悪夢 その二
谷子呂は六歳の夏の間に五回、父と兄と泊まりで狩猟に出掛け、山道を長い距離歩き回るだけの体力を身に付けた。秋には山の中を飛び回り、山の実りを家族のために集めた。やがて冬が訪れると、山は雪に覆われる。雪山はまだ小さい谷子呂には流石に危険だ。兄の山保呂ですら、雪山に入るのは禁止されていた。村の中で力を持て余す冬が終わり、雪が消えれば、再び山を飛び回る季節が戻ってくる。こうやって一年経つ毎に、谷子呂の行動範囲は目覚ましく広がっていった。
それは、谷子呂が八歳の春まだ浅い頃の事だった。その日、山保呂と谷子呂は、山でタラの芽を採って来る様に母から言いつけられる。山菜採りは村の子供達の役割だ。夫々の家の子供が交替で、村の家々で食べる分の山菜を代表で採りに行く。今回、山保呂、谷子呂兄弟に、村で食べるタラの芽を採って来る役目が回ってきた。二人は小刀を腰に差し、網籠を背負って山に入る。慣れ親しんだ山だ。どこにタラの木があるかは大体知っている。ただ、村中の家で食べるだけのタラの芽を採らなければならない。村の近くにも採れる場所はあるが、量が少ないうえに、既に採られている可能性もある。充分な量集めるのには苦労しそうだ。二人は、最初から近くのタラの木は諦めて、少し足を伸ばして、他の人が知らない場所を目指す。二人はそこまでの道中、真っ直ぐ向かわずに遊んでばかりいる。丸太橋では、両岸から渡って、真ん中で落としっこをする。湧き水のある場所では、サンショウウオやイモリをどっちが先に見付けられるか競争する。タラの木がある場所に着いた時には、午を過ぎていた。二人は弁当よりも先にタラの芽採りを始める。遠くまで来たから採り放題だ。直ぐに網籠は七割方埋まった。まあ、このくらい採れば、役目は果たした。二人は並んで地べたに胡坐をかいて座り、雑穀ばかりの握り飯を頬張る。腹ごしらえが済めば、直ぐに遊びが始まる。タラの芽が入った籠を放り出したまま、近くの河原に降りてイワナを追い回す。水はまだ、身を切る様に冷たい。長く入っていられない。二人は、日向で足を乾かしながら草笛を吹く。
やがて、日が傾き始めた。そろそろ帰らないと、村に着く前に日が暮れてしまう。日が暮れてもユニ族なら道に迷う心配は無いが、それでも親は心配する。山保呂は、タラの芽が詰まった網籠を見て一計を案じた。
「おい、帰る前に最後の勝負をしよう。この岩の上から、あの枝に跳び付いて、勢いをつけて反対側に跳ぶ。遠くまで跳べた方が勝ちだ。」
八歳と十三歳の体格の差は大きい。負けず嫌いで考えの浅い谷子呂は、何でも山保呂に挑戦するが、体力勝負になれば絶対に山保呂の勝ちだ。
「おし、良いぞ!」
案の定、谷子呂はやる気満々だ。
「良いか、負けた方が、採ったタラの芽を全部家まで持って帰るんだ。良いか?」
「分かった。」
「良いな。待ったなしだぞ。」
「うん。」
「じゃあ、おいらからだ。」
山保呂は岩の上で身構え、跳び上がって狙った枝に跳び付く。ブラブラと体を前後に揺すって勢いをつけてから手を放し、地面に着地する。
「おいらは、ここだ。」着地した場所に立ったまま、後ろを振り返る。「谷子呂やってみろ。」
谷子呂は口を真一文字に結び、短く頷くと岩の上に立ち、山保呂が跳び付いた枝を見上げる。谷子呂にしたら、枝に跳び付くのすら、できるかどうか怪しい。頼りなさそうに膝を曲げて、跳び上がる姿勢を作る。
「やぁ!」
掛け声とともに跳び上がる。落ちかけながらも、何とか枝に両手がかかる。だが、跳び付いた勢いは失われてしまった。枝にぶら下がった状態から、足を振って体に勢いを付けようとする。だが、なかなか思う様に勢いが付かない。その内に、枝に掴まっている腕が限界だ。それでも勢いをつけたつもりになって手を放す。枝の真下よりは前に着地するが、兄の山保呂の位置には遠く及ばない。
「おいらの勝ちだ。」
如何にも満足そうに、山保呂が笑みを浮かべる。
「それじゃ、タラの芽はお前が背負って行けよ。」
山保呂は、自分の網籠からタラの芽を谷子呂の網籠へと移す。谷子呂の網籠がいっぱいになり、山の様になっても、まだ少し山保呂の網籠に残っている。
「ま、いいや。このくらいは持って行ってやるよ。」
そう言って、網籠を背中に背負う。
負けた谷子呂は意気消沈したまま、タラの芽が山と積まれた自分の網籠を見下ろしている。
「ほら、帰るぞ。早くしないと、日が暮れちまう。」
渋々、谷子呂は網籠を背負う。ずっしりと重い籠によろける。
「ほら、行くぞ、早くしろ。」
勝負に負けて、気持ちも前に進まない。
「先行っちまうぞ。お前は後から来るって言っておいてやるよ。」
山保呂は、歩みののろい谷子呂を置いて走り出す。
「待ってよ、兄ちゃん。待ってったら!」
谷子呂の声が聞こえない筈は無い。山保呂の姿はどんどん遠くなっていく。置いて行かれた。情けないやら、悔しいやら。気付けば日が傾きかけた山の中に一人きりだ。泣きたい気持ちを必死で堪えて、トボトボと歩く。
何だよ、兄ちゃんなんか、兄ちゃんなんか。
ここから村までの道のりは絶望的に長い。容赦なく日は傾いて行く。気持ちばかりが焦る。
とうとう、太陽は山の陰に隠れた。漸く最後の尾根を越え、坂道を下って行けば、村に着ける所まで来た。網籠が重い。肩に喰い込んで痛い。耐えきれず、籠を下ろして谷子呂は一息つく。もう、泣く気力もない。汗まみれで疲れ果てて、ただ肩で息をするだけだ。周囲はすっかり暗くなった。村の方の空がほんのりと赤く染まっている。
夕焼け?でも、おかしい。夕日の沈んだ方向は違う。何故あそこだけ赤いのだろう。
深く考える事は無く、重い網籠を背負い直して、とぼとぼと歩き出す。
下を向いて歩いていたから気付かなかった。ふと視線を上げると、向こうに村の入り口の門が見える。その向こうは火の海だ。見慣れた家々の形は無く、紅蓮の炎が踊り狂っている。パチパチと何かが弾ける音がする。谷子呂は呆然と立ち尽くす。得体の知れない、だけど凄まじいまでの恐怖が足元から迫って来る。
担いでいた網籠を投げ出し、村に向けて駆け出す。どの家からも炎が噴き出している。肌が焼ける様だ。身を屈めて自分の家を目指して谷子呂は走る。人が倒れている。首から血を流し、大きな目が宙を見つめたままだ。谷子呂は驚きの余り尻餅をつく。足に力が入らない。気付けば、あっちにもこっちにも人が転がっている。この凄まじい熱さの中でも身動き一つしない。谷子呂は這う様にして自分の家を目指す。やっぱり谷子呂の家も無残な姿で燃えている。家の前に死体が転がっている。女性。あの着物の柄は良く知っている。毎日、その裾を掴んで甘えていた着物。
母ちゃん!
谷子呂は目を醒ました。廃屋の壊れかけた天井が見える。全身にべっとりと気持ちの悪い汗をかいている。
夢か…。
上半身を起こそうとする。体が重い。右腕に力を入れようとした時、凄まじい激痛が走る。呻きながら、右腕を左手で庇い、上体を起こす。
壊れた炭焼き小屋の中だ。暑い。左手で顔の汗を拭う。開け放たれた戸口から入って来る風が唯一の救いだ。右腕には黒い自分の着物から引き裂いた布地が包帯代わり巻かれている。何やら草をすり潰した様な物が傷口に塗られているのか、青臭い臭いがしている。もう一度、右手を動かそうとしてみる。やはり激痛が走る。少しも動く様に思えない。
人の足音。スタスタと早い調子で近づいて来る。谷子呂の体に緊張が走る。戸口に僧侶が顔を覗かせる。
「お、気が付かれましたか!」
悟正は嬉しそうな顔を見せて、小屋の中に入って来る。
この男、敵ではなさそうだ。
谷子呂は警戒を緩める。
悟正は手にしていた錫杖と鉢を傍らに放り出すと、手を谷子呂に向かって伸ばす。谷子呂は慌てて避ける。
「何もしませんから、ちょっと触らせてください。」
よろけて寝転がった谷子呂の額に、悟正は手を当てる。
「まだ、熱がある。寝ていないと駄目ですね。何か食べられそうですか?」
悟正が手をどけると、寝ていないと駄目だと言われたのに、谷子呂はノロノロと上体を起こし直す。その眼の前に、悟正は自分の鉢を突き出す。中を覗けば、白米が直に入っている。
「食べられるようなら食べなさい。」
谷子呂は左手で鉢を受け取り、胡坐をかいて、その上に鉢を置き、左手で白米を口に運ぶ。悟正は笑顔で頷いている。
「あんたは、食べなくて良いのか。」
少しも遠慮せずに飯を頬張りながら、悟正に訊く。
「私は大丈夫。今食べなくても、死ぬ事は無い。貴方は七日間、何も喰わずに寝込んでいた。それにその傷だ。今食事が必要なのは貴方ですよ。」
「七日間?俺は、そんなに寝ていたのか。」
「随分うなされていました。気が付いて良かった。」
「何故、あんたは俺を助けた。」
「前に助けてもらった…って思ったのですが、違う人の様ですね。以前、貴方によく似た人に命を救われた事がありまして。それで、今度は私が助ける番だと思って、お助けした次第です。」
谷子呂は足の上に置いた鉢から飯をすくって食べながら黙っている。
「もしや、貴方は色の白い若い娘さんをご存知ではないですか?」
一瞬、谷子呂の手が止まる。だが、結局何も喋らずに、また飯を口運ぶ。悟正はその一瞬を見逃さなかった。
「娘さんが貴方を探していました。小さい頃に世話になったと、もう一度会いたいと言っていました。」
悟正は谷子呂の反応を窺う。谷子呂は俯いたまま、ボツボツと飯を落としながらも、口に運んでいる。
「何故、会いに行ってあげないのですか?」
「…何の話だ。」
「じゃあ、貴方に会った事を娘さんにお知らせして良いですか?」
「余計な事はしないでくれ。」
悟正は俯いてほくそ笑む。
「そう、じゃあ。」悟正は明るい声を上げる。「まずは、体力をつける事です。そうでないと、ここから出る事もままなりません。私にできる事は、こうやって托鉢でこころざしを頂いて来るくらいしかできません。…これじゃあ、精が付きませんね。」
「獲物を取る仕掛けを知っている。もう少し動けるようになったら、兎を捕まえる罠を仕掛ける。」
「殺生ですか…。」悟正は溜息をつく。「それをしてはいけないのが、我々なのですが…。」少し考えてから、言葉を継ぐ。「ま、どうせ私は生臭坊主。自然の摂理には目を瞑りましょう。…それより、歩けるくらいに体力が恢復したら、私と一緒に近くの寺に行って、そこの厄介になりませんか。ここでは食べるのも難しい。動いていたら傷口も簡単には塞がらないでしょう。傷を癒すには、もっとじっとしていても食べられる場所で静養した方が良い。」
「それは、お断りする。動ける様になったら、俺は別の場所に行く。あんたに助けられるのはこれで二度目だ。これ以上世話になっても、返しようが無い。」
「二度目?はて、以前に貴方とどこかでお会いしましたかね。」
「郷巻の市で武者に絡まれている時に。」
悟正は膝を叩く。
「ああ!あの時のきのこ売り。あれ、貴方でしたか。…と言う事は、山から無理矢理きのこを売りに行かされたと言うのは嘘でしたか。つまりは…成る程。」
悟正は、黙々と飯を口に運ぶ谷子呂の顔を眺めていた。
暫く谷子呂は炭焼き小屋に留まった。別に引き留めた訳ではなかったが、悟正もそこに留まり、朝、門付けに郷巻本領に下りて行き、夜には戻って来た。獲れた兎の処理は、谷子呂の指示で悟正が行なった。最初は気持ち悪そうにしていたが、三度目には、顔をしかめながらも手際良くできる様になった。さばいた肉は、悟正がどこからか貰って来た塩を振って焼いた。なかなか右腕の傷は塞がりきらず、右手の指はピクリとも動かない。それでも、ひと月が過ぎた時、谷子呂は悟正に別れを告げた。
「明日、ここを出て行く。あんたはどうする。」
「そうですか…。どこに行くおつもりで?」
「済まないが、それは言えない。」
「一縄領に戻りますか?そっちの人ですよね?」
谷子呂は俯いたまま、黙っている。
「…どこに行くかは、もう聞きませんが、是非、途中であの娘さんに会ってやって下さい。笠階殿の領地の、竹林の中の館に住んでいます。」
谷子呂は左手を自分の胸に持って行き、着物の内に首から下げている小さな笛を握る。
「…済まないが、それもできない。」
「そんな。どれだけ貴方に会いたいと願っているか、分かっていますか?」
「会う資格がない。…報いで右手を失うくらい、人を殺めて来た。」
「人の価値に高低を付ける事自体が思い上がった行ないです。皆等しく輪廻を彷徨っているのですから。…そんな言い訳で、貴方はあの娘さんの心まで殺めてしまうおつもりか。」
「それでも…、それでも、俺は会えない。」谷子呂の大きな目が自分の両手を見つめている。「もし、会ったら、…会ってしまったら、酷い過ちを犯してしまいそうで恐ろしい。」
谷子呂は左手をきつく握り締めて震える。
「…もう、会わないつもりですか?」
悟正まで気持ちが沈んでくる。
「分からない…分からない…」
「…二度貴方と出会いました。」重苦しい雰囲気を悟正が破る。「それならきっと三度目もあるでしょう。その時貴方と分かる様に、お名前を教えてもらえませんか?私は悟正と言います。」
「谷子呂だ。」
「ヤチシロさん。…必ず、生きてまた会いましょう。お互い、地獄行きなのは決まりですが、それより前にこの世でもう一度会えるよう、それまでは生きていて下さい。約束ですよ。」
次の朝、谷子呂と悟正は小屋の前で別れた。夫々別の方角を目指して、一度も振り返らずに、その姿はブナの林の中に消えた。




