第6話 スーツの男と、真夜中の缶ビール(後編)
「何が大丈夫なの!? アンタさ、なんでそうやって何でも引き受けちゃうわけ!? ちゃんと断りなよ!」
結菜ちゃんの声が、夜の廊下に響いた。
その勢いに押されて、俺は口を閉じる。言い返す言葉が出てこない。深夜一時過ぎのアパートは、さっきまでの声が嘘みたいに静まり返っていた。遠くで幹線道路を走る大型車の低い音がして、共用廊下の蛍光灯がじ、と小さく鳴っている。
結菜ちゃんは俺を睨みつけたまま、何か言い足そうとして――やめた。
「……ごめん。ちょっと怒りすぎた」
息を深く吐き出し、ふいと視線を逸らす。ドアノブから外した保温容器を抱え直した彼女の指先に、ぎゅっと力がこもっていた。
「いや。怒ってくれて、ありがたいよ」
「そういうとこだってば」
すぐに返ってきた呆れ声に、俺は苦笑する。笑ってごまかすつもりはなかったけれど、染みついた防衛本能みたいなものだった。
結菜ちゃんの白い頬には、怒った熱がまだ残っている。俺もたぶん、似たようなひどい顔をしているんだろう。額の奥が重く鈍く痛み、汗ばんだ背中にはワイシャツが冷たく張りついていた。
「……とりあえず、夜風が冷えるから中に入ろう。ビール、一本だけ付き合ってくれない?」
「……は? 午前一時半に女子大生を部屋に誘うとか、アンタ何考えてんの」
「変な意味じゃないって。ベランダで少し風に当たりたいんだ。……ちょっと、話したい」
結菜ちゃんは、俺の顔をジト目で見つめた。うさんくさいものを見る視線だったが、そこにはさっきの鋭い怒りとは違う、柔らかな色が含まれていた。
「一本だけね」
「うん。一本だけ」
「あと、変なことしたらその缶で頭殴るから」
「肝に銘じておくよ」
「全然反省してない顔してる」
「どんな顔だよ」
結菜ちゃんは小さく肩をすくめ、俺が開けた玄関ドアの先へと足を踏み入れた。
部屋の中は、今朝飛び出していったままの散らかりようだった。脱ぎ捨てられた昨日の部屋着、机の上に置きっぱなしのノートパソコン、半分減ったペットボトルの水。見られて困るような怪しいものはないが、胸を張って見せられるような生活感でもない。
「よし、じゃあビール取ってくるよ」
俺が冷蔵庫へ向かおうとすると、結菜ちゃんが呆れたような鋭い声を張り上げた。
「待った。アンタ、空きっ腹でいきなりお酒飲んだら胃が死ぬでしょ。まずその汁物、温めて腹に入れなよ」
手渡された保温容器を指さされ、俺は思わず動きを止める。
「あ……そうか」
「そうか、じゃない! 顔色最悪だし、胃痛持ちのくせに何考えてんの。ほら、レンジでチンしてきな。ウチ、お椀出すから」
「あ、ありがとう……」
結菜ちゃんのテキパキとした指示に押され、俺は台所に立った。手早く汁物を耐熱容器に移し、電子レンジの加熱ボタンを押す。
庫内の明かりが回るのを眺めながら、冷蔵庫から缶ビールを二本取り出した。やがて電子音が鳴り響き、湯気とともにふわりと出汁の優しい香りが立ち上る。お椀に注ぎ直すと、じんわりとした温もりが陶器越しに手のひらへ伝わってきた。
俺はお椀と缶ビール、結菜ちゃんは自分の分の缶ビールを持ち、ベランダへと出た。
隣り合う建物との隙間は狭く、手を伸ばせば向かいの壁に届きそうな窮屈さがある。ベランダに置いてある小さな折り畳み椅子を二つ並べ、俺たちは並んで腰を下ろした。
冷え込んできた深夜の空気の中で、手元のお椀から立ち上る白い湯気がゆらゆらと揺れている。
「いただきます」
両手でお椀を包み、そっと口をつけた。
根菜と出汁の滋味が、疲弊しきった身体の隅々へ染み渡っていく。夕方からずっと張りつめていた神経が、胃袋に温かいものが落ちていくのと同時に、ふっとほどけていくのが分かった。空っぽだった腹の底が満たされ、さっきまでの不快な重みが引いていく。
「……うまい。生き返るよ」
「当たり前でしょ。誰が作ったと思ってんの」
隣で満足げに鼻を鳴らす結菜ちゃんを見て、俺はやっと胸のつかえが取れたような気がした。
お椀を空にして足元に置くと、結菜ちゃんが缶のプルタブに指をかけた。
プシュッ。
夜の静けさに、軽快な金属音が響く。俺も自分の缶を開け、冷えた炭酸を喉に流し込んだ。温まった胃袋に、苦味が心地よく広がっていく。頬を撫でる夜風が、頭の熱を穏やかに冷ましてくれた。
しばらくの間、どちらも言葉を発しなかった。
結菜ちゃんは椅子の上で小さく膝を抱え、缶を両手で包み込んでいる。俺は手すりの向こう、シンク・コア・システムズのオフィス街とはまるで違う、静まり返った住宅街の明かりをぼんやりと眺めていた。
「さっきの話なんだけどさ」
俺が切り出すと、結菜ちゃんが横目でこちらを伺った。
「今日、職場で断れなかった理由」
「うん」
「……他チームのトラブル対応の手伝いとか、先輩に押し付けられたレビューを断れなくてさ」
「またそれ?」
「うん。自分の仕事だけでも手一杯だったのに、頼まれると『大丈夫です、やります』って口が勝手に動いちゃうんだ。自分が我慢して徹夜すれば、ひとまず丸く収まるって思っちゃう。断って『使えないやつ』って思われるのが怖いんだよ。相手にどう思われるかを気にして角を立てるくらいなら、自分がすり減る方がずっと楽だって……そうやって逃げてたんだと思う」
情けない告白だった。三十手前にもなって、自分のキャパシティすらコントロールできず、他人の顔色ばかり窺っている。
それでも、こうして言葉にして吐き出すと、胸の奥底でずっと鉛のように固まっていた澱が、少しだけ軽くなった気がした。
「バカじゃないの」
結菜ちゃんが、ため息混じりに吐き捨てた。
「うん。本当にその通りだよ」
「そこで素直に認めないでよ。アンタの身体は会社のものじゃないでしょ。アンタが倒れたって、会社の人間が代わりに寝てくれるわけでも、痛みを引き受けてくれるわけでもないんだから」
「そうだね」
「その『そうだね』も腹立つなあ。分かってるなら、ちゃんと自分を大事にしなよ」
「言われてみれば、まったくぐうの音も出ない」
「言われてみればって、アンタさあ……」
結菜ちゃんは呆れ果てたように息を吐き、缶ビールを傾けた。
けれど、その横顔にはもう刺々しい怒りはなかった。目元がわずかに緩み、口元に小さな苦笑が浮かんでいる。
「アンタ、ほんと面倒くさい大人だよね」
「自分でも嫌になるよ」
「もうちょっと、自分の都合を優先しなよ。誰かの顔色ばっかり気にしてたら、アンタの人生なのにアンタがいなくなっちゃうじゃん」
「……うん。努力するよ」
「努力する、ね。まあ、今日のところはそれで許してあげる」
結菜ちゃんの言葉にはまだトゲがあったけれど、それは俺を突き放すためのものじゃない。俺が自分自身から目を背けないように、一生懸命に繋ぎ止めてくれているのだと分かった。
俺はビールをひと口飲み、夜空を見上げながら尋ねた。
「結菜ちゃんは、どうして俺なんかにここまで構ってくれるの?」
彼女の指先が、缶の縁をなぞるのをぴたりと止めた。
「作りすぎたからって持ってきてくれるけど、それだけじゃないだろ。こうして真夜中まで起きて待っていてくれたり、体調まで心配してくれたりさ」
「別に、待ってたわけじゃないし。ただ目が冴えてただけ」
「そっか」
「……そういう適当な相槌、やめて」
「ごめん」
「謝るのも禁止」
「厳しいな」
結菜ちゃんは手元の缶を見つめたまま、小さく唇を噛んだ。
「ウチの実家、食堂やってるんだよね」
「うん。前に少し聞いたね」
「小さい店だけどさ。子どもの頃からずっと手伝いしてたの。皿を運んだり、テーブル拭いたり。常連のお客さんが増えてくると、誰がどんな味付けが好きかとか、どれくらい食べるかとか、自然と覚えちゃうんだよ」
結菜ちゃんは、どこか懐かしむように目を細めた。
「忙しいお父さんの代わりに、ウチが料理を運ぶこともあってさ。食べた人が『うまいな、結菜ちゃん』って笑ってくれるのが、すっごく好きだった。誰かがちゃんとご飯を食べて、元気になって帰っていくのを見るのが、ウチの誇りだったんだと思う」
「素敵な実家だね」
「うん。だからウチ、昔から余計なお世話を焼くのが癖になっちゃってて。困ってる人がいたら放っておけないし、落ち込んでる子がいたら何か食べさせたくなる。作りすぎたおかずがあれば、すぐ誰かにあげたくなっちゃう」
そこで、彼女の声のトーンがすっと落ちた。
夜の静寂が、二人の隙間にじわりと入り込んでくる。
「……でもね、高校のとき、同じクラスの子に差し入れしたらさ。『頼んでないんだけど』って言われたの」
「え……」
「その子、部活で悩んでて元気がなかったから。ウチ、良かれと思ってコンビニで買った小さなお菓子を渡しただけなんだけど。『こういうの、ぶっちゃけ重いんだよね』って、みんなの前で笑いながら言われて。周りの子たちも、気まずそうに苦笑いしててさ」
結菜ちゃんは膝を抱える腕に力を込めた。
「それからずっと、誰かに何かを渡すのが怖くなった。これ、迷惑じゃないかな。押し付けがましいって思われてないかな。勝手に踏み込んで、気持ち悪がられてるんじゃないかなって」
風が吹き抜け、彼女の柔らかな髪をさらりと揺らす。
「上京してからも同じようなことがあったよ。一人暮らしで忙しそうにしてた友達に作り置きを持っていったら、『そういうの、ありがた迷惑っていうか、お母さんぶられても困る』って距離を置かれた。ウチが善意のつもりでやってることって、相手からしたらただの押し売りなんだなって思い知らされた」
「結菜ちゃん……」
「だからウチ、ただの迷惑なお節介焼きなんだよ。アンタに料理を届けてるのも、本当は自分が『ありがとう』って言われたいだけの自己満足。だからさ、『余ったから』って言い訳をつけないと、怖くて渡せないの」
自嘲気味に笑う結菜ちゃんの横顔は、今にも壊れてしまいそうなくらいに脆く見えた。
胸が痛かった。
彼女がタッパーを差し出すたびに、いつもあっけらかんと笑いながら口にしていた「作りすぎちゃったから」。その軽い言葉の裏に、どれだけの迷いと怯えが隠されていたのか、俺は何も気づいていなかったのだ。
「結菜ちゃん」
「なに」
「迷惑なんかじゃないよ」
「そんなの、アンタが気を遣って言ってるだけかもしれないじゃん」
「気遣いなんかじゃない。俺の実感だ」
俺は椅子から少し身を乗り出し、彼女の瞳をまっすぐに見つめた。
「結菜ちゃんが雑炊を作ってくれた夜、俺、本当に久しぶりに『生きててよかった』って思ったんだよ」
泥のように疲れ果て、終電で辿り着いたあの夜。温かな湯気とともに喉を通った雑炊の味を、俺は一生忘れないだろう。
「あのタッパーがあるから、どんなに理不尽な仕事が降ってきても、ちゃんと家に帰ろうって思えるんだ。部屋に戻れば、自分の命を繋いでくれるものがあるって思えるから、明日も踏みとどまれる。……救われてるのは、間違いなく俺の方なんだよ」
結菜ちゃんは目を見張り、ぽかんと口を開けた。
黒目がちな瞳の縁が、みるみるうちに潤んでいく。彼女は慌てたように視線をそらし、缶ビールを両手で持ち上げた。
「……アンタ、ほんとずるい大人だね」
「ずるいかな」
「ずるいよ。そんな真面目な顔で、そんなこと言われたら……こっちは何て返せばいいか分かんなくなるじゃん」
「嘘偽りのない本音だよ」
「だから、それがずるいって言ってんの」
結菜ちゃんは残っていたビールを一気に呷った。喉が小さく上下し、空になったアルミ缶がパコッと情けない音を立てる。
「一本だけって言ったのに、そんな勢いよく飲んで大丈夫?」
「うるさい。泣きそうなのをごまかしてんの、見れば分かるでしょ」
少し掠れたその声に、俺はそれ以上何も言えなくなって、ただ柔らかく笑った。
夜空を見上げると、都心の明るい街明かりに遮られて、星はひとつも見えなかった。けれど、二人で並んで吸い込む夜の空気は、部屋を出る前よりもずっと澄んで感じられた。
結菜ちゃんがいてくれるから、俺は明日も人並みに生きていける。
そして俺の存在が、彼女の傷ついた優しさを少しでも肯定できているのだとしたら、こんなに誇らしいことはない。
「明日、金曜日だね」
結菜ちゃんが、足元に置いた空き缶を爪先で軽く小突きながら言った。
「そうだね。明日一日乗り切れば、ようやく週末だ」
「……ねえ」
「ん?」
「いつものタッパーのお礼も兼ねて、週末は何かごちそうするよ」
俺が言うと、結菜ちゃんは意外そうに眉を跳ね上げた。
「……それか、また何か一緒に作ろう。材料費は全部俺が出すからさ」
「へえ? 急に頼もしいじゃん」
結菜ちゃんはふっと吹き出し、からかうように口元を緩めた。
「……しょうがないな、考えとく」
「うん。よろしく頼むよ」
「まだ何にするかも決めてないからね。すっごい高い肉とか要求するかもよ?」
「手加減してくれると助かるな」
今度のやり取りには、張りつめた緊張も遠慮もなかった。いつもの軽快な調子に戻りながらも、二人の間の距離は、ほんの少しだけ縮まっていた。
「そろそろ入ろっか。体が冷えちゃう」
「うん」
俺たちは立ち上がり、空き缶とお椀を持って部屋の中へと戻った。
ベランダの窓を閉める直前、結菜ちゃんが振り返り、夜風を胸いっぱいに吸い込んでから俺をまっすぐに見上げた。
「明日はちゃんと定時で帰ってきなよ、槙野さん」
「善処するよ。なるべく早く終わらせる」
「なるべく、じゃない。絶対、ちゃんと」
「了解。意地でも仕事を切り上げて帰る」
「よし」
結菜ちゃんは満足そうに小さく頷いた。
玄関先まで見送り、彼女が隣の自分の部屋へと入っていく足音を聞く。ドアが閉まる静かな音を確認してから、俺は手元に残った空の器を見つめた。
明日もきっと、シンク・コア・システムズのデスクには厄介な仕事が山積みになっているだろう。俺のお人好しで断れない悪癖だって、一朝一夕で治るものじゃない。
それでも――帰りを待ってくれている人がいる。
明日は絶対に仕事を断って、ちゃんと自分の足で帰ってこよう。
冷めきった深夜の部屋の中で、俺の心には確かな温もりが灯っていた。




