澤の郷曲輪合戦 その三
アカゲラと土蜘蛛の闘いが決着を見ずに物別れに終わった頃、郷巻の本隊は、斜面を駆け下り、一縄の本陣へと突進していた。
澤の郷に鬨の声が響く。山の裾野、林の中から騎馬武者が二十数騎走り出す。革の武具を着けた大男達。渡来人は馬の扱いに長け、東人より一足先に林を抜け、一縄の陣に迫る。彼等の後から郷巻本隊が姿を現す。三十騎、五十騎、百騎、五百騎…。沢を越え、青田を踏み荒らし、一面を埋め尽くす波となって、稲荷山に殺到する。騎馬の後ろから徒歩の雑兵が槍を手に現れる。騎馬の十倍の人数だ。瞬く間に数万の大軍に膨れ上がる。
稲荷山の一縄勢も臨戦体制を整える。雑兵が槍を構えて前面に密集して並び、槍ぶすまを作る。その後ろで騎馬武者が弓を構える。余りの数の違いに、雑兵達の戦意は挫かれている。それでも逃げ出さないのは、逃げ出そうとすれば、騎馬武者に切り殺されるからだ。
八万対五千。小高い稲荷山の上に陣取っているとは言え、周囲を囲まれたら、逃げ道がない。大事に至る前にと、旗本十余騎が馬を寄せて、正虎の騎馬を囲み、団子の様に一塊になって、押し寄せる軍団の反対側、一縄領への山道に向けて無理矢理正虎を連れて逃げ出す。戦う前から撤退戦だ。不名誉だが、最早状況が許さない。陣に残って構える武者達は、ここが死地と覚悟を決める。
一縄の騎馬武者が一斉に矢を放つ。緩やかな弧を描いて雨の様に、突進する郷巻の騎馬隊に降り注ぐ。見る間に十数騎の武者が落馬する。だが、焼け石に水だ。怯む素振りも見せずに、突進して来る。
遂に、先頭を走る渡来人の騎馬団が稲荷山に到達する。あっと言う間に両者入り乱れての戦いが始まる。次々に押し寄せる郷巻軍の人の波の中に、稲荷山の陣が見る見る埋もれていく。
曲輪を攻める土薙忠隆の軍は、その六割が順次交替しながら曲輪攻めにかかっている。忠隆を含む残り四割の兵が、控えとして後ろで戦況を見守っていた。後方から只ならぬ鬨の声が聞こえて振り返れば、山を下りた郷巻の軍勢が、沢を渡って稲荷山に向けて突進して行くのが見える。
「おい!続け!」
棟梁の危機を察した土薙忠隆は、大声で叫ぶと馬を走らせる。これに即応した武者は百騎程度。徒歩の雑兵も付き従おうとするが、到底馬の速さには付いて行けない。大軍の前にこの数では状況は覆らない。そのうえ、郷巻軍が稲荷山に到着するのに、時間的にも到底間に合わない。それでも救援に向かわずにはいられない。冷静に考えれば、自分達の退路を確保しないと、澤の郷の中に閉じ込められるのだが、今はそんな事を考えている余裕は無い。郷巻軍の先鋒、渡来人の騎馬集団は、稲荷山で一閃、目の前の武者を屠ると向き変え、忠隆の騎馬隊に向かって突進する。両者は澤の郷の中央、青田の中で切り結ぶ。その後から郷巻の騎馬武者も加わり、乱戦になる。足元がぬかるむ。泥をはね上げ、思う様に動けない泥の中でもみ合う。
鷹ノ巣山物見砦から見守る笠階の軍も、澤の郷の異変に気付いた。向かいの山裾から大軍が現れて、稲荷山の陣が見る間に呑み込まれていく。一縄正虎と旗本と思われる一団が一縄領への山道へと逃げ込むのも見える。
宇木正は、郷巻側から鷹ノ巣山に攻め上がって来た軍を迎え撃つために、砦を留守にしてしまっている。物見台で澤の郷の戦況を見守っていた兵が笠階和正に急を知らせる。
「騎馬は俺に続け!」和正が父に代わって声を上げる。「残りの者は固く砦を守れ!何があっても、砦を明け渡すな!」
和正は馬に跨り、山の急斜面を駆け下る。目指すは、澤の郷と一縄領を繋ぐ山道。一縄正虎と追手との間に楔を打つ様に割って入るつもりだ。
稲荷山の一縄軍が討ち取られるか、逃亡して居なくなると、曲輪攻めにかかっていた忠隆と家人達の軍は、澤の郷盆地から一縄領への出口を郷巻軍に押さえられた形になり、盆地の中で孤立する。彼等は死に物狂いで郷巻軍の中を走り抜け、活路を開く。少しでも遅れれば槍や刀の餌食になる。一団になった逃亡者が澤の郷から姿を消した後、残党狩りが行われ、日が西に傾く頃に漸く合戦は終結した。鷹ノ巣山に攻め上がって来た軍勢は、攻め込む素振りだけで、夕暮れ前には引き揚げて行った。澤の郷の田は死体で埋まった。合戦の前、青々とした稲が風になびいていた田は悉く踏み荒らされ、横たわる死体は、泥に半ば埋もれ、首のない者、腕のない者から流れ出る血が、水を赤く染めた。
一縄勢の損害は甚大だった。一縄本隊こそ、領内に留め置いていた兵力は温存できていたから、逃げ帰った兵を合わせれば三分の二は残った。そのうえ、正虎が無傷だったから被害は許容できる。それでも、正虎が最も信頼を寄せる子飼いの旗本達は、その殆どが稲荷山で散っていた。家人の被害は惨憺たるものだった。どこをどう逃げ切ったのか、土薙忠隆は全身泥だらけになりながらも、何とか領地に逃げ帰った。だが、土薙家の武者、郎党の内、帰りつけたのは十に一人もいなかった。土薙忠隆と一緒に曲輪攻めに加わった中小の家人の状態はもっと酷い。家長本人が討ち死にした家が続出し、死地を脱出できた兵は数える程と言う有様だ。唯一、鷹ノ巣山の物見砦を守っていた笠階軍は無傷だった。それは、鷹ノ巣山に攻め寄せた郷巻の軍勢が、物見砦の守備勢を釘付けにする役割を充分に果たした事を示していた。
これだけの大損害を与えたのにもかかわらず、郷巻興嶽は、一縄領に攻め込まなかった。彼は朝廷と国司の目を意識していた。
アカゲラは逃げた。深手を負った右手の出血は止まらない。腕を縛って止血しようにも、左手だけでは、服を切り裂き、縛る布を作る事もままならない。仕方なく、血を滴らせたまま、山の中を安全な場所を求めて走った。幸い、土蜘蛛は最早追いかける気力を失って、アカゲラと闘った山の尾根で呆けている。他にアカゲラの存在を気にする者は居ない。夕暮れ前に、一縄領内で拠点としていた炭焼き小屋の廃墟に辿り着く。多くの血を失い、朦朧とする意識のアカゲラは、何とか小屋の中に入り、土間にそのまま倒れ込んだ。
これら両軍の武者達以外にもう一人、澤の郷曲輪の合戦を見ていた者がある。昨日の晩、笠階領に居た悟正は、夜明け前に軍勢が動き出したのを知るや、離れてその跡をつけ、鷹ノ巣山に登る。てっきり鷹ノ巣山で戦いがあるものと藪に潜んでいたが、激しい合戦の音が彼方から聞こえる。見晴らしの利く所まで出て、合戦が澤の郷で始まったのに気付くと、澤の郷全体が見通せる斜面に移動して、その一部始終を観戦した。
「成る程、これが合戦と言うものか…。」
戦いの趨勢が決まると、悟正は呟き、立ち上がる。
これでは、一縄の領地は蜂の巣をつついた様になる。郷巻勢が雪崩れ込むだろう。安全なのは郷巻の領内だ。
悟正は獣道を辿って、郷巻領へと下って行く。里山近くまで降りて来た時、ふと気付けば下草に血が付いている。立ち止まり周囲を見回すと、血糊が点々と道を横切り左右に続いている。恐らく、澤の郷の合戦で傷を負った武者が、ここまで逃げて来たのだろう。どちらの側の兵にしろ、深手を負っているに違いない。
これ以上は無益な殺生。
戦場から逃げて来たのなら、戦場の方角から来て、反対側が行き先だ。放っておけば亡くなる命も、自分が救えるかも知れない。悟正は血の跡を辿ると決める。道無き斜面、藪の中を歩き、壊れかけた小屋の前に出る。屋根が腐り、棟が崩れかけている。どうやら、打ち捨てられた小屋の様だ。開いている木戸から中を覗くと、男が一人倒れている。背の高い、鳥の巣頭の男。その姿には見覚えがある。
「おや、これも何かの縁。今度は私が助ける番か。」
アカゲラを土蜘蛛と間違えた悟正は、男を抱え上げて、板の間に寝かせる。右腕以外に目立った傷口は無い。右腕の傷は深い。このままでは失血死する。
修行の旅に出れば、修行僧は一人きりだ。万一の事が遭っても、自分で何とかするしかない。だから、旅に出るにあたって、高僧から傷の手当や薬に関する知識を伝授された。その知識を発揮する時が来た。右腕を縛って血止めをし、懐から懐紙を出して傷口を覆う。そうしておいて、小屋の外に出ると、周囲の林の中を探し回り、薬になりそうな草を探す。
一通りの応急処置ができた頃には日が暮れた。昼間湧き上がった入道雲から雨が降り出す。
雨の雫が逃げて来た経路に残った血の跡を洗い流してくれるだろう。後は、この男の体力が持つかどうか。傷口が化膿したら、体力が持たないかも知れない。
悟正は、小屋の木戸から降りしきる雨を見上げながら、無感情にそう思った。




