炎 その二
都を遠く離れた東国では、街道と言っても名ばかりの田舎道だ。宿場の整備など、そもそも考える事すらしていない。往来する者が宿を求めようとすれば、民家の厄介になるしか方法がない。一行は、宇木正達の随伴者も加わり、三十人を超えている。これだけの人数が宿泊できる家が、人のまばらな東国にある方がまれだ。村に在る手ごろな寺や神社で夜露をしのぎ、食う物は村の長に協力を依頼して提供してもらう。野宿をすれば野盗の餌食になる。屋根のある場所と食う物があるだけで有難い。
その日の仮宿も丁度そんな具合だった。広い平野に水田が広がり、僅かでも周囲よりも高くなって水はけの良い場所に農民の家が肩を寄せ合って集落を作っている。広い田んぼの中にぽつぽつと集落が点在するが、一つ一つの集落には、百人程度の村人しかおらず、とても勅使一行を泊められる家などない。仕方なく、小高い丘の上にある神社の社を仮宿として借り受ける。周囲を囲む様に家が寄り集まり、その中から丘の頂上に向けて急な階段が続いている。登り切った所に赤い鳥居があり、奥に村には不釣り合いな程に大きくて古い社がある。この社ならば広さには申し分ない。ただし、埃だらけの床は、気を付けないと踏み抜きそうな所がある。従者達が今夜の宿泊の準備をしている間、山吹は神社の鳥居の下に立って村の風景を眺める。石段を下りた先に、小さな家々が肩を寄せ合う様に固まっている。その先には広い平野に田が遠い山の麓まで続いているのが見渡せる。晩秋の今は田の水が抜かれ、刈り取った藁を積み上げた藁山が、田に佇む怪物の様に一定の間隔で立ち並び、郷愁を誘う。
直ぐ傍に山が控えていた笠階の領地とはまるで景色が違う。いよいよ、こんな見知らぬ土地まで来てしまった。
谷子呂は必ず帰って来ると信じている。だが、果たして悟正と出会えるだろうか。悟正から話を聞かなければ、流石に谷子呂でもこんな遠くまで追って来ないだろう。谷子呂が四方八方探し回っているうちに、もう自分達は都に着いてしまう。山吹の心には、抑えようとしても抑え切れない胸騒ぎが、何か悪い病気の前兆の様に湧き上がってくる。
夜は部屋の四隅に油灯を灯し、社の床に村人に貰った筵を敷いて、着の身着のまま雑魚寝する。女性の山吹も例外ではない。一つの部屋しかないのだから仕方ない。それでも山吹は、勅使の次にましな寝場所を割り当てられる。
夜も更け、誰かの寝息が社の中に響き渡り始めた頃、山吹は横になったまま、突然両目を大きく見開いた。二つの眼が見えない何かを探す様に、忙しなく宙を彷徨っている。やがて視線は月光が差し込む天窓に向く。それから山吹は、徐に上半身を起こした。
「どうした。」
隣で寝ていた宇木正が、山吹の起き上がる気配に気付いて声を掛ける。
「いえ、厠に行ってきます。」
山吹は周囲の人を起こさない様に立ち上がり、行灯の中の灯芯に部屋の油灯の火を移し、片手でそれをかざして部屋の外へと出て行く。宇木正は、部屋を出て行く山吹の後ろ姿を見送った後、とろとろと夢の中へと戻って行った。
どのくらい時間が経ったろう。社の外から聞こえる、人の叫ぶ声で再び宇木正は目を醒ます。
何だ?
男の声だ。何を言っているのかまでは判然としないが、何か切羽詰まった声で怒鳴っている。それに答える声。どれも遠くで大声を張り上げている。そのうち声の数が増えてくる。
一体、何の騒ぎだ。
宇木正は気になり、上半身を起こして耳を澄ます。宇木正以外にも数人、外の騒ぎに気付いて、起き出す者がいる。
宇木正がまだ寝ている間に騒ぎに気付いた者が、既に様子を見て来た様だ。下人が一人、部屋に入って来て、まだ寝ている者が居るのもお構いなしに声を上げる。
「どうやら、下の村で火事の様です。」
その言葉で、起きている者達に緊張が走る。乾燥している晩秋は燃え易い。もし風が強ければ、燃え広がるかも知れない。流石に小高い丘の上のこの社まで燃え広がりはしないだろうが…。大体そのくらいの事を頭で考えながら、誰もが様子を見て来ようと寝床から抜け出す。宇木正もそれに混じって表に出る。
夜風は強くないが吹いている。寒さに身を縮めながら周囲を見るが、神社の周りに火の気は無い。鳥居の下まで行き、階段下の村を見下ろす。赤々と燃えている場所が目に入る。村の中ではない。村から離れた広い田んぼの中の藁山が二つ、炎から発する真っ赤な光を周囲に放っている。その光を、村人と思しき人影が遠巻きに取り囲んでいる。何か互いに怒鳴り合っている。どうやら消火のために水を運んで来いと言っている様だ。収穫を終えた田の回りの水路は、田に水を入れる必要が無いため干上がっている。少し離れた川まで汲みに行ったのだろう。数人が木桶を抱えて、走って来るのも見える。木桶を持った者が人の輪の内側に入り、炎に近付いて水を投げ掛ける。その脇に一人の女。慌ただしく動く村人を手伝おうともせずに棒立ちになっている。
「山吹!」
思わず宇木正は叫ぶ。遠巻きにする村人の輪よりも内側、炎を上げる二つの藁山の光に照らされて、山吹の姿が浮かび上がる。燃える藁山の火に騒ぐ村人など目に入らないのか、炎だけを見つめている。宇木正は、転げる様にして危なっかしい石段を駆け下り、田に向けて走る。
何故こんな事になっているのか、まるで見当がつかない。兎に角山吹を捕まえて、あの騒ぎの外に連れ出さなければ。
村を抜けて広い田に出る。刈られた後の稲の切り株に足を取られて転びそうになりながらも、炎を取り巻く村人を掻き分けて輪の内側に入り、山吹の両肩を掴む。
「お前、何でこんな所に居る。厠に行ったんじゃないのか。」
山吹は、炎から宇木正に視線を移したが答えない。
「さあ、戻るぞ。」
「やめて。」
山吹の腕を掴んだ宇木正の手を振り払う。宇木正は、驚いて山吹の顔を睨む。宇木正の視線に負けない強さで、山吹が宇木正を睨み返す。
「父上、私は笠階宇木正の娘です。」
「…何を急に言い出すんだ。」
「自分の道は自分で切り拓きます。」
燃え上がる藁山の炎に照らし出される娘の顔まで燃えている様だ。
村人が藁山に掛ける水は、余りにも頼りない。正に焼け石に水、大きな炎の柱と化した藁山には、まるで無力だ。
「駄目だ。こりゃ、燃やし切るしかない。」
周りに延焼する物が無い田の真ん中、村人達は火の粉で飛び火しない様に気を付けるだけで、二つの藁山は燃やし切ってしまうと決める。
「…この火はお前が点けたのか?」
宇木正は、理解できない行動を起こした娘が、急に得体の知れないバケモノに思えてくる。
「もうすぐ分かります。もうそこまで来ています。」
山吹は、うっすらと笑みを浮かべて宇木正を見る。
「おい。」「うわ!」「なんだ?」
周囲の村人の間から声が上がる。真っ暗な大地の向こうから大きな黒い塊が近づいて来る。地に湧く黒雲は、見る間に田を覆い尽くしていく。
「おい、狗だ。」「うわぁ、食われるぞ!」
燃える藁山の炎の光を受けて、灰色の狼の体とキラキラ光る両の眼が黒い塊の中に浮かび上がる。凄まじい数の狼。炎に怯みもせずに押し寄せて来る。塊の正体が狼だと気付いた村人から逃げ出す。一人二人と逃げ出せば、もう止まらない。まだ状況が掴めていない者も、取り残されたら大変と兎に角皆に遅れまいと走る。さっきまで遠巻きに輪になっていた村人は、藁山の火事など放り出して、一人残らず村へと逃げた。
「おい、これは…。」
狼の群を見て呆然となる宇木正とは逆に、炎に照らされた山吹の表情は、みるみる明るく笑顔になっていく。娘を一人残して逃げる訳にも行かず、足元から湧き上がる戦慄に震えながら、宇木正はただ立ち尽くす。田は狼で埋め尽くされる。その狼の群の中を、背の高い一人の男の影が近付いて来る。藁山の炎の光を受けて、二つの大きな瞳が妖しげに輝いている。
「お前…」
宇木正は、険しい表情で男の両目の輝きを睨む。
「山吹、迎えに来た。今度こそ、本当だ。」
炎の柱と化した藁山の脇で立ち止まり、谷子呂は笑顔になる。
「良かった。」山吹が微笑む。「ずっと待っていた甲斐があった。」
「お前が何故。」宇木正は谷子呂の胸で炎の光を反射している漆塗りの小笛を見つめている。「…そうか、そう言う事か。」
宇木正の顔にあからさまな落胆の表情が浮かぶ。
「宇木正様ぁ!」
異様な事態に、主人の一大事と笠階の従者達が田を横切って駆け付けるも、狼に阻まれて近付けない。
「来るな!狗に喰い殺されるぞ。」
宇木正は視線を谷子呂から外さずに、声だけで従者の動きを制する。
「ですが…」
「構うな!俺なら大丈夫だ。これは俺の問題だ。」
従者達は狼に睨まれたまま、田の隅で事の成り行きを見守るしかない。少しでもおかしな動きをすれば、狼は彼等に飛び掛かりそうな気配だ。じりじりとしながらも、手も足も出ない。
「悪いが、山吹はもらって行く。」
山吹と谷子呂は互いに狼達を縫って近寄り、手を取り合う。
「やめろ!」
宇木正は狼に監視される緊張の中で、ゆっくりと手を動かして腰にある筈の太刀をまさぐる。だが、そこに在る筈の太刀は無い。右手は空を掴む。
しまった。
火事騒動に驚いて、起き抜けでここに来てしまったから、太刀は神社の社に置いたままだ。素手では狼一頭にすら敵わない。
「無駄だ。」谷子呂は目敏く宇木正の仕草を見咎める。「今のあんたには何もできない。」
「父上は分かっています。そんな馬鹿な真似はしません。」
こんな状況の中で、山吹の声だけが弾んでいる。
「待て山吹、お前はこいつと行ってしまうつもりか?俺は、この俺はどうなる!」
宇木正の必死の叫びは、悲鳴に近い。
「一人で都に行って、私は旅の途中で盗賊にでもさらわれたとおっしゃって下さい。」
「そんな…。俺がどうなっても良いと言うのか!笠階は?さっき、お前自身が自分は俺の娘だと言ったばかりじゃないか!」
「宇木正。」谷子呂が代わりに応える。「何故、ユニ族の村から俺を助けた。」
「お前になど訊いておらん!山吹をかどわかしおって!」
「あんたが俺を助けなければ、こんな事にならずに済んだ筈だ。何故助けた。俺の家族を殺しておきながら、何故俺だけ助けた。」
喚き散らしていた宇木正が一瞬素に戻る。
「…何の話だ?」
急な話の展開に、宇木正は呆然としている。
「あんたは、土薙忠隆と一緒にユニ族の村を焼き討ちして皆殺しにした。そうだろ?」
「あ…」
「そうだろ!」
谷子呂の大きな瞳に藁山の炎が写り込んでいる。
「…お前、それを誰から聞いた。」
「忠隆を探し出して、話をさせた。」
「ふん。」宇木正は静かに目を閉じる。「いずれは知れる事と思っていた。…いや、遅いくらいか。」
「答えろ。…答えろ!」
今度は谷子呂が叫んでいる。宇木正は目を開け、谷子呂を見つめる。
「棟梁の命令だ。逆らう事はできない。…いや、言い訳だな。…お前の言う通りだ。だとしたら、お前はどうする。」
「…何故、俺を助けた。」
宇木正は口をつぐむ。
「何故、俺を助けた。何故、助けたんだぁ!」
宇木正は答えない。谷子呂の全身が小刻みに震え出す。手足から胴体へと震えが広がり、どんどん大きくなる。その様を目の当たりにした山吹が止めようと、必死で谷子呂にしがみ付く。
「うおぉぉぉぉ!」
谷子呂の奥底から地響きの様に湧き上がる声がほとばしる。必死に押さえる山吹を跳ね除け、蕨手刀を抜いたとみるや、上体を鞭の様にしならせて、宇木正目掛けて投げつける。冷気を切り裂いて蕨手刀が飛ぶ。余りの速さに身動きできない内に刀は宇木正の右耳を掠めて彼の後ろの闇に消えた。
宇木正は思わず息を飲み、目を瞑る。
谷子呂に触発されたか、狼達は俄かに落ち着きをなくして吠える。見守っていた従者達は、襲われるのではないかと身を縮めて後ずさる。
「あんたを殺したい程憎い。」谷子呂は低い声を絞り出す。「それでも、あんたを殺さない。都でもどこでも勝手に行けば良い。」
言い終わらぬ内に山吹を引き寄せ、指の利かない右腕も使って器用に抱え上げる。山吹は谷子呂に身をゆだね、谷子呂の首に両手を回す。谷子呂はもう何も言わない。その場で体の向きを変えて、宇木正に背中を向ける。もう蕨手刀は無い。両手は山吹を抱えている。完全に無防備な背中を宇木正の前に晒す。それからゆっくりと足を踏み出して、走り出したと見る間に、二人の姿は闇に溶けていく。
「待ってくれ!」
宇木正の叫ぶ声は、広い田の上を覆う闇に虚しく吸い込まれる。静から動に移った谷子呂を追って、狼達も走る。宇木正の足元を、まるで木の杭でも立っているかの様に気にも懸けず、次々と狼が通り過ぎる。狼の群から解放されて、従者達はやっと緊張が解ける。膝が震えて力の入らない足を何とか前に踏み出して、主の元に歩み寄る。宇木正は、従者が近寄り声を掛けるまで、二人が消えた闇を見つめたまま立っていた。




