第1話 午前二時の廊下と、生姜雑炊(前編)
短期連載です
タクシーを降りたのは、午前二時を少し回ったところだった。
メーターの数字を見たとき、財布の中身を確かめる気力もなかった。運転手に礼を言い、ドアを閉める。車が角を曲がって見えなくなると、夜の冷気がスーツの隙間から入り込んできた。
アパートの外階段は、踏むたびに頼りない音を立てる。手すりは冷たく、塗装がところどころ剥げていた。二階まで上がるだけなのに、今日はひどく遠い。
俺は槙野航平、二十七歳。中堅ITインフラ企業、シンク・コア・システムズでSEをしている。
勤務先の名前を口にすると、それなりにちゃんとした会社に聞こえる。実際、会社案内には安定した事業基盤だの、顧客に寄り添うソリューションだのと立派な言葉が並んでいた。
現場の障害対応が三日続けば、そんな言葉は画面の端に出るエラー通知と同じくらい遠い。
一日目は、深夜に監視システムが異常を拾った。原因は、取引先の担当者が事前連絡なしに設定を変更したことだった。二日目は、その影響で別のサーバーまで不安定になった。三日目の今日は、復旧したはずのサービスが朝方から断続的に落ちた。
現場にいる人間は、誰が何を変えたかより先に、いま止まっているものを動かさなければならない。
確認して、報告して、切り分けて、戻して、また確認する。帰ろうとしたタイミングで別の通知が鳴り、誰かが「念のため」と言い出す。念のための確認が終われば、別の部署から問い合わせが来る。
終電の時刻を見たのは、日付が変わる前だった。間に合うかもしれないと思っていた。次に時計を見たときには、もう改札に向かう意味がなかった。
タクシー代は痛い。けれど、始発を待つ体力もなかった。
俺の手には、コンビニの袋がひとつぶら下がっている。中身は鮭のおにぎりと、エナジードリンク。食事というより、まだ倒れていないことを確認するための道具だ。
朝から固形物を口にした記憶がない。昼に買ったおにぎりは、障害対応の合間に机へ置いたまま、気づいたら固くなっていた。夕方にエナジードリンクを飲んで、それから水を二口。いま胃にあるのは、空っぽの感じと、キリキリした痛みだけだった。
この時間に食べる気もしない。袋の中のおにぎりを思い浮かべただけで、喉の奥が詰まった。
階段を一段、また一段と上がる。右足を上げて、左足を上げる。それだけで息が浅くなる。スーツのジャケットは肩に食い込み、ネクタイは結び目を緩めても首に張りついていた。
ここまで帰ってきた。あとは鍵を開けて、靴を脱いで、横になるだけだ。
そのはずだった。
二階の廊下に出て、二〇一号室の前に立つ。壁沿いに並んだドアは、どれも同じ色をしている。俺の部屋の前だけ、郵便受けの横に宅配便の不在票が一枚挟まっていた。いつのものかもわからない。
鍵を出そうと、コンビニ袋を床に置いた。袋の底がコンクリートに触れ、軽い音がする。
スーツのポケットに手を入れる。鍵の感触が指先に当たった。
つまみ上げようとしたが、指がうまく動かない。
一度落とした。鍵が床に跳ね、壁際へ滑っていく。しゃがんで拾おうとしたとき、膝がぎしりと鳴ったような気がした。実際に音がしたわけじゃない。体のあちこちが、動くたびに重く軋んだ。
鍵を拾い、鍵穴に向ける。金属の先端がドアに当たった。少し下。今度は右に逸れる。もう一度、今度こそ。
入らない。
鍵を持つ手が震えていた。寒さだけじゃない。指先の感覚が薄く、鍵の向きも定まらない。
息を吐く。短く、白く曇った。
もう一度、鍵を差し込もうとしたところで、手から力が抜けた。鍵が指の間をすり抜けて、コンクリートに落ちる。
拾わなければ。
頭ではわかっているのに、腰を曲げることができなかった。
壁に背中を預ける。ずる、とスーツが擦れた。膝が折れて、そのままドアの前に座り込む。
袋の中で、おにぎりが傾いた。
ああ、何やってんだ、俺。
鍵を刺すだけだ。二十七歳にもなって、家の前で鍵を開けられずに座っている。誰に見られているわけでもないのに、情けなさが腹の底から湧いてくる。
いや、見られたらもっと困る。
そう思って、立ち上がろうとした。膝に手をつき、肩に力を入れる。足が床を押し返す感覚がない。動くのは上半身だけで、体は数センチ浮いたところで止まった。
目を閉じた。
まぶたの裏に、会社のサーバールームの青いランプが浮かぶ。モニターに並ぶログの文字。チャットに流れる「状況どうですか」の一行。返事を打つ指。何度同じ説明をしたか、もう数える気もなかった。
休みたい。
それだけの言葉が、頭に浮かんだ。
休みたい。風呂にも入りたい。ちゃんと飯を食いたい。せめて、誰かに「もう帰っていい」と言ってほしい。
けれど、口に出すのは違う気がした。自分が我慢すれば丸く収まる。いつからか、それが癖になっていた。頼んで誰かの手を止めるくらいなら、自分が残ればいい。自分のことは後回しにすればいい。
そうして、ここまで来た。
ガチャリ、と隣で音がした。
顔を上げると、二〇二号室のドアが開いていた。
部屋の明かりが廊下に漏れる。その光の中に、女の人が立っている。グレーのスウェットに、ゆるくまとめた髪。片手には、縛ったゴミ袋を持っていた。
隣に越してきた女子大生だ。名前は佐伯結菜。二十歳で、都内の私立大学に通っているらしい。引っ越しの挨拶で一度会ったきりだった。俺はそのとき、仕事の電話を気にしながら「どうも」と返しただけだ。
佐伯さんは、ゴミ袋を持ったままこちらを見ていた。
その目が、俺の顔から床へ落ちた荷物へ動く。コンビニ袋。転がった鍵。外れかけた社員証のストラップ。自分の体がどんな格好で座り込んでいるか、そこでやっと気づいた。
「……ちょっと、アンタ顔色やばすぎ。息してんの?」
返事をするまで、少し時間がかかった。
「大丈夫。ちょっと疲れてるだけだから」
声がかすれていた。自分でも説得力がないと思う。
佐伯さんはゴミ袋を廊下の端に置いた。靴下のまま、ためらいなくこちらへ来る。
「それ、疲れてるだけの人の顔じゃないでしょ。どこか痛いの?」
「いや、ちょっと胃が……。でも、平気だよ」
「平気なら、こんなとこで座ってないじゃん」
言われてみれば、そのとおりだった。俺は立ち上がろうと、ドアに手をついた。
「ほら、部屋に入るから」
「待って。鍵、そこ」
佐伯さんが床の鍵を拾い、俺に差し出す。受け取ろうとしたが、指が言うことを聞かなかった。
「ごめん。ちょっと、手が……」
「はいはい。無理しない。アンタ、立てる?」
「立てるよ」
そう言って足に力を入れた。膝が伸びかけて、すぐに崩れる。佐伯さんが俺の腕をつかんだ。
「大丈夫なツラじゃないでしょ! ほら、手貸しな!」
肩を貸す、と言われても、彼女は俺よりずっと小柄だった。俺の体重を支えられるのか、まずそれが心配になった。
「重いから、いいよ。管理人さんにでも――」
「いま呼んだって、アンタがここで寝るだけじゃん。いいから腕回して」
言い方は荒っぽいのに、声には焦りが混じっていた。
俺は迷った末に、彼女の肩へ腕を回す。スウェット越しの肩は細くて、思ったよりしっかりしていた。佐伯さんは俺の脇に体を入れ、腰を落として支える。
「せーの。立つよ」
掛け声に合わせて、体を起こす。足に力が戻ったわけではなかった。それでも彼女が支えてくれたおかげで、なんとか立てた。
「歩ける?」
「ゆっくりなら」
「じゃ、ゆっくりね。急がなくていいから」
一歩目が頼りない。二歩目で、俺の靴のつま先が床に引っかかった。佐伯さんが肩を押さえて、転ばないようにしてくれる。
彼女は俺の部屋の鍵穴に鍵を差し込んだ。今度は一度で入った。
ドアが開く。
「電気、どこ?」
「入ってすぐ、右」
彼女がスイッチを押した。天井の蛍光灯が、しばらくしてから薄い白色の光を放つ。
六畳の部屋は、俺が出たときのままだった。折り畳みテーブル。壁際に寄せた仕事用の鞄。電源を切り忘れた空気清浄機。窓際には、洗濯したまま畳んでいないシャツが一枚だけ置かれている。
生活感がないというより、生活が途中で止まっている部屋だった。
佐伯さんは俺を壁際のソファまで連れていく。俺が普段、寝る前に座るだけの、背もたれがへたった一人掛けだ。
「座って」
「ありがとう。もう大丈夫だから」
「そのセリフ、信用できないんだけど」
彼女は俺の腕を肩から外し、ソファに座らせた。背中がクッションに沈むと、全身から力が抜ける。目を開けているのもつらかった。
「水、飲める?」
「たぶん」
「たぶんって何。ちょっと待ってな」
佐伯さんは部屋を見回して、テーブルの上の空のペットボトルを見つけた。ラベルが剥がれかけている。中身はない。
「これ、いつから置いてんの」
「さあ……」
「さあ、じゃないでしょ。アンタ、ほんとに何食べてんの?」
返事をする前に、胃がきゅっと縮んだ。痛みが胸の下から広がる。思わず腹を押さえた。
「胃が痛いの?」
「空腹だと思う。たぶん」
「また、たぶん」
彼女は小さく息を吐いた。俺の足元に落ちていたコンビニ袋を拾い、中を覗き込む。
「これ、おにぎり?」
「うん。帰りに買った」
「食べられそう?」
「今は、ちょっと」
「そりゃそうでしょ。胃がびっくりするじゃん」
そう言って、佐伯さんは袋をテーブルに置いた。怒っているのか、呆れているのか、表情からはよくわからない。
「悪いね。迷惑かけて」
口にしてから、また余計なことを言ったと思った。
迷惑をかけた。部屋に入れた。肩を貸してもらった。隣の人に、こんな時間に手間を取らせている。ちゃんと礼をしなければ。何か返さなければ。
「あとで、ちゃんとお礼するから」
「そういうの、いらない」
佐伯さんは即答した。
「でも」
「でもじゃない。アンタ、いま何か返せる状態じゃないでしょ。とりあえず座ってなよ」
返す言葉がなかった。
彼女はドアの方へ向かい、振り返る。
「ウチ、自分の部屋からちょっと物取ってくるから。すぐ戻る。勝手に立たないでよ」
「わかった」
「ほんとに?」
「……たぶん」
「そこは『わかった』でいいの」
ドアが閉まった。
部屋に一人になると、蛍光灯の小さな唸りが聞こえた。暖房はつけていない。外の冷気が窓から伝わり、スーツの裾から膝に染みてくる。
俺は目を閉じた。数分だけのつもりだった。けれど、閉じたまぶたの向こうで、眠気がすぐに押し寄せてくる。
廊下で、早足の足音がした。
ドアが開き、続いて何かを持って入ってくる気配がする。
「起きてる?」
「起きてるよ」
目を開けると、佐伯さんが小さな両手鍋とお椀、それにスプーンを持っていた。小鍋のふたの隙間から、白い湯気が立ち上っている。
「はい、これ。ウチの部屋で温め直してきたから」
「え……?」
「アンタの部屋の台所、なんにもないでしょ。実家が食堂やっててさ、ウチ、小さい頃から鍋いっぱい作るのが癖なんだよね。さっきまで大鍋に残ってた生姜雑炊、小鍋に取り分けて温めてきただけだから。余ってた分」
佐伯さんは手際よくテーブルの上を片づけ、小鍋を置いた。
ふたを取った瞬間、湯気がふわりと広がった。
生姜と、出汁の匂いがする。
それだけで、胃が少し動いた。さっきまで固く閉じていた喉の奥が、ゆっくり緩む。
「食欲ない? 知ってる。だから生姜雑炊にしたの。一口だけでも腹に入れな」
「佐伯さんが作ったの?」
「そう。さっき言ったじゃん、作りすぎた分だって。余ってたから持ってきただけ」
「余ってたって……わざわざ温め直してくれたんじゃ」
「そういうことにしときなよ。ほら、冷める前に」
ぶっきらぼうに言いながら、佐伯さんはお椀によそってくれた。米は柔らかく煮えていて、刻んだ生姜と卵がふんわりと混ざっている。見ているだけで、熱が伝わってくる。
「自分で食べられる?」
「うん。やってみる」
スプーンを受け取る。手はまだ少し震えていたが、さっきよりはましだった。お椀をテーブルに置き、スプーンで一口すくう。
湯気が鼻先に触れる。生姜の香りが、冷えた部屋に広がった。
口に運ぶと、熱さに舌が少し驚いた。噛む必要もないくらい柔らかい米が、出汁と一緒に喉を通っていく。
空っぽだった胃が、痛みを忘れたように静かになった。
「……おいしい」
「そ。ならよかった」
佐伯さんは、ソファの横に立ったまま腕を組む。
「一口だけって言ったけど、食べられるならもうちょい食べなよ。無理はしなくていいから」
俺はもう一口、スプーンを口に運んだ。
やさしい味だった。薄いとか物足りないとか、そういう意味じゃない。余計なものがなくて、いまの俺の胃にも入っていく味だった。
もう一口。
そのたびに、冷え切った部屋の中で、少しずつ体の感覚が戻ってくる。指の先。肩。背中。胃の奥。
佐伯さんは何も聞かなかった。仕事のことも、三日間帰れなかった理由も、どうして食事がそんな状態なのかも。
ただ、雑炊を持ってきて、俺が食べるのを見ている。
「……明日、仕事?」
「朝から」
「休みなよ」
「簡単に言うけど、引き継ぎが」
「引き継ぎできる状態になってから言いなよ。アンタ、いまにも倒れそうじゃん」
返事ができなかった。
スプーンを持つ手が、ほんの少しだけ温かい。
「もう寝な。小鍋とお椀は置いてくから、食べられそうなら食べて。洗い物は明日でいい」
「いや、洗って返すよ」
「明日でいいって言ってんの」
佐伯さんは小鍋のふたを少しずらし、湯気がこもらないようにした。それから、テーブルに置いてあったコンビニの袋を持ち上げる。
「これ、捨てていい?」
「うん。ありがとう」
「はいはい」
ドアへ向かう前に、彼女は一度だけこちらを見た。
「鍵、さっき落としたの、廊下に置いたままだから。あとでちゃんと中に入れときなよ」
「わかった」
「今度こそ信用するからね」
佐伯さんが出ていく。ドアが閉まると、部屋はまた静かになった。
お椀には、まだ雑炊が半分ほど残っている。俺はスプーンを置かなかった。
もう一口、食べる。
生姜と出汁の匂いが、部屋に残っていた。




