炎 その一
十三 炎
秋は駆け足で過ぎて行く。目に見えて日没が早くなり、枯葉の乾いた音を連れて、地を這う木枯らしがやって来る。頼りない日射しの中で冬の趣を深める景色を見て、悟正は焦燥に駆られていた。
笠階宇木正達がこの地を発って既に十日が過ぎている。今頃はどこまで行っただろう。往きの行程ののろさを考えれば、それ程進んでいない様にも思うが、今度は生真面目な宇木正が一緒だ。律儀に、一刻でも早く帝の命を果たさなければなどと考えて、皆を急かしているかも知れない。
悟正は山吹に用意してもらった竹林の中の館でひと時も気の休まらない日々を過ごしている。山吹付きの下女が身の回りの世話をしてくれるから食うに困る事は無い。形の上ではあるが、依頼された旅の安全祈願の祈祷に専念できる環境は整っている。他にする事も無い。仏画に向かって手を合わせ、経を唱えてみるが、内心はけっして穏やかでは居られない。
あの日、頼み事と言って顔を近付け、山吹は悟正に囁いた。
「私の代わりに、戻って来る谷子呂を出迎えてくれませんか?」
山吹の代わりにこの竹林に戻って来る谷子呂を出迎え、山吹が都に連れて行かれた事を伝えて欲しいと言う。悟正には、山吹をこんな事態に追い込んでしまった責任がある。これで少しでも悟正の過ちを挽回できるのならばと、勇んで同意した。だがその内容は、悟正を不安にさせた。
「必ず谷子呂は竹林に戻って来ます。私に約束してくれました。そして、そこで笛を吹いて私を呼びます。但し、その笛の音は常人には聞こえません。勿論、お坊様にも。」
聞こえない音などどうしろというのか?
「大丈夫です。笛の音に応えて山に棲む狗達が遠吠えを返します。遠吠えは、竹林の館に居れば四方から聞こえてくる筈です。一つの遠吠えではなく、四方から相次いで聞こえる狗の声。それが、谷子呂が帰って来た合図です。」
そんなにはっきり区別できるものなのか?
「その時、谷子呂は竹林のどこかに居る筈です。探し出して下さい。程無く狗達が笛を吹いた谷子呂目掛けて集まって来ます。ですが、恐れないで下さい。谷子呂に危害を加えない者を狗は襲いません。」
相手は獣だ。本当にそう言い切れるのか?
「谷子呂に事の経緯を話して下さい。彼は必ず私を追って来てくれます。」
本当にそう上手くいくだろうか。谷子呂は、実は既に戻って来て他の場所で笛を吹いたのかも知れない。いや、ちゃんとこの竹林で笛を吹いたとしても、狼の遠吠えに悟正が気付かずに居たら、それまでだ。笛を吹くのは真夜中かも知れない。谷子呂は、いくら待っても来ない山吹を探して、他の地へと行ってしまうだろう。そうなれば万事休すだ。二度と山吹と谷子呂は出会えない。谷子呂が帰って来るのが確かだとしても、勅使一行が遠く離れた後では遅過ぎる。谷子呂が追いつく前に山吹は都に着いてしまう。
一時たりとも竹林の館を離れられず、館の中で燻り続けながら来る時の分からない人を待つ。それがこんなにも苦しいものだとは。悪い想像ばかり思い浮かべながら、悟正は身を擦り減らす日々を送っていた。
ある日の夕暮れ、それは突然に訪れた。部屋の中で悶々と時間を擦り潰す悟正の耳に、微かに遠吠えが聞こえる。
遠吠え?
もしやと思った悟正はあらん限り耳を澄ませる。
聞こえる。一つではない。二つ、三つと違う方向から遠吠えが聞こえている。
来た!きっとこれだ!
悟正はバネが弾けるように立ち上がると、慌てて部屋の外に出る。悟正の慌て様に驚く下女には目もくれず、館から外に飛び出し、周囲をぐるぐると見回す。周りは竹ばかりで人の姿は見えない。
もしや、ここじゃないのか?
「谷子呂さん!谷子呂さぁん!」
悟正は声を張り上げる。竹が重なりあった陰から谷子呂の顔が覗く。
居た!本当にここに帰って来た!
「谷子呂さん!こっち、こっち!」
悟正は必死で手招きする。谷子呂は最初躊躇っていたが、周囲を警戒しつつ、悟正にゆっくりと近付く。
「良かった、会えた。本当に良かった。こんな寿命が縮まりそうな頼まれ事は、もうこりごりだ。」
緊張が一気にほぐれ、つい、悟正の口から愚痴が漏れる。
「あんた、以前助けてくれた…。」
「悟正です。それより、山吹殿が大変なんです!」
谷子呂の顔色が変わる。
「都から勅使が来て、宇木正殿と山吹殿を都に連れて行きました。」
「じゃあ、ここに居ないのか。」
二人が話している間にも、狼の遠吠えが響いている。
「はい。ここを出たのは、十三日前です。このまま都に行ってしまえば、山吹殿は、帝の側室にされて、二度と戻って来れません。」
「なに!」
「谷子呂さん、後を追いかけて、山吹さんを助けて下さい。」
「本当だな、本当に山吹は都に向かったんだな?」
「本当です。山吹殿が、きっと谷子呂さんはこの竹林に戻って来るからって言って、私はずっとこの竹林の館で山吹殿の下女に世話してもらって待っていました。私の言葉が信じられなければ、館の中に居る下女に確かめてみて下さい。」
「分かった。」
谷子呂は考えを巡らす。
「一行には、勅使として遣わされた公家が同行しています。休んでばかりでのんびり進みます。思いの外遠くへは行っていないと思います。」
「そいつらは、街道を都に向かったんだな。」
「もとより、それ以外の道を知りません。」
いつの間にか悟正と谷子呂の回りに狼が集まっている。狼達は、首から小笛を下げた谷子呂を見上げる。
「うわぁ!」
自分の足元を狼が掠めて、初めて狼の存在に気付いた悟正が悲鳴を上げる。
「今すぐ行く。必ず助ける。」
一人呟く様にそう言うと、谷子呂は狼の群を縫って走り出す。狼達は谷子呂の動きを見て、彼に従い走り出す。周囲を埋めていた狼達は、灰色の風の様に竹の隙間を抜けて走り去る。竹の幹を一本たりとも揺らす事無く、地面に積もった笹の葉を踏みしめる音だけを残して、群は一つの生き物の様に去って行く。遂には、元の静かな竹林の中に、悟正だけが取り残された。
悟正は溜息をつく。
「どうか御仏のお導きがあります様に。」
彼は谷子呂が消えた方向に向かって手を合わせた。
薄暮の中、冬枯れの山を疾駆する巨大な狼の群と一緒に走る一人の男を、何人もの笠階領の村人が目撃した。だが、余りに現実離れしたその光景は一瞬で消えたため、誰もが狐に騙されたと思い、揶揄われるのを嫌って他人には話さなかった。




