暗殺 その二
一縄の屋敷に着いた谷子呂は、素早く土塀を乗り越える。思わぬところで時間を使ってしまった。早く使命を果たさないと、笠階宇木正が土薙忠隆を攻めている知らせがこの屋敷に届いてしまう。谷子呂は、庭の闇に紛れて屋敷内の様子を窺う。
屋敷の中は慌ただしい。郎党が戦支度をして至る所に屯している。もう夜が遅いと言うのに、寝る気配もない。声が聞こえる。何やら大声で指図する声。谷子呂は気付かれない様に注意しながら、声のする方へ土塀に沿って移動する。正虎は、四方が開け放たれた、母屋の広間の中央に床几を置き、それにどっかと腰を下ろして郎党達に指図を出している。働き蟻の世話を受ける女王蟻の様に、人並み外れて大きな体の正虎の周りを郎党達が右往左往している。甲冑こそ身に付けていないが、気持ちはすっかり戦に臨んでいる。彼に近付くには、隠れている庭の隅から遮る物の無い庭と広間を横切らなければならない。周囲には必ず数人の郎党がうろついている。
さて、どうするか…。
思わぬ出来事で乱れた心を落ち着かせ、遅れた焦りを鎮める。失敗すれば二度目は無い。じっと物陰に隠れて、好機が訪れるのを待つ。
「親方、親方ぁ!」慌てた様子で一人の郎党が正虎に駆け寄り、片膝をつく。「土薙領の方角に火の手が見えます。」
「何?」正虎が眉をひそめる。「物見の者を出して、仔細に調べさせろ。」
「は。」
郎党は一礼して、正虎の前を辞そうとする。
「親方、どうもおかしいです。」
別の郎党が駆け込みながら声を上げる。
「何だ、今度はどうした。」
「何やら土薙の領内で争いが起きている様です。」
「うーん…。」正虎は、少し考え込んでから立ち上がる。「先遣隊を土薙に向けて出せ。何か分かったら、知らせを寄こせと言い渡せ。俺も支度をして出る。他の者にも支度をさせろ。」
「は。」
二人の郎党がその場を離れる。残った正虎は、郎党達とは逆の方向に歩き出す。回り廊下を歩いて、母屋の奥へと姿を消す。母屋の奥に人影は無い。動き回る郎党達を離れて一人になるつもりだ。谷子呂は周囲を窺いながら、庭の隅の闇から抜け出し、母屋に駆け込んで、正虎の後を追う。
正虎は厠に立った。廊下の突き当り、篝火も油灯の光も届かない闇の空間にそれはある。正虎は大きな無防備の背中を廊下に向けて用を足す。遠い山の上に走る稲光が、一瞬正虎の影を浮き上がらせる。谷子呂は廊下の床板の上を一歩ずつ、ソロリソロリと足を繰り出し背後に迫る。薄暗い闇の中で谷子呂の目だけが光を放っている。背丈は二人とも同じくらいだが、体の太さには雲泥の差がある。用を足す正虎の一歩後ろまで近寄る。手を伸ばせば届く。正虎は気付いていない。谷子呂は素早く右腕を伸ばす。正虎の喉を、前腕に鉄板を巻いた右腕で背後から一気に抱える。思いきり体重を掛けて絞め上げれば、鉄板が正虎の喉を圧し潰す。すかさず左手で蕨手刀を鞘から抜き、肋骨と肋骨の間から無理矢理刺し入れる。
「ぐうう…。」
喉を潰され息ができない中で、言葉にならない呻き声を出して正虎が身を捩る。刺した刀を肋骨に沿って手前に引けば、開いた傷口から勢いよく血しぶきがほとばしる。刀を抜いた後も暫くそのまま喉を絞めてから、抱えていた右腕をゆっくり緩めれば、正虎はその場にグニャリと崩れ落ちた。
谷子呂は周囲を窺う。静かだ。遠くでかみなりの音がしている。その場を離れ、母屋の奥へと進んで行く。いつ角から人が現れるかも知れない廊下を忍び足で進む。
「親方ぁ、親方ぁ。」
母屋の表の方から正虎を探す声が聞こえる。慌てずに一つ一つ、谷子呂は目に付いた板戸を右手の親指で少し開けて中の様子を覗いて行く。蕨手刀を握ったままの左手は、真っ赤な血に染まっている。
居た。
細く開けた板戸の向こう、子供がござの上に寝ている。隣に寄り添う乳母も見える。
谷子呂は静かに板戸を開けて部屋の中に入ると、後ろ手で板戸を閉める。子供の足元まで近付いた時に、初めて乳母が視線を谷子呂に向ける。
「ひぃ!」
返り血を浴び、血だらけの蕨手刀を持つ谷子呂を見て、乳母は恐怖のあまり声が出ない。もう腰も抜かしてしまっている。それでも子供の上に覆いかぶさり、なんとか子供を守ろうとする。
「殊勝だ。」
谷子呂は低く呟く。身を屈めて、乳母の顔の前に自分の顔を持っていく。
「良いか、良く聴け。これから軍勢がこの屋敷に攻めて来る。この子を救えるのはお前だけだ。今すぐこの子を抱いて、どこへなりと逃げおおせろ。猶予は無い。今直ぐに、できるだけ遠くへ走れ。良いな。」
分かったのか分からないのか、乳母は谷子呂の顔を凝視したまま震えている。谷子呂は言い終わると立ち上がり、音も立てずに部屋を出て行った。
その頃、笠階宇木正の軍は土薙忠隆の領内に雪崩れ込んでいた。忠隆の軍勢も次の日の出陣に向けて準備を進めていたが、不意を突かれた上に、寡勢ではさしたる抵抗もできない。宇木正の将兵の多くは、仲間である筈の忠隆に不意打ちを食らった過去を憶えている。彼等は、恨みを晴らそうと容赦なく攻め立てる。忠隆の軍勢は見る間に総崩れとなって逃げ惑う。土薙の武将が一人、また一人と討ち取られていく。忠隆軍の抵抗が下火になった頃、一縄からの先遣隊が戦場に現れる。彼等からしてみれば、何が起きているか分からないまま様子を見に来てみれば、家人同士で本気の戦が行われている始末だ。驚いている間に、彼等にも宇木正の軍勢が襲い掛かる。一縄の武者は、宇木正軍がまさか一縄にまで攻め込むつもりでいるとは思っていない。巻き込まれるのは御免と、さして抵抗もせずに逃げ出す。宇木正の軍勢は、逃げる一縄の兵を追って一縄領にも雪崩れ込む。その頃には、屋敷で正虎が殺されているのが発見され、一縄領内は混乱の極みにあった。攻め込んで来る宇木正軍相手に、訳も分からないまま抵抗を試みるが、指揮系統が機能しない。一縄の武将も各個囲まれて討ち取られていく。その頃になって一縄の里は土砂降りの雨となった。結局、一縄一族と土薙一族は、女子供に至るまで探し出されて、その命を奪われた。夜が明ける前に、宇木正の目論見は成功した。ただ、討ち取った者の首級の中に、土薙忠隆本人と、一縄正虎の息子の首が見付からない。激しい雨は二人の逃亡に味方した。
谷子呂は姿を消した。戦いが終わっても、笠階の屋敷に戻って来ない。笠階領で谷子呂と闘って死んだユニ族の男の遺体も、いつの間にか消えていた。
一縄の屋敷に囚われていた悟正は、辛くも救い出された。一縄屋敷の母屋は宇木正の軍勢に火を掛けられたが、燃え広がる前に囚われの悟正が発見され、座敷牢から救い出された。酷い雨のおかげで、結果的に母屋が燃え落ちずに済んだのも幸いだった。
一縄勢の中小の家人は、事が成った後で宇木正の反乱を知っても、誰一人抵抗しなかった。彼等は、土薙忠隆の乱が起きた時の一部始終を知っていたし、最早一縄が消えてしまっていては、抗う拠り所が無い。残った最大勢力の笠階が郷巻の勢力下に入るのであれば、抵抗するのは無意味と誰にも理解できた。
土薙領は笠階の領地に併合され、一縄領は郷巻と笠階で分け合った。




