっと結んだ。いつもの手順をこなしているうちに、出勤の刻限が迫ってくる。
テーブルの上には、洗い終えた小鍋とお椀が朝光を浴びて並んでいた。
これを返しに行かなければならない。
ただ返すだけでいいのだろうか。昨夜の恩を考えれば、何か気の利いた菓子折りでも添えるべきかもしれない。とはいえ、急にそんなものを渡したら、かえって余計な気遣いをさせてしまうだろうか。そもそも、まだ朝の七時過ぎだ。駅前の商業施設が開く時間でもない。
言葉だけで十分に感謝を伝えるべきか。
でも、彼女は力尽きていた俺を部屋まで連れ帰り、わざわざ温かい雑炊まで作って食べさせてくれたのだ。しかも、「余ったから」と、こちらの自尊心を傷つけない口実まで作って。
俺は小鍋を見つめながら、しばし腕を組んで考え込んでいた。
いくら悩んでも、いま手元にないものは用意できない。俺は小さめの清潔な紙袋を探し出し、鍋とお椀がぶつからないよう丁寧に収めた。蓋とスプーンも忘れずに添える。
まずは、顔を見てまっすぐに礼を言おう。
玄関で革靴を履き、ドアノブを回す。外に出ると、朝の澄んだ冷気が頬をかすめた。
その瞬間、ガシャリと隣の部屋のドアが開いた。
「あ」
「あ。……おはよ。顔色、昨夜よりはマシじゃん」
佐伯さんだった。
昨夜の、ゆるっとした部屋着のスウェット姿とはまったく違う。落ち着いたトーンのジャケットに、清潔感のあるプリーツスカート。肩に掛けたトートバッグからは、厚めの講義ノートとシンプルなペンケースが覗いている。髪もきれいに整えられていて、いかにもこれからキャンパスへ向かう装いだった。
深夜の廊下で出会ったときとは別人のような、快活で瑞々しい女子大生の姿を前にして、俺は思わず気圧されそうになった。
「おはようございます。……ええ、おかげさまで。これから大学ですか?」
「うん。一限から講義入っててさ。アンタは仕事?」
「はい」
手元の紙袋をそっと持ち上げる。ちょうどいい巡り合わせだった。
「昨夜は、本当に助かりました。鍋とお椀、きれいに洗ってあります」
「えー、洗わなくていいって言ったじゃん」
「すみません。さすがにお借りしたまま返すわけにはいかなくて」
「律儀だねえ、ホント」
佐伯さんは呆れたように肩をすくめたが、差し出した紙袋を素直に受け取ってくれた。
手渡したあと、俺は昨夜から胸に留めていた本音を口にした。
「本当に助かりました。……すごく、美味しかったです。胃に沁みました」
佐伯さんは一瞬だけ言葉を失い、目を丸くした。
すぐにふいと視線を逸らし、手元の紙袋の持ち手をもてあそぶ。耳の端がかすかに赤らんだようにも見えたが、こちらの都合のいい錯覚かもしれない。
「ふーん。ならよかった」
すぐにいつものサバサバした調子を取り繕い、佐伯さんは言った。
「ウチの部屋の前で行き倒れられて、そのまま死なれたら寝覚め悪いし」
「死ぬだなんて、大げさな……」
「廊下でへたり込んで動けなくなってた人が何言ってんの。ちょっとはまともなもん食べなよ。仕事がクソ忙しいのは見てて分かるけどさ」
痛いところを突かれ、俺はぐうの音も出ずに口をつぐんだ。
忙しいから飯を抜く。忙しいから寝ない。そうやって自分の体を蔑ろにするのは、一番安易な逃避だ。他人に正論をぶつけられたところで、過酷な納期が消えるわけではない。
けれど昨夜の体たらくは、そんな言い訳すら通用しない限界点だったのだと、痛感させられていた。
「……気をつけます」
「気をつける、って言うやつはだいたい何もしないんだよね」
「う……耳が痛いです」
「自覚あるなら、せめて腹に何か入れなよ。朝のおにぎり一個でも、夜のスープ一杯でもいいからさ」
佐伯さんは紙袋を肩に掛け直し、自室の鍵をカチリと回した。そして階段の方へ歩き出そうとする。
俺も駅へ向かわなければならない。なのに、なぜかこのまま見送るだけでは足りないような気がして、足が止まった。
その迷いを察したのか、佐伯さんが二、三歩進んだところで立ち止まり、ひょいと振り返った。
「あ、アンタさ」
「はい?」
「今日も遅くなるの?」
唐突な問いに、俺は一瞬だけ言葉に詰まった。
今日の業務量を頭の中で弾く。昨日の障害対応の余波、顧客への説明資料作り、通常スケジュールの遅れ。定時で帰れる見込みはどう考えてもゼロだったが、かといって昨晩のように深夜二時まで居残るかと言われれば、そこまでは読めない。
「たぶん……それなりに遅くはなると思います」
「そっか」
佐伯さんは階段の手すりにポンと手を置いた。朝の光を背に受けながら、いたずらっぽくからりとした笑顔を向けてくる。
「また作りすぎたらさ、今度はタッパーに入れてドアノブに掛けとくから。ちゃんと食いなよ」
「えっ……いや、でも、そこまで甘えるわけには」
「作りすぎた分の処分だってば。昨日と同じ。アンタが遠慮することじゃないの」
「そうは言われても、ただいただくのは申し訳ないですし……」
「じゃあ、いつか何かお礼しなよ。今度でいいから」
それは、気負わせないための軽やかな口調だった。
こちらの負担にならないように、恩着せがましくならないように。彼女がどこまで計算して言っているのかは分からない。けれどその「今度お礼しなよ」という何気ない提案は、昨夜の行き倒れを単なる一過性の恥ずかしいハプニングで終わらせず、細く柔らかな関係性として繋ぎとめてくれるような、あたたかな約束に思えた。
「……分かりました。何か喜んでもらえそうなもの、考えておきます」
「うん。じゃ、行ってきます」
「行ってらっしゃい。気をつけて」
佐伯さんは小さく片手を振ると、今度こそ軽やかな足取りで階段を降りていった。
バッグを肩に揺らし、紙袋を提げた背中が踊り場の向こうへと消えていく。微かに揺れた髪の残像が、朝の冷たい踊り場に温もりを残していた。
廊下に、再び朝の静寂が戻る。
オフィスに行けば、容赦のないトラブル対応と山積みのタスクが待ち受けている。昨日の障害が綺麗さっぱり解決したわけでもないし、長年の疲労が一朝一夕で消え去るはずもない。
それでも――昨日の絶望的な朝とは、何かが決定的に違っていた。
胃を刺す激痛は影を潜め、腹の底には、昨夜の生姜雑炊が灯してくれた温かさが確かに残っている。そして今夜、自室のドアノブには、もしかすると小さなタッパーが揺れているかもしれない。
そう想像しただけで、口元が自然とわずかに緩んだ。
佐伯さんの言う通り、まずは今日一日、ちゃんと食って乗り切るとしよう。
紙袋を手放して身軽になった鞄を持ち直し、俺は駅へ向かって階段を降り始めた。




