見える者・聞こえる者 その八
「谷子呂は居るか!」
その夜になって、笠階和正が子供組の小屋にやって来て声を上げる。
「和正様。」
彼の姿を見た子供組の連中は、ヘコヘコと頭を下げる。ここを追い出されると理解した谷子呂は、黙って和正を睨み付ける。
「おい、谷子呂、修行に出るんだってな。お前、太刀も構えた事ないだろう。良い機会だから、俺が稽古をつけてやる。来い!」
居なくなる人間なのを良い事に、鬱憤晴らしに使おうと言うのか。
谷子呂は、黙って和正の前に進み出る。
「良いな、連れて行くぞ。」
和正は、小屋の監視役の下人に一言言って、谷子呂を連れ出す。きっと下人は、谷子呂を外に出さない様に監視しろと言われているのだろうが、和正に言われて反論できずにいるうちに、和正は構わず谷子呂を連れて行く。和正の手には木刀が二本握られている。外に出てみれば、今宵は満月だ。谷子呂が謹慎していたひと月の間に、季節はすっかり冬に変わった。寒さで引き締まる透明な夜の空気を通して、青白い月光が谷子呂にも和正にも降り注ぐ。夜の庭を突っ切り、母屋の裏手、離れの庭へと進む。月光に照らされた青白い離れの庭は、如何にも寒々しい。
人目に付かない所でぼこぼこにしようと言う魂胆か。
半ば諦めて離れの庭に谷子呂が入ると、和正は竹囲いの外に残ったまま木戸を閉める。
「谷子呂。」
微かに山吹の声。振り向けば、離れの縁側に山吹が座っている。月の光に青く輝く山吹が、縁側から浮き上がっている様だ。
「やま…」
思わず谷子呂の口から出た大きな声を、山吹は自分の口元に人差し指を押し当てて制する。谷子呂は周囲の気配を窺う。幸い谷子呂の声に気付いた者は居ない様だ。和正は竹囲いの向こうで誰か来ないか見張りをしてくれている。
「父上に言われて出て行くんでしょ?」
二人は小声で言葉を交わす。
「そう。修行をして来いと言われた。」
期限は言われなかった。
「御免なさい。私のせいで、大変な事になっちゃった。」
「そうじゃない。おいらが勝手に笛なんか作ったからいけないんだ。」
山吹は首を振る。
「やっぱり、私がちゃんと笛の事を伝えなかったから。」
「ねえ、そんなに自分を責めないでよ。おいらは大丈夫だから。しっかり修行して、ちゃんと戻って来るから。」
山吹は笛を首から外す。
「これを持って行って。」
「え、でも、これは…」
「谷子呂に私を忘れないでいてもらうための物が他に見付からないから、これを持っていて。父上には失くしたと言うから大丈夫。」
「そんな、また山吹が怒られちゃう。」
「平気だよ。それより、帰って来たら、それを吹いて私を呼んで。普通の人には聞こえない音しか出ないけど、私には聞こえるの。もし…、もしだけど、どうしても帰って来れないって分かったら、その時も、この笛を吹いて私を呼んで。」
山吹は谷子呂の手に笛を握らせる。谷子呂は手の中の笛に視線を落とす。
「谷子呂には音が聞こえなくても、諦めずにこの笛を吹いて。どんなに遠くで吹いても、きっと私の耳に届く。どんなに遠くても、きっと谷子呂に会いに行くから。」
離れていたのはひと月の間に過ぎない。けれど、その間の残酷過ぎる葛藤が、僅か六歳の娘を俄かに大人びさせてしまった。
「分かった。…分かったよ。必ず戻って来るよ。どんなになっても、どれだけ経っても、おいらは山吹に会いに戻って来る。」
「うん、戻って来てね。そうしたら、その笛を吹いて教えてね。あ…、笛を吹くと狗も来ちゃうけど。狗はその笛を吹く者を襲わない。その笛を吹く者に従う。だから怖がらないで。私は、狗と一緒に谷子呂の元に飛んで行くから。」
「おい、早くしろ。」
見張りをしていた和正が緊迫した、けれど潜めた声を出す。
「約束だ。おいらは、山吹を迎えに来る。絶対だ。絶対、絶対…」
「おい、もうやめろ、山吹は中に入れ。」
慌てた和正が竹囲いから入って来て、二人に迫る。和正は、持っていた二本の木刀の内の一本を谷子呂に握らせる。
「良いか、太刀の構えと言うのは、こう構えるんだ。相手に向かって正面に立つ。これが基本だ…」
竹囲いの向こうに人影が現れる。
「若、ここにいらっしゃいましたか。」
「よし、振って見ろ。」
和正は男の言葉を無視して、谷子呂に木刀を振る様に促す。
「困ります、勝手に谷子呂を連れ出したりしては。」
竹囲いの中に男が入って来る。
「何だ、こいつは武術の修行に行くのだろ。太刀の構えすら知らない様では、どんな躾をしていたんだと、笠階が馬鹿にされかねないぞ。」
「ご心配ありがとうございます。ですが、谷子呂を外に出さない様、宇木正様から固く言い付けられています。これでは私共が叱られてしまいます。連れて戻りますが、どうかご寛容下さい。」
「そうか、しょうがないな。…谷子呂、戻るぞ。」
「和正様、稽古をつけて頂き、ありがとうございました。」
谷子呂は、一つ年上の少年に深々と頭を下げた。
二日後、斎行大師と呼ばれる老人が、歩いて笠階の屋敷を訪れた。背は低いが、如何にも丈夫そうな胸板の厚い四角い体をしている。叱られたら、さぞかし怖いだろうと思わせる吊り上がったゲジゲジ眉にだみ声、酒を呑んだ様に赤ら顔の老人。今日から谷子呂はこの男と一緒に暮らす。
気合を入れ直さないといけない。
老人と会った時、直感的にそう思う。
「お前が谷子呂か。」
斎行大師が谷子呂を見つめる。目を逸らしたら負けだと、谷子呂も老人を見返す。
「支度は良いか。」
「はい。」
「ならば、行くぞ。」
出発前の会話はそれだけだった。二年居た笠階の屋敷を去る谷子呂を見送った者は、子供組の頭一人きり。何も期待していない谷子呂にはそれで充分だ。
斎行大師と谷子呂は、歩いて大師の庵に向かう。鷹ノ巣山の裾野を回り込み、郷巻領との境になる山地を尾根伝いにいくつも越えて行く。山で育った谷子呂でなければ、途中で音を上げる速さで大師は進む。二度野宿をした先、川に近い尾根の緩やかな斜面に、へばりつく様にして大師の庵が建っている。
斎行大師はそこで、谷子呂を鍛えた。術を知っていても、それだけでは闘いに勝てない。それを体現するだけの力がなければならない。術を体現できても、まだ勝てるとは限らない。対する相手に適う術が何か即座に感じ取らねばならない。つまりは、充分に身体能力を高め、あらゆる技を身に付け、更に、相手の特徴を的確に判断して、どう打ち崩すかを即断できなければならないと言う事だ。若い谷子呂はまず、体を鍛えに鍛えて、鍛えまくられる。力の強さよりも、全身のばねと、どんな姿勢でも崩れない体幹の強さが求められる。木の特徴を瞬時に判断して素早く登り、密生した林の中を、枝を揺らさずにすり抜ける。そんな訓練が何日も続く。毎日降っていた雪がやみ、腰が埋まる程深かった根雪も解ければ、季節は春になり、やがて夏になる。
頃合いは良しと大師が判断したのか、ある日から、武器の取り扱いを教え出す。太刀、槍、弓…それぞれの長所と弱点を教え、実際に扱って体感させる。だが、谷子呂が扱う武器として与えられたのは小刀だ。蕨手刀と呼ばれる、柄が緩やかに曲がった刀。それをいつも扱って手に馴染ませる。相手を背後から抱えて首を切る場合と、正面の敵に切りつける場合では、刃を向ける向きが違う。反りの無い刀でも、刀を持った時の蕨手の曲がり具合を体に覚え込ませれば、刃の向きを気にせずに瞬時に行動できる様になる。
蕨手刀を使って最初に与えられた課題は、丸太から像を彫り出す事。彫像家になるわけではない。像の出来栄えは二の次だ。そうやって蕨手刀を扱う感覚を手に覚え込ませる。次に大師が狩で仕留めた獲物の解体。血に慣れ、生き物の体の構造を知りながら、肉を切る感触を覚える。最後は、刃を殺して切れなくした蕨手刀を使って、大師を相手に襲撃する実践訓練を積む。
谷子呂が斎行大師から叩き込まれるのは、騎馬に乗った者同士が名乗り合い、一騎討ちをする武者の戦い方でも、騎馬武者に従う雑兵が主の馬に付き従って、相手を討ち取る手助けするやり方でもない。合戦とは無縁の人殺しの技能。主の命を受け、単身敵方に潜入し、要人を仕留める暗殺者になるための術を、自然と手足が動く様になるまで叩き込まれた。
こうして、斎行大師と二人きりの、人を殺めるための修行は十年に及んだ。谷子呂はこの十年で、しなやかな筋肉を身に纏った、長身の青年に成長した。毛が太く、好き勝手に渦を巻く黒々とした髪に、太い眉、腕にも脛にも伸びた太い毛が、彼を野生児然とさせている。生まれながらの大きな黒い目は、見る者を射すくめてしまう様な、危険な鋭さを持つ様になった。
「帰るぞ。」
山を閉ざしていた雪が解け、山道が使える様になったある日、突然斎行大師はそう言って、谷子呂を連れて歩き出す。十年前、二人で歩いて来た道程を逆に辿り、谷子呂は笠階の屋敷に戻った。門をくぐりながら、谷子呂は懐かしく周囲を見回す。門は記憶にある姿をとどめているが、風雨に晒されてそこらじゅう傷んでいる。庭の風景は、谷子呂の代わりに掃除をする者が居なかったのか、草木は伸び放題、落ち葉は溜まったままになっていて、時の流れを感じさせる。前から有った物は色褪せ、朽ちかけ、記憶に無い物が増えている。すれ違う人にも時の流れを感じる。見た事のある郎党や下人は十年分歳を取っている。あの頃、子供組で一緒だった者達も混じっているだろうが、余りに成長してしまい、誰が誰だか見当もつかない。ただ一つ変わっていないのは、彼等から谷子呂に向けられる冷たい視線だけ。
谷子呂は、斎行大師とともに母屋の一室に通される。そこで待っていたのは、笠階宇木正と和正の親子だった。宇木正は、一層腹が突き出た様に思える。つやつやしていた肌は緩み、歳を感じさせる。一方、生意気な餓鬼大将の様だった和正は、見事に成長し、落ち着いた若武者になっている。
谷子呂はうやうやしく頭を下げる。
「良く帰って来た。」力のこもった宇木正の声が響く。「大師殿、こやつの出来はどうですかな。」
「充分にお役に立てるかと。」
「そうですか。…谷子呂。」
「…はい。」
顔を上げた谷子呂が宇木正を見る。二人の視線がぶつかる。
「今日からお前は、笠階の目となり、或いは手となり、役目を果たせ。お前が身に付けた術を遺憾なく発揮してくれ。お前の字は『アカゲラ』だ。素性を隠し、姿を隠し、ひっきょう己の存在を無くして役目を果たして見せろ。昨日までの己を捨てた者として、お前を今日からアカゲラと呼ぶ。良いか。」
谷子呂は黙って頭を下げる。この笠階の家で、谷子呂はアカゲラとして、違う人生を歩み出す。
斎行大師は一人山に帰って行った。谷子呂は笠階の屋敷にある、郎党達が住まう小屋に居場所を与えられた。以来、谷子呂はアカゲラとして夜を走り、闇に潜んで宇木正に命じられた隠密の役を遂行する。必要であれば、敵の命を取る事も厭わない。目標は郷巻勢に限らない。時には、宇木正が気になる同じ一縄の家人の領地にも忍び込む。こうして陰で働き、笠階の屋敷の中でも存在を消した谷子呂を、笠階の者ですら気にする者は居なくなった。
屋敷に山吹の姿は無い。谷子呂が屋敷に戻って来る前に、宇木正が母親の露音と共に竹林の中の館に移住させていた。宇木正は、移住させる理由を山吹に説明した。
「郷巻との戦が直ぐにでもあるだろう。そうなれば、郷巻の軍勢が一縄勢の領地に攻め入って来るかも知れない。だから当分の間、大事を取ってお前達を避難させる。」
山吹は何も言わず、素直に従った。それ以来、山吹は侘しい竹林の中の館で、数人の下女にかしずかれ、母と二人でつましく暮らしている。訪ねて来るのは、時折宇木正が馬で顔を見せるだけ…。勘の良い山吹は、何となく気付いている。郷巻との戦に備えての引っ越しは建前。まだ一縄勢が戦いの準備も始めていない内から隠れなくても充分間に合う筈なのに。何か、山吹を屋敷の置いておきたくない理由が他にある。ただそれが、谷子呂の帰還と言う確証は持てずにいる。
もし、谷子呂が戻って来るのなら、きっと笛の音が聞こえる。
十六の山吹は音の聞こえる時を待っている。六歳の心を抱いたまま、竹林の館で時が来るのを待っている。




