悪夢 その一
七 悪夢
生死のはざまを彷徨いながら、谷子呂は村で暮らした幼い頃の夢を見た。
「さあ、山に行くぞ。」
太い低い声に見上げれば、口の周りに真っ黒な髭をたくわえた笑顔が見下ろしている。
父ちゃん。
優しそうな目、丸い顔、足みたいに太い腕…。父親の峰鳶だ。
「谷子呂も六歳だ。ユニの男なら、山の中で一人きり、何日も獲物を追って狩ができないとな。明日は、山の中で野宿するぞ。」
「家に帰らないの?」
小さな谷子呂は、峰鳶と手を繋ぐ。
「当たり前だろ。」横から兄の山保呂が口を挟む。「山で野宿するってのは、そう言う事だよ。」
偉そうに言っているが、山保呂と谷子呂は五歳差だ。山保呂だって、山に入るようになってまだそんなに経っていない。
峰鳶と一緒に山に入る準備をする。火打石、小刀、弓矢、縄、獲物を捕らえる仕掛け…、何が必要か、どうやって持つと歩くのに邪魔にならないか、一つ一つ教えてくれる。兄の山保呂はもう覚えているから、自慢げに谷子呂と並んで準備をする。その日は、準備をするだけ。明日の朝早くに出発だ。明日に備えて、しっかり寝る様に言われるが、興奮と不安でなかなか寝付けない。並んで寝ている山保呂も同じなのか、横からちょっかいを出して来る。月の光が差し込む部屋の中で、兄弟二人でふざけ合いながら、いつの間にか眠りに落ちていた。
いつもは起きない朝早くに叩き起こされる。眠い目を擦っても、なんだか頭がぼーっとしている。山保呂も眠い筈だが、お兄ちゃんな所を見せたいのか、パキパキと支度をしている。朝霧が村一面を覆う中、母に見送られ、父・峰鳶の後ろについて家を出る。周囲の山ならいつもの遊び場だ。だが、今日はもっと遠くの山まで歩いて行く。六歳だろうと手ぶらでは許してくれない。最低限、自分のための道具は背負って行く。ずっと歩き詰めの行程に、一時(二時間)も歩けば、谷子呂は歩くのに飽きる。元気も無くなり、トボトボと峰鳶の後ろをついて行く。
「休憩にするか。」
その様子を見て、峰鳶が見晴らしの良い場所で立ち止まる。親子三人並んで、朝、母が持たせてくれた塩むすびを頬張る。
「どうだ、疲れたか?」
谷子呂は下を向く。疲れたと正直に言えば、また山保呂に揶揄われそうだ。と言って、疲れていないと言えば、構わず先に進むだろう。付いて行ける自信はない。
「よし、この辺りの山で獲物を取る事にしよう。山保呂、お前には、罠の仕掛け方を教えるぞ。」
「うん!」
山保呂は元気良く答える。
「谷子呂も一緒に聞いておけ。お前はもう少し大きくなってから、また教えてやるがな。」
谷子呂は黙って頷く。
峰鳶は、林の中に子供達を連れて行く。獣の通る道、熊に出くわした時の対処、動物の糞や足跡での見分け方、そして罠を仕掛ける場所の選定、仕掛け方…、色々話しながら、実際に物を扱って教えて行く。余りに新しい事が多過ぎて、谷子呂は途中から集中が続かなくなった。ぼんやりと父の説明を聞いているだけで、頭に入って来ない。
三人は、夕方には寝場所を決めた。初めて野宿する谷子呂に教えながら進めなければならない。寝床に適した場所の選び方、水の確保、火の起こし方…、これも一つ一つやらせてみて覚えさせる。山保呂にも上達ぶりを確認するためにやらせる。その度に、自慢げな顔をする山保呂が何だか鬱陶しい。
峰鳶が仕掛けた罠にかかった兎を屠り、肉に分け、焼いて食べる。いつもなら母の作る汁物があるが、今日はこれだけだ。男三人は、黙々と食事する。辺りはすっかり暗くなっている。食事が終わっても、峰鳶の講義が続く。
「俺達ユニなら、夜になってからでも道に迷う事は無い。要所要所の木の幹には、村の方向を示す印が刻まれている。この印の意味は、ユニの者しか知らない。それを辿れば、月の無い夜でも、村に帰り着ける。」
「おいら、意味わかる。」
嬉しそうに山保呂が声を上げる。
「そうだな。谷子呂にも、明日、山の中で見付けたら、見方を教えてやろう。」
峰鳶が笑顔を谷子呂に向ける。
「食事が済んだら、焚火の火はできるだけ小さくしろ。特に夏は無くても凍える事は無い。」
「どうして?」
山保呂が木の枝で、焚火の灰をつつきながら訊く。
「どこかに普通の人間がいるかも知れない。焚火の明かりを見付けて、奴等がやって来ると厄介だ。」
「ふーん。」
山保呂はその意味が理解できないのか、生返事をする。
「山で普通の人に会ったらどうするの?」
谷子呂が珍しく口を開く。
「どうもしない。黙ってやり過ごす。姿を見られない方が良い。だが、無理に隠れる必要は無い。」
「ふーん。」
谷子呂も気の無い返事をする。
「あ、流れ星!」
山保呂が空を見上げて指差す。谷子呂はその声で空を振り仰ぐが、流れ星は見付からない。夥しい星。数えきれない数の星が、所せましと夜空を埋めている。
「ねえ、雨が降ったらどうするの?」
山保呂が父親に訊く。
「枝を組み合わせて骨組みを作り、ヤツデの葉を敷き詰めて雨よけにする。場所が肝心だ。開けた尾根では風に飛ばされる。急な斜面も駄目だ。何より、雨が降ったら川には近付くな。」
父と山保呂の会話は続いている。狼の遠吠えが聞こえる。村の家の中で聞くのとは違う、すぐ隣に野生が息づいているのを感じる。狼はああやって、自らの存在を知らしめている。
おいらはここに居る。
谷子呂も狼だったら、きっと空に向かって吠えていたに違いない。そうやって自分の存在を知らしめなければ呑み込まれてしまいそうな程、圧倒的な大きさの山の生命が、小さな谷子呂の様子を窺っている。叫ばずにはいられない。
おいらは、ここに生きている。
「アウォーン!」
狼を真似て空に向けて叫ぶ。
「何だ、おかしくなったのか?」
山保呂は揶揄うけれど気にならない。
谷子呂はずっと夜空を見上げていた。流れ星はとうとう見付からなかった。明るい星、暗い星が無数に寄り集まり、まるで生き物の様に瞬いている。
いつもならば、もう寝る時間だろうか。母さんは弟や妹と何をしているだろう。
そんな事を考えながら、いつの間にか眠りに落ちていた。




